異世界風土記 -迷宮の中に、魔獣のにおいに、もういちど異世界を見つける。私を見つけ……てたまるか!-

Ash

第1章 フリュゲリア地方・天翔祭

第1話 空飛ばすイベント

「空を夢見た者は、いつだって墜ちてきた。それでも、人は翼を求める」


 柔らかな海風の中、ローデンは独り言のようにそう呟いた。

 その声音には、千年を超える旅路だけが持つ、静かな実感が宿っている。


「ある世界では機械で。別の世界では魔法で。人々はその夢を手にしてきた……」


「はいはい。で、この世界はどうやって飛んでるんですか?」


 背後から澄んだ声がかけられた。

 小柄な少女――ルピナが、まぶしそうに空を仰ぎながら問いかける。


「まだなのだよ、ルピナ君。この世界では、大空への挑戦という偉大な夢が残されているのだよ」


 ローデンは振り返らず、両腕をゆるやかに広げた。

 空に語りかけるように、あるいは抱きしめようとするかのように。


「えっと、空を飛ぶお祭りの取材ですよね?」


「もちろんだとも!」


 勢いよく振り返ったローデンの瞳が異様なほど輝く。


「このフリュゲリア地方に伝わる『天翔祭』。それこそが我々の取材対象だ!」


 どこまでも真剣で、どこか危うい笑み。

 ローデンは大きく手を振り上げ、海へ突き出した丘の上を指さした。


「見たまえ! あの離陸台を!」


 示されるがままに目を向けたルピナの瞳は、次の瞬間驚愕により見開かれた。


 断崖絶壁の上にそびえる、巨大な木製の投石器カタパルト


「……先生。あれ、離陸台じゃなくて発射台じゃないんですか?」


「それこそが、この世界の選択なのだよ」


 ローデンは満足げに頷く。


「選択……ですか?」


「そう! 気球を作る布も、飛行機を組む技術も、浮遊魔法もない。それでも人は空を夢見る。鳥のようにこの大空を自由に駆け巡りたい……その果ての知恵が、あの投石器だ!」


 学者の顔と狂信者の顔を行き来するその姿に、ルピナは半眼でため息をもらした。


「いや、飛びませんよね? 飛ばすだけですよね?」


「美しく言えば、『己を空へ委ねる儀式』だよ」


「委ねすぎでは? 自由に駆け巡るなんて夢のまた夢ですよ」


「そうでもないさ。ほら、あれを見たまえ」


 ローデンが指した場所では、参加者らしき人々が準備をしていた。


 巨大な傘を広げる青年。

 両腕に板を括り付け、必死に羽ばたく男。

 ムササビのような格好で跳ねている者まで。


「自殺志願者の集まりですか?」


「伝統を守る挑戦者チャレンジャー、と呼んであげなさい」


 そんなこと言われても、ルピナには百歩譲っても芸人集団にしか見えない。

 つまり――


「伝統芸人?」


「そうだとも、ルピナ君。伝統とはある種の信仰であり、芸術もまた信仰から生まれる。実に尊いことだ」


 皮肉が届かないいつもの展開に、ルピナは肩をすくめた。

 そして、再び巨大投石器に目を向ける。


(でも、あれならド派手に打ち上げられそう……)


 無意識にポーチに手を添え、ゴクリと唾を飲みこむ。


「さて、取材を始めようか。祭りは明日だが、準備は進んでいるようだ」


「カメラ回します?」


 ルピナは魔導カメラを取り出す。


「もちろんだ。準備の光景も、職人の息遣いも、何気ない一言ですら物語になる。ドキュメンタリーとは日常の輝きをすくい取る芸術だからね」


 ローデンは少し先に見える会場に目を向けた。


 潮と草の香りを乗せた風が吹き抜ける。

 草原の緑、海の蒼、白い崖――鮮やかな色彩が視界を満たした。


「いい天気だが、辛くはないかい? ルピナ君」


「この程度なら平気です。ありがとうございます」


「辛い時はすぐに言いたまえよ。太陽は恵みであり、同時に処刑人でもある」


「むしろ、先生の格好の方が……暑くないですか?」


 常時羽織っているローデンの厚手のマントを、ルピナが指摘する。


「これはポリシーなのだよ。簡単には変えられん」


「まあ、知ってました」


「さあ、行くとしよう! 取材開始だ!」


「はーい、先生」


 人が空を夢見る物語が、いま静かに幕を開ける。

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