【週4】The Lost City ー路地裏の亡霊たちー
Nova
第1部:Fade in Black
プロローグ:追われるものの末路
「はぁ、はぁ、はぁ……!」何者かが暗い路地を走り抜ける。
「まだ追ってくんのかよっ!」息を切らせて走り続けている。
時折後ろを振り返り、ひび割れた石にけつまづいて転びそうになりながらも、明るいところを避けるようにして、やせ細った男は必至の形相で逃げていた。
「無駄だよ。」小さく、けれどはっきりと聞こえる追跡者の男の声は、闇そのものがささやくかのように空気中に溶けなじみ、逃げる男の心臓をさらに強く緩やかに締め上げる。
その声に抑揚はなく、感情もなく、ただ淡々と、荒れた石畳の道の上を這ってくるかのように響いていた。考えている場合ではないのだが、その声は冷ややかながらも柔らかく、優しくなでるようでいて、男は思わず止めそうになる足を絶えず動かし続けなければならなくなった。
「はぁ、はぁ……はぁ。」男は息も絶え絶えになりながら走り続ける。
いったいどこまで逃げればいいのだろう。どこまで逃げれば、追跡者の男は諦めて見逃してくれるのだろうか。男は意味もなくぐるぐると考え続けるものの、その考えがまさしく無意味な徒労に終わるであろうことを、なんとなくではなくはっきりと確信に近い形で認識していた。追跡者の男はゆっくりと足を進め、しかし時折速度を速め、逃げる男を生かしながらも、わざとらしく余裕をもって追い詰めている。
とても静かな夜だった。有刺鉄線で囲われたLost Cityの一角、誰もが掃きだめと揶揄する荒れ果てたその区画で、男は何の望みもないようなチェイスを繰り広げていた。いや、実際のところ男はただ、柵の中に追い込まれている羊に過ぎない。男がヒツジならば相手はイヌか、あるいはオオカミか、そんなことすらどうでもいい。男の現状は極めて絶望的で、チカチカと瞬く切れかけた街灯の電球と同じように、つかの間の生を許されているに過ぎないのである。
「はぁ……クッソ。」男の足は限界だった。
さっきから何度目かもわからないほど石につまづいてはもつれていた。心臓も限界だった。喉が焼け付くようにひりひりと痛んでいる。そもそも今日はひと際冷える夜だった。吐く息は白く、吸い込む空気が肺から熱を奪い取る。
男は逃げることを諦めて、どうにか隠れてやり過ごせないかと考えた。いや、単純に休みたいだけだった。追跡者の男はずっと緩慢に追いかけてくる。それがまるで本気ではないように思えて、もしかしたらと僅かな希望を抱かせるに至ったのだった。
男は後ろを振り返る。闇の中、街灯の照らす路地へと目を凝らす。何も見えない。男は思わずほっとした。 道は広くもないが狭くもなく、時折電球の切れた街灯を挟みながらもぽつぽつと明かりに照らされている。真っ暗な路地だ。しかしやけに大きな月が頭上にあって、煌々と青白い光を放ちながら、ぼろぼろのレンガの家が立ち並ぶこの薄汚れた裏路地を照らし出していた。
「ちっ。パージウエストまでくりゃなんとかなるかと思ったが、無駄だったか……。こんなことならセントラルスクエアでおとなしくしときゃよかったぜ。」男はジャケットの胸ポケットから煙草を取り出し、火をつけながらつぶやいた。
両サイドに立ち並ぶ家々は、もはや吹きっさらしの廃墟と化していて、人が住んでいるとは到底思えないようなありさまだ。それでも、気を張り巡らせれば、時折こちらを窺うかのような気配が感じられる。
「はっ、まるでネズミみてぇなやつらだな。」男のそれは、自分にも向けた皮肉のような呟きだった。
「俺たちはネズミだ。俺たちは低空飛行のカラスだ。翼をもがれてどこへも行けず、手足をばたつかせながら死んで行けってか?ははっ。」男は自嘲気味に笑ってみせた。誰へでもなく自分自身にと、煩わしくも上から照らす、あの忌々しい月へと向けて。
「はぁ。しっかしどこもかしこも住めたもんじゃねぇな。パージウエストの住宅街はよ。けどまぁ、今は文句言っても仕方がねぇ。ちょいと休ませてもらうとするぜ。」男は寒さに腕をさすりながら、棒のように突っ張った足を引きずり、廃屋の中へと足を進めた。
その家はそれなりの広さがあるようで、まだ形の残った家具がいくつか残っているのが目に入る。しかし男が一歩進むたびに、どこからともなくカサカサと音がした。本物のネズミかあるいは虫の類が、そこかしこを歩き回っているのだろうと男は思った。
「はぁまったく。こんなとこで夜を越すなんざまっぴらごめんだと言いてぇとこだが……。」男は、もはや何度目かもわからないようなため息をついた。
煙草をくわえる唇は青白く変色し、手足は冷たく冷え切って、体が小刻みに震えている。男は擦り切れたジャケットの前を抱き合わせるようにして、ぐいっと巻き付けるように引っ張った。
「あぁ、寒ぃ。」男はかろうじて形の残ったソファへと向かい腰かける。
「ったく、なんだって俺がこんな目に……。それもこれも全部あいつのせいなんだ。明日戻ったら、ぜってぇにただじゃおかねぇからな。」憂さを晴らすようにひと際深く煙草を吸って、煙を吐いた。
