第六章 第一話 狙われた背中

「――始めッ!」

 

 笛の音が空気を裂いた。

 次の瞬間、校庭が沸き立つ。

 掛け声と足音が交じり合い、風のような熱気が地面を揺らした。


 対面のチームから、ボールが放たれた。

 空を切る音が響き、その軌道は、まるで弓から放たれた矢のようにまっすぐだった。


 惠美の瞳が鋭く光いた。

 思考よりも先に、身体が反応はんのうする。

 足先が砂をかすめ、腰をひねる――

 髪の先をかすめて、ボールが通り抜けた。


 一瞬、世界が静まる。

 砂の匂いと風の音だけが、耳に残った。


 呼吸が止まる。

 次の瞬間――もう動いていた。


 転がるボールを拾い上げ、指先で感触を確かめる。

 掌の中、木の皮のざらつきと重み。

 その手が、しなやかに弧を描く。


 風を裂く音。

 ボールは閃光のように宙を走り、

 まぶしいほどの弧を描いて――

 相手の胸を正確に撃ち抜いた。


 「ッ――!」

 

 鈍い衝撃音が遅れて響き、空気が一瞬止まる。

 相手の男子が息を呑む間もなく、胸を押さえて数歩よろめいた。

 そのまま足元を崩し、ボールが地面に転がる。


 ――ドン。

 弾む音が合図のように、

 周囲から一斉に歓声かんせいが爆発した。


「うわっ!」

「すげぇ……」

「高橋、マジで強くね!?」


 歓声とどよめきが校庭を駆け抜ける。

 その中心で、惠美は微動だにしなかった。


 汗ひとつかかず、呼吸は乱れない。

 ただ、淡々たんたんと次の動きを見据えている。

 彼女の構えは無駄がなく、しなやかで、

 それでいて――どこか張りつめた緊張をはらんでいた。


 李守義りしゅぎの声が、心の奥で静かに響く。


「学び舎のたわむれといえど、これもまたいくさ

 矢を皮球に換え、戦鼓せんこを笑いに変える。

 攻めに理あり、退くに節あり……まこと、見事な陣法じんぽうよ。」


 ――その時。


 校庭の隅、三つの影が並んでいた。


 佐々木綾香は腕を組み、苛立いらだちを隠そうともせず、

 指先でリズムを刻むように腕をたたいていた。


「……チッ。何よあれ。人前で調子乗ってんじゃないわよ。」


 森下里奈は髪を指でくるくるいじりながら、

 欄干らんかんにもたれて笑う。


「でもさ、ちょっとカッコよくない~?

 あのフォーム、なんかスポアニのヒロインって感じ~」


「はぁ!? あんたまで何言ってんの!」

 

「冗談よ、冗談。」

 

 高村紗希は二人より少し後ろに立ち、無言のまま空を見上げている。


「……もう、関わらないほうがいいと思う。」


「何それ、ビビってんの?」

 綾香が鼻で笑う。


「別に……どうでもいい」


「ふん、相変わらず冷めてるわね。」

 綾香は小さく舌打ちし、

「……でもさ、学校じゃ手を出せなくても、やり方はいくらでもある。」


「え、なにそれ~? まさか外の人、使う気?」


 綾香の唇がゆがむ。

「ちょっと“特別”なやり方で、あの子にお勉強してもらうだけ。」


「うっわ~、出た!出た!」

 里奈はわざとらしくため息をついて笑った。


 一方の紗希は、沈黙を保ったまま視線を戻す。


 校庭の中央。

 光が雲の切れ間から差し込み、惠美の姿を照らしていた。


 白いシャツが揺れ、風が髪を舞わせる。

 その背筋はまっすぐで、どこか痛いほどの静けさを帯びている。


 ――あの掃帚ほうきの一撃、脳裏に焼きついて離れない。

 迷いもなく、鋭く、そして美しかった。


 あれは“見せる力”じゃない。

 “生きるための力”だ。


 紗希は唇を噛み、わずかに目を伏せる。


 再びボールが放たれる。

 風を切る音が走り抜け、惠美の髪が揺れる。


 その瞳は、まるで戦場いくさばを見据えるしょうのようだった。

 静かで、冷たく、

 それでいて――誰よりも、強かった。

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