第三章 第二話 母のぬくもり

「カチャリ……」


 玄関げんかんの扉が静かに開く音が、夜の静寂せいじゃくをやわらかく響いた。


「ただいま。」


 高橋貴子たかはしたかこ――

 灰色はいいろのスーツに身をつつみ、肩から滑らせたコートのすそがふわりと揺れた。

 片手にはコンビニの袋。指の関節かんせつには、一日の重みがにじんでいる。


惠美めぐみ、今日……学校、大丈夫?」


 声はいつも通りおだやかだった。

 けれどそのおくには、職場しょくばりつめていた糸のゆるむ音が、かすかに混ざっていた。



 李守義りしゅぎはようやくうつつかえる。

 指先には、まだスマートフォンのぬるい熱が残っていた。

 外はすでにれ、窓の外には群青ぐんじょうやみ

 廊下ろうかかられるがやさしく揺れ、ここが戦場いくさばではなく――

「高橋惠美」という少女の部屋であることを、静かに思い出させた。


 階下かいかから、トントン、と靴音くつおとが近づいてくる。

 その一定いっていのリズムに、戦場いくさば鼓動こどうかぞえた記憶が、不意ふいかさなった。


「惠美、寝てるの?」


 母の声。

 柔らかいのに、不思議と胸が締めつけられる。

 李のてのひらに汗が滲んだ。


「……を呼ぶ、か。」

 くちびるがわずかに震える。

われ如何いかこたえん。」


 脳裏のうりをよぎるのは、あの転生の日。

 “これからは、よろしく頼む――”

 あの声が、今も深く胸の奥で鳴っている。


すで俗世ぞくせたくされた以上、退しりぞくことかなわぬ。

 小事しょうじじて何をす。

 ゆうかたらんとほっするならば――まず、このとびらの前にてためされよう。」



 扉が静かに開いた。

 光が流れ込み、空気がふわりと温度を変える。


「……今日は行けなかった。でも、明日は……必ず行く。」


 その言葉に、高橋貴子の目が一瞬だけ見開かれた。

 けれど、すぐに表情をほころばせる。

「そう。……無理はしないでね。」


 彼女の笑顔には、疲れを隠しきれぬ影が差していた。

 それでも――娘を想う優しさが、確かにそこに宿っていた。


 そっと伸ばされた手が惠美の髪をでる。

 そのてのひらぬくもりには、日々の戦いでれた皮膚ひふの硬さと、

 それでも誰かを守ろうとする強さがあった。


「お父さん、まだ出張中だからね。今日は簡単にお弁当。お腹、空いたでしょ?」


 声がやわらかくひびく。

 どこか寂しげで、それでも笑おうとするその姿は、

 戦場いくさばがえりの兵士つわものが見せる微笑に似ていた。



 惠美はただ、静かにうなずく。

 その目は、あかりにらされた母の横顔よこがおとどまる。

 そこにきざまれた細い皺しわは、年月ねんげつあかしでもあり――戦いの勲章くんしょうのようだった。


 その刹那せつな、記憶の奥底おくそこがざわめいた。


 食卓にしず沈黙ちんもく

 夜更よふけのあらそい。

 そして、暗い部屋の隅で膝をかかえ、耳をふさぐ少女。


 ――あれは、この身体の記憶。


 李は目を伏せた。

 息を吸い込み、ゆっくりと吐く。


「……この母もまた、おのれ戦場いくさばに立つものか。」


 彼の胸中きょうちゅうに、静かな敬意けいいまれていた。

 それは武人ぶじんとしての感情であり、同じ“戦う者”への、純粋じゅんすい共鳴きょうめいだった。


 ⸻


 気づけば、学校を出て家の前に立っていた。

 玄関灯げんかんとうがともり、夕闇ゆうやみの中にほのかににじんでいる。


 ――そうか、あれは転生てんせいの日の記憶。

 胸の奥に残っていたにぶいたみが、ようやく意味を持つ。


 息をととのえ、ドアノブに手をかけた。


「ただいま。」


 たったそれだけの言葉。

 けれど、口にした瞬間――胸の奥が不思議に温かくなる。


 この世界で生きる少女として、それは確かに“帰る”ための呪文じゅもんだった。


「おかえり、惠美めぐみ。」


 高橋貴子たかはしたかこが顔を出す。

 今はいつもより早い帰宅きたくだ。

 テーブルには、湯気ゆげを立てる味噌汁みそしる煮魚にざかな

 白いご飯の香りが部屋いっぱいに広がる。


「今日はね、ちょっと早く終わったの。だから久しぶりにちゃんと作ってみたの。……学校、お疲れさま。」



 李守義りしゅぎ胸奥きょうおうで静かに呟く。

「母の心、疲れをかかえながらも娘の変化へんか見逃みのがさぬとは……。これぞ母性ぼせいつるぎなり。」



 晩ご飯の時間、穏やかで温かかった。

 はしの音、味噌の香り、柔らかな湯気。

 それらが、長く冷え切っていたこの家の空気を少しずつ温めていった。


「久しぶりの学校、どうだった?」


「……うん。大丈夫。」


「無理しないでね。どんな時も、お母さんは味方みかただから。」


 その一言に、惠美の瞳がふと揺れる。

 そして静かに頷く。


「……ありがとう、母上ははうえ。」


 貴子は目をぱちくりさせ、すぐに照れ隠しのように笑った。

「なにそれ、変な言い方ね。」


 李守義りしゅぎは胸の奥で微笑ほほえむ。

「このからだ、彼女のたましいを継ぎし者。ならば、守るべきたさねば。」




 夕食が終わり、貴子たかこ食器しょっき片付かたづけながら声をかけた。


「惠美、お風呂入ってきなさい。」


「ふ、風呂……か。」


 李の身体がびくりと震える。


「これぞ修羅場しゅらば……!」


「なに言ってるの? 早く入りなさい。」


「……御意ぎょい。」




 浴室よくしつあかりは白く、湯気ゆげが立ちこめている。

 かがみうつるのは、細く白い少女の身体。

 裸足はだし足首あしくび華奢きゃしゃで、肌は月の光のように淡く輝いていた。


 李はそっと目をらす。


われ、かつては弓馬刀槍きゅうばとうそうを振るい、血煙ちけむりにまみれても恐れぬ男なり。

 ――されど今、湯を浴びること、これほどの試練しれんがあろうとは……。」


 熱い湯が肩を打ち、皮膚にみる。

 鏡に映る少女の姿に、李は思わず息を止めた。


「……からだ、借り物にあらず。たましいかつ宿主しゅくしゅ

 ならばうやまい、まもらねばなるまい。」


 タオルを締め直し、深く息を吸い込む。

失礼仕しつれいつかまつる。これも修行しゅぎょう一環いっかんなり。」




 湯の流れが音を立て、白いきりのような蒸気じょうき浴室よくしつたす。

 その中で、少女の姿と武人ぶじんたましいが静かに重なり合う。

 指先が髪をき、手が首筋をなぞる。

 まるで愛用あいようかたなみがくように、一動いちどう一動いちどう丁寧ていねいだった。


「――心を映すは、身のきよさなり。おのれととのえ、明日をむかう。

 それもまた、いくさ礼法れいほうなり。」


 湯気の向こう、李の眼差まなざしにはもはやおびえはなかった。

 ただ、静かで確かな覚悟かくごだけが残っていた。



 今宵こよい、彼は初めて――

「高橋惠美」として生きることを、ほんの少しだけ受け入れた。

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