第四章 第一話 中二病の挨拶

 朝の空は眠そうに曇っていた。

 どんよりとした雲が校舎の上に重くのしかかり、空気まで息苦しい。

 光は窓を抜けきれず、教室の空気には薄く湿気しっけただよっている。

 まるで、あらしの前の静けさだった。


 ガラリ、と扉が開く。

 惠美は、昨日と変わらぬ静かな足取りで教室へ入った。

 背筋せすじはまっすぐ、顔には一片いっぺんの迷いもない。


「……おはよ、怪物女。」


 最初に口を開いたのは森下里奈。

 机に肘をつき、スマホをくるくる回しながら、赤いネイルをコンと鳴らす。

 その笑いは甘く、けれどとげを含んでいた。


 惠美は何も言わない。

 まっすぐ自分の席へ歩き、椅子を引く音だけが静かに響く。


「LINE、既読スルーとかマジありえなくない? あんなバズってたのに~」

 机の上に足を乗せ、佐々木綾香が小首こくびかしげる。

「怒ってんの? 自分でドヤってたくせに、“This is a pen”とか~。マジ笑えるんだけど。」


 わざと高い声で真似る。

 その場の笑いが、ぱちぱちと火花ひばなのように広がった。


 高村紗希は壁際かべぎわに寄りかかり、無言むごんのまま冷ややかな視線を投げる。

 言葉を発せずとも、その眼差まなざしだけで空気をするどく凍らせた。


 惠美は鞄を置き、静かに教科書を開く。

 ページをめくる音が、やけに大きく響いた。


「……何その態度?」

 綾香の声が低く沈む。

「昨日は“中二病”全開ぜんかいでノってたくせに、今日は無視? 舐めてんの?」


 彼女が机に手を置いた瞬間――パン、と乾いた音。

 紗希の手が机を叩きつけた。


 紙が舞い、教室の空気が一瞬止まる。


 惠美はゆっくりと顔を上げた。

 机に落ちた視線が、次に紗希を捕らえる。

 黒曜石こくようせきのような瞳に、冷たい光が宿った。


「……それが、貴様きさまらの“挨拶”か?」


 ――なるほど。現世げんせの“礼法れいほう”とは、随分ずいぶん粗野そやなものだな。

 こぶしまじわすより、言葉ことばすか。どちらにせよ、ひんわらぬ。


 その声音はおどろくほど静かだった。

 だが、その静けさこそが圧であり、教室の温度を一瞬で下げた。


「……は?」

 綾香が眉を吊り上げ、挑発的ちょうはつてきに笑う。

「なにそれ、キャラ変? ウケ狙い?」


 一歩、前へ。

 ヒールが床を叩く音が、緊張の弦を弾いた。

 周囲の生徒たちは息を潜め、ページをめくるフリをしながら様子をうかがう。


 惠美は――立ち上がった。

 その動作はゆるやかで、しかし一切いっさいの迷いがなかった。


 椅子の脚が床を擦り、金属の音が空気を裂く。

 朝の光が斜めに差し込み、彼女の背を縁取る。


 その姿は、まるで研ぎ澄まされたつるぎ

 長く、しなやかで、静かに構えたままを放つ。


「……っ」

 綾香が思わず息を呑む。

 昨日まで嘲っていた“怪物女”が、今はまるで別の存在のように見えた。


 紗希がゆっくり前に出る。

「…… やる気?」

 声は低く冷たいが、どこか焦りの色が滲む。


「違う。」

 惠美の返答へんとうは一瞬だった。

「私は、ただ立っただけだ。」


 わずかな間。

 惠美はゆっくりと周囲を見渡し、再び綾香の目を捉える。


「もし、それが“怖がっているか”を確かめたいだけなら――答えよう。」

 声は低く、しかしどこまでも澄んでいた。


「怖くなど、ない。」


 その言葉が放たれた瞬間、教室全体の空気が静止した。


 惠美は再び椅子に腰を下ろし、机の上のノートを整える。

「……もういいだろう。私は勉強がしたい。」


 淡々としたその声。

 けれど、言葉の一つ一つがやいばのように研ぎ澄まされていた。


「……調子乗ってんじゃねえよ。」

 綾香の顔があかに染まり、唇を噛む。

 だが、惠美はまるで相手にしていない。


 ノートの角を直し、ペンを揃え、静かに息を吐く。


 完全なる“無視”。


 冷たい静けさが、逆に力を持って教室を支配していた。

 周りの生徒たちは息を潜め、しかし目だけは動かす。

 好奇心と畏怖が交じる視線の中――

 スポットライトのように照らされていたのは、

 立ち尽くす三人のほうだった。


 そして誰もが思った。


 この瞬間、立場が逆転したのだ。

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