第十章 第一話 旅行
湯気がまだ立ちのぼる夕食の食卓。
箸をそっと置き、惠美は真剣な面持ちで口を開いた。
「ねえ、お母さん。私も北京に行きたいの……」
貴子の手が止まる。
読みかけていた書類の角が、わずかに震えた。
顔を上げると、娘の真っ直ぐな視線がそこにあった。
「えっ……どうしたの? 急に……」
「もうすぐ休みに入るし……。お母さんと一緒に行きたいの。」
短い沈黙が流れる。
――
今回の中国取引の正式契約が決まり、
貴子が直接、北京本社へ出向くことになっていた。
重要案件の最終調整。その責任を任されたのだ。
「お願いだから……連れて行って。」
惠美の声には、いつもの落ち着いた響きの奥に、揺るぎない決意があった。
貴子は、ふと数日前のことを思い出す。
――商談の終わりに、相手が丁寧に受け取った一枚の書。
『
筆の力強さと静けさ。
その八文字はいまも、胸の奥に鮮やかに刻まれている。
貴子はそっと笑みを浮かべ、目を細めた。
「……あの字、恵美が書いたのね。驚いたわ。まさか、そんな腕前があるなんて。」
惠美の肩が、わずかに跳ねた。
目線をそらした横顔が、少しだけ赤い。
(昔は筆を取れば、戦の記録を残すためだった。
まさか今、その筆で家族を守る日が来ようとは……)
貴子は改めて娘を見つめ、柔らかく言った。
「本当に助かったのよ。
契約が決まったのは、あの書のおかげだって皆が言ってた。
……でもね――」
その続きを言おうとした瞬間、惠美が顔を上げた。
そして、もうひとりを見据える。
「父さんも一緒に。」
食卓に、かすかな音が響く。
誠一のスープスプーンが皿の縁に当たり、揺れた。
「え、え? 俺も?」
眼鏡の奥で、瞳が泳ぐ。
まるで突然あてられた生徒のように慌てて言葉を探した。
「いや、その……締め切りがあって、どうしても――」
「父さん!」
惠美の声が、静かに彼の言葉を断つ。
真っすぐで、温かく、しかし逃げ道を許さない響きだった。
「これは仕事じゃないよ。……家族のこと。
思い出して。私たち、いつから一緒に出かけてないの?」
誠一は口を閉じた。
その場の空気が、ゆっくりと静まり返る。
貴子は視線を落とし、スープをかき混ぜる。
いつもなら軽く流せる話題のはずだった。
けれど、娘の言葉が胸の奥を刺す。
誠一は、眼鏡を指で押し上げて下を向いた。
いつものように逃げる――はずだった。
だが、その瞬間。
惠美の瞳とぶつかる。
あまりにも澄んだ視線に、心臓がひとつ、強く跳ねた。
(……同じ陣に立ちながら、心が離れれば、いかなる城も崩れる。
娘は、俺を再び陣に引き戻そうとしているのか。)
誠一は小さく息を吐き、肩の力を抜く。
「……わかった。なんとか調整してみよう。」
その言葉には、まだ迷いが混ざっていたが、
それでも、確かな“前へ進む”意志があった。
貴子がゆっくりと顔を上げる。
目が合う。
照明の光が彼女の瞳に反射し、かすかに揺れた。
しばしの沈黙ののち、
彼女は小さく笑って呟く。
「……もう、仕方ないわね。
私は仕事だけど……あなたたちは観光気分でいいわ。
でも、準備はちゃんとしなさいよ!海外旅行は簡単じゃないんだから。」
「やった……!」
惠美の声が弾ける。
瞳が輝き、頬が少し紅潮している。
誠一も、照れくさそうに頭を掻いた。
「じゃあ、パスポート……どこにしまったっけな……」
笑いがこぼれる。
湯気が立ちのぼる食卓の上で、
3人の影がひとつに重なっていた。
(……かつて戦場で最も恐れたのは、矢でも刃でもなく――
仲間の心が離れ、陣が裂けることだった。
だが今、この家の陣は再びひとつになった。
――もしこれが、我が戦の果てに得たものなら。
それで、十分だ。)
夜の明かりが食卓を照らす。
温かい湯気の中で、
家族という名の小さな“陣”が、
ようやく、同じ方向を向いていた。
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