たかがアイス一個で世界を敵に回す?件について

nii2

第1話【午後四時のアイスクリーム・ミッション】

午後三時五十五分。俺の全神経は、壁掛け時計の針に集中していた。カチ、カチ、と時を刻むその音は、決戦のゴングを告げるカウントダウンだ。今日の午後四時、近所のコンビニで発売される限定プレミアムアイス『黄金の口どけ~ピスタチオの誘惑~』。この一週間の激務は、すべてこの一口のためにあった。極限まで追い詰められた俺の脳は、ピスタチオと名状しがたい幸福な妄想で埋め尽くされていた。


「よしっ!」


鬨の声を上げ、俺、田中は財布を掴んで玄関へ向かった。勝利は目前。ドアノブに手をかけ、ひねる。


ガコンッ。


軽い、あまりにも軽い手応え。そして、俺の手には無残にもげたドアノブだけが残されていた。扉はびくともしない。アパートに引っ越して三年、一度も点検なんてしてなかったからか。よりによって、今この瞬間に壊れるとは!


嘘だろ。俺は部屋に閉じ込められた。時計は無情にも午後四時を指している。ピスタチオが、俺のピスタチオが溶けていく!一刻一秒を争う状況だというのに!


パニックに陥った俺は、最後の希望であるベランダへ走った。ここから隣室のベランダへ乗り移れば……!柵に足をかけた、まさにその時だった。


「お待ちしていました、エージェント・タナカ」


隣のベランダに、いつの間にか佐藤さんが立っていた。スパイ映画好きが高じて、日常生活でもサングラスを外さないご近所さんだ。ベランダの向こうで風にたなびく、色とりどりの洗濯物。そのコントラストが、やけにシュールだ。


「さ、佐藤さん!助けてください!ドアノブが、ドアノブが壊れて……!」


俺の必死の訴えに、佐藤さんはフッと口角を上げた。サングラスの奥の瞳が、きらりと光ったように見えた。


「了解しました。コードネーム『ノブ』が組織に消されたのですね。想定内の事態です」


いや、コードネームじゃなくてただの金属の塊だから!想定しないでくれ!そもそも組織って何だよ!俺の心のツッコミは、彼女には届かない。


「ご安心を。脱出プランは用意してあります。エージェント・タナカ」


そう言うと佐藤さんは、どこからか取り出した真っ白いシーツをバリバリと音を立てて引き裂き、手際よくロープを作り始めた。早すぎる。そして、鳩の餌を掴むと、階下に向かって勢いよくばら撒いた。


「行け、私の忠実なる翼たちよ!敵の目を欺くのです!」


バサバサと音を立てて鳩が群がる。やめてくれ。近所迷惑だし、敵とかいないから!これじゃまるで、俺が鳩を操って何か企んでるみたいじゃないか!


「さあ、このロープで降下を!時間は惜しい!」


もうどうにでもなれだ。俺はシーツ製ロープを握りしめ、鳩が舞うカオスな地上へと降り立った。着地に失敗し、植木鉢を派手に割ったところで、新たな刺客が現れた。


「そこな者、待てぃ!白昼堂々の空き巣か!」


ぎらつく眼光、手にはさすまた。町内会長だ。正義感の化身である彼は、俺を完全な悪党と認定したらしい。白いエプロン姿のその威圧感たるや、プロの警備員をも凌駕する。手にした水鉄砲から、謎の液体が発射される。しょっぱい。これ、清めの塩水だ!やめてくれ、目がしみる!


「やめてください!もう夕方ですよ。俺はただアイスを!限定ピスタチオを買いに……!」


弁明は届かない。その時、けたたましい声が響き渡った。


「うぇーい!リアル鬼ごっこ発生!現場からバズキングTVがお届けしまーす!」


スマホを構えた迷惑系配信者が、俺と町内会長のデッドヒートに乱入してきた。画面に俺の必死の形相がデカデカと映し出される。


「見てくださいこの目!これはただの空き巣じゃねえ!国際的な窃盗団のリーダーの目だ!コメント欄も『伝説のエージェント“アイスマン”だ』って盛り上がってまーす!」


アイスマン?不本意ながら、あながち間違ってはいないかもしれない。俺はいつの間にか、幻のダイヤ「北極星の涙」を狙う窃盗団のリーダーに仕立て上げられていた。いや、ピスタチオアイスを狙ってるだけだよ!


町内会長の執拗な追撃を振り切り、配信者の煽りにも負けず、俺は満身創痍でコンビニへと滑り込んだ。全身泥だらけ、心臓は破裂寸前。あった。冷凍ケースの中で、最後の一個が神々しい光を放っている。


『黄金の口どけ~ピスタチオの誘惑~』。


震える手でそれを掴んだ瞬間、背後から巨大な影が俺を包み込んだ。


「国際窃盗団『アイスマン』だな」


振り返ると、仁王立ちするエプロン姿の巨漢。元柔道家と噂のコンビニ店員だ。彼の持つスマホには、まさに今俺が映っているバズキングTVのライブ配信が流れていた。コメント欄が「逮捕キター!」「柔道家店員最強!」で埋め尽くされている。


次の瞬間、俺の体は宙を舞い、鮮やかな払い腰で床に叩きつけられた。受け身など取れるはずもない。だが、この手の中のアイスだけは、絶対に守り抜く。割れた植木鉢、塩水、鳩、そして払い腰。俺のピスタチオを巡る戦いは、なぜこんなことに。


万事休すか。床に押さえつけられ、意識が遠のきかけたその時。胸ポケットのスマホがけたたましく鳴り響いた。押さえつけられた拍子に通話ボタンが押され、スピーカーモードになってしまう。


静まり返った店内に、低い、冷徹な男の声が響き渡った。


「ターゲットの確保を確認。これより『プランB』に移行する。……よくやった、エージェント・タナカ」


え?


俺、巨漢の店員、そして遅れて乱入してきたバズキングTV。その場にいた全員が、凍りついた。


俺はただ、今日発売の限定プレミアムアイスを買いに来ただけだ。



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