第六章 第二話 優しい嘘

「高橋、今日はマジすごかったね!」


「えー、あんな運動神経あったんだ? 全然気づかなかった!」


「なんか、真剣な顔してると……ちょっとカッコいいかも。」


 休み時間の廊下には、そんな声が散っていた。

 通りすがる女子たちがひそひそと笑い、時おりこちらを振り返る。

 その空気には、驚きと好奇、そして少しの羨望せんぼうが混ざっていた。


 惠美は一瞬だけ立ち止まり、静かに息を整える。

 目の端で群を見やりながらも、表情は変わらない。

 ただ、足取りがほんのわずか、迷うように揺れた。


 教室に戻ると、彩音の机の前で立ち止まる。


「お疲れ。」

 彩音は筆箱をしまいながら顔を上げ、にこっと笑った。

「今や“話題の人”だよ。男子の一部まで“沈黙のエース”とか言ってたし。」


「……われはただ、投げるを得手えてとし、避けるを心得こころえるのみ。」

 惠美は眉をひそめる。困惑半分こんわくはんぶん、諦め半分。


「それがすごいの!」

 彩音は笑いをこらえきれず、肩を揺らした。

「なんか……ほんと変わったよね。体育もそうだし、授業中も前より真面目だし。」


「国語は読やすく、歴史と地理は妙に親しみを覚える。だが――」


「だが?」


「洋文のじゅ難解なんかいにして、数の理は陰陽いんよう陣図じんずのごとし。目を通せば頭が痛む。」


「……つまり、“英語むずい”“数学意味わからん”ってことね?」

 彩音が吹き出した。


「その通り。」

 惠美は深くうなずき、真剣な顔で続ける。

「幸い、此の世はつるぎにていさおを競わず。でなければ、吾すでに筆を捨てて槍を取るところだ。」


「ふふっ、ほんとそういうとこ文系っぽいよね~。歴史とか超得意そう。」


「文の道……うむ、悪しからず。」


「いや、そこ真面目に考えなくていいから!」

 彩音は両手を振りながら笑う。

「でもさ、将来とか……考えてるの?」


 その問いは、何気ない調子で放たれた。

 けれど、その一言が空気をわずかに揺らす。


 惠美の視線が窓の外へと向かう。

 雲が流れ、光が淡く差し込む。

 その中で、李守義の声が心の底から静かに響いた。


 ――「将来……か。」


 いくさの世では、明日すら保証されぬ。

 学び舎の世では、数年先を思う。

 その差に、どこか夢のような遠さを感じた。


「未来のことなど、まだわからぬ。」

 

「まあ……でもさ、恵美なら、どんな未来でも大丈夫だと思うよ。」

 彩音は少し照れくさそうに笑いながら、

「一緒にがんばろ?」と付け足した。


「うむ。」


 短く返したその声は、どこか柔らかかった。


 休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴る。

 人のざわめきが戻り、机の音が教室に満ちた。


 彩音はスマホを手に取り、指先をそっと動かす。

 画面の光が頬を照らし、

 その瞳が、何か言いかけては飲み込むように揺れた。


「……あのね。」


「ん?」惠美が首を傾げる。


 彩音は一瞬だけ、唇を噛み、それでも笑おうとした。

「最近、夜の公園がライトアップされてるんだって。……すごく綺麗らしいよ。」


「そうか。」


「うん。……今度さ、見に行こ?」


 教室の外では、夕陽が沈みかけていた。

 橙色の光がカーテンを透かし、ふたりの間に揺れる。


 ――優しさとは、ときに最も柔らかな罠の名である。

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