男は流れ者のハッカーから得た情報を使って、治安管理局『月影』の武器庫へと盗みに入った。最近の月影は弱体化が著しく、セキュリティにまで手が回せないと聞いていた。実際のところ侵入は容易だったし、ブツも難なく手に入る。さらにその晩の酒は、驚くほどに美味かった。しかしながら現実というのは非情なものだ。男はそのハッカーに売られ、今は月影の放った刺客に追われている真っ最中だった。
「情報屋は信用するなと言ったもんだが、こうも分かりやすくしてやられるとはな。しかしまぁなんというか、こんな夜でも煙草がしけってねぇのは幸いだ。」男はかすかな笑いを漏らし、ようやく安堵した表情を浮かべながら、もう一度深く煙草を味わった。
ここまでの間も常に気を張り巡らせてはいたものの、男を狙う死神の足音は聞こえない。時折どこかで人の動く気配がするものの、こんなに寒い夜では、いくら気性の荒いパージウエストの住人と言えども、縮こまって身を潜めざるを得ないのだろう。
「くそっ、腹が減ったぜ。」安心した男は、その日自分が何も食べられていないことを思い出した。
「まったくいつもなら、ソルティノースのしけた酒場で安いフィッシュアンドチップスぐらいにはありつけるってのに、ついてねぇ。」男は再び深くため息をつき、苦々しく顔を歪めた。
「休憩は終わった?」突如、背後から降って湧いたように声がした。男の心臓は大きく跳ね上がる。振り返るとそこには細身の人影が立っていた。
「んなっ。」いったいどこから、と言おうとした男の喉から勢いよく血が噴き出した。 「かっ、はっ……!」刃物で切り付けられたことに気づき、男は慌てて喉を抑える。
なんとか立ち上がり、距離を取ろうとするものの、あまりにもきれいに切り裂かれた喉元は痛みを伴う暇もなく、男はふらふらと後退り、そのまま膝から床へと崩れ落ちた。
男の目に映っているのはフードのついたジャケットを着た細身の男。この街では珍しい明るいオレンジ色の髪の毛に、淡く発光するかのような緑の瞳。そして手に持っている銀色のナイフは、今しがた切り付けた男の血で赤く濡れ、月明りを受けて鈍く光り輝いている。気だるげに男を見下ろすその姿はどこかで見覚えがあるようで。
「お前は、殺し屋ぁ……カワセ……ミ……。」かろうじて喉から発せられた声は、追跡者の男の通り名だった。
「そうだけど、何。」それは質問では決してなく、あとはもう男が動かなくなるのを待っているだけの追跡者からの、ただの気まぐれな返答だった。
ドサリ。軽く音を立てて男の体が地面に倒れる。ほんの僅かな反響の後、冷たい静寂が辺りを包む。カワセミと呼ばれた追跡者、もとい殺し屋は、何の感慨もなくその男を見下ろしていた。火災が発生しないよう煙草の燃えかすを靴の底で踏み消し、さらにその足で男の頭を傾ける。見開かれた瞳孔を確認したカワセミは、ジャケットのポケットから手のひらサイズの端末を取り出した。ナイフをふともものホルダーにしまうと、逆の手で端末の画面を操作し、自身の耳元へと近づけた
。
「……もしもし、リンドウ?あぁ、月影から依頼された男の処理、終わったよ。そう、パージウエストの5番街。そうだよ。タグの位置情報から辿ってくれる?死体処理。そう、確認して。……あぁ、報酬はいつも通りで。よろしく。」カワセミは淡々と端末の向こうに向かって話し続ける。
「そうだね、今日は月が明るい。うっとおしいくらいには。」カワセミはいつもよりひと際明るく輝いている月を、煩わしそうに見上げている。
「それでも届かない場所はある。仕事に支障はきたさない。」カワセミは一瞬軽く目を細めたものの、またいつも通りの無表情へと戻っていった。
そうだ、これが日常だ。なんてことはない。命を張ったチェイスも、血に濡れた路地も、道端に転がる死体も、何一つ真新しいことなんかにはなりえない。弱き者も強き者も、皆等しくこの薄汚れた街で生きている。―Lost City、この街は誰のことも守らない。誰のことも救わない。
けれどそれでいい、とカワセミは思った。それでいい。誰もが等しく平等に、理不尽の中を生きている。見上げた月はほんの少し陰り、夜も盛りを越えた路地裏は、徐々に白く深い霧に包まれていく。もう少しで朝が来る。それでも何も変わらない。今日も明日も、特に変わり映えのしない毎日が、淡々と塗り重ねられていくだけだ。
カワセミは、すっかり霧に包まれてしまった石畳の道を歩き始めた。大して眠くはなかったが、少しでも寝ておかないとリンドウがうるさいだろう。リンドウは、この街に来てから何かと世話を焼いてくる人間の一人だが、カワセミは、彼を通じて仕事を受ける以外のつながりを、持とうと思ったことは一度もなかった。それでもなぜかリンドウの心遣いは、無下にはできないという感覚がある。
ふぅ、とカワセミは息を吐き、軽く肩を抑えて首を伸ばした。そうして先の見えないほど深く濃い霧の中を、一人淡々と歩んでいくのであった。
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