第2話【プランBはピスタチオの香り】

静寂。それはまるで、投げ売りされていた冷凍餃子が一斉に冷凍庫の扉を破って行進を始めたかのような、ありえない種類の静けさだった。俺を押さえつける巨漢の店員も、スマホを構えたバズキングTVも、そして何より俺自身も、スマホから流れた冷徹な声に魂を抜かれていた。


「プランB……?」


誰かが呟いた。それが全ての引き金だった。


「そうか!そういうことだったのか!」


俺の上から巨漢の圧力が消えた。見上げると、さっきまで俺を国際窃盗団と信じて疑わなかった元柔道家店員が、その巨躯をわなわなと震わせ、目に涙を浮かべているではないか。


「俺は、俺はなんてことを……!この方が、日本の未来を背負って戦う本物のエージェントだったとは……!」


いや、違う!俺が背負ってるのは一週間の疲労とピスタチオへの渇望だけだ!店員は深々と俺に頭を下げた。


「エージェント殿!先程の無礼、どうかお許しを!この命に代えても、あなたをお守りします!ここは私にお任せを!」


話が通じないどころか、あらぬ方向へ加速し始めた。彼は店の入り口に仁王立ちし、遅れて突入してきた町内会長のさすまたを素手で受け止めた。一方、バズキングTVは「世紀のスクープきたぁぁぁ!」と絶叫し、カメラを俺に固定している。スマホ画面に流れるコメントが、火事場のガソリンスタンドのように燃え上がっているのが見えた。『プランBって核ミサイルの発射コードか?』『アイスマンかっけえ』『店員、仲間になった!胸熱展開!』胸熱なのはアイスが溶けそうな俺の焦りだけだよ!


「バックアップが到着しました!」


店の外から、凛とした佐藤さんの声が響いた。見れば、コンビニの前はいつの間にかパトカーの赤色灯、野次馬、他の配信者のスマホライト、そしてなぜか停まっている黒塗りの高級車でごった返し、完全に包囲されていた。その混沌の中心に、迷彩服に身を包み、モデルガンのようなものを構えた屈強な男たちを率いた佐藤さんが立っていた。サバゲー仲間か!一番来ちゃいけない人たちが来た!


「これより、エージェント・アイスマン救出作戦を開始します!スモーク展開!」


佐藤さんの号令一下、仲間の一人が投げ込んだ筒から、猛烈な煙が吹き出した。ただの発煙筒だ!店内が視界ゼロのパニックに陥る。


「続け!スタングレネード!」


パンパンパン!と鼓膜を破るような炸裂音。大量の爆竹だ!阿鼻叫喚の地獄絵図と化した店内で、俺はただ一つ、この腕の中の『黄金の口どけ~ピスタチオの誘惑~』が溶けていないかだけを心配していた。次の瞬間、屈強な男たちに両脇を抱えられ、俺は担ぎ出される。


「さあ、行きますよエージェント・タナカ!これが『プランB』です!」


違う、俺のプランはAもBもなく「買って帰って食う」だけなんだ!俺の悲痛な心の叫びは、けたたましいサイレンと爆竹音にかき消された。


逃走劇の舞台は、夕暮れの商店街へと移っていた。俺はサバゲー集団に神輿のように担がれ、それを柔道家店員が護衛し、バズキングTVが密着取材するという、悪夢のパレードの主役を張っていた。背後からは「待てー!窃盗団!」「アイスマンを確保しろ!」と叫ぶ警官や町内会長の集団が迫ってくる。


「敵の追跡です!散開!」


佐藤さんの指示で、俺たちは鮮魚店の店先に飛び込んだ。俺はとっさにトロ箱の中に身を隠す。生臭い!だが、この冷気はアイスには好都合かもしれない!そんなことを考えていると、隣の呉服屋から垂れ下がっていた色鮮やかな反物を、佐藤さんがターザンロープよろしく掴んで向かいの屋根に飛び移った。何なんだあの人の身体能力は!


「エージェント殿、こちらへ!」


店員が指さしたのは、商店街の隅に停めてあった一台の電動アシスト付き自転車。見覚えがある。町内会長の愛車だ!


「これを!パワーモードに設定済みです!」


俺はアイスを小脇に抱え、店員が漕ぐ自転車の後ろに飛び乗った。猛烈な加速。暴走する電動アシスト自転車が、追っ手の警官たちをなぎ倒していく。やめてくれ!罪状がどんどん増えていく!俺のミッションは、ただピスタチオアイスを無事に家まで届けることだけなんだ!


どれほどの時間が経っただろうか。幾多の誤解と偶然、そして町内会長の犠牲(自転車)の果てに、俺は奇跡的に自宅アパートの前までたどり着いていた。仲間たちは「では次のポイントで!」などと物騒なことを言い残し、闇に消えていった。


満身創痍で自室のドアを開け(もはやドアノブなどない)、内側からチェーンをかける。ようやく訪れた安息。俺は床にへたり込み、震える手で『黄金の口どけ~ピスタチオの誘惑~』の蓋を開けた。ああ、俺の、俺だけのピスタチオ……。わずかに溶けかかっているが、まだ大丈夫だ。


スプーンを手に、至福の一口目を、ゆっくりと口に運ぶ。濃厚なピスタチオの香りが鼻腔をくすぐり、脳が幸福で満たされる――その次の瞬間。


カツン。


スプーンに、硬い何かが当たった。探ると、アイスの中から現れたのは、USBメモリほどの大きさの、冷たい金属製のカプセルだった。


呆然とする俺の背後から、静かな声がした。


「……やはり『それ』が当たりでしたか」


振り返る。そこには、いつの間にか部屋に侵入していた佐藤さんが立っていた。彼女はゆっくりと、常に顔の一部であったサングラスを外す。そこに現れたのは、今まで見たこともない、氷のように冷たい瞳だった。彼女はその瞳で、俺の手の中のカプセルを真っ直ぐに見つめている。


「自己紹介が遅れました。私は内閣情報調査室の佐藤です。本当のミッションを開始します、エージェント・タナカ」


彼女の右手には、黒光りする、消音器付きの拳銃が握られていた。


え?

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