保育士の憂鬱
森の ゆう
第1話― 絵の具とカオスと、園児たち ―
朝の保育園は、すでに戦場だった。
「先生ー! のりが手についたー!」
「まなちゃん、それ顔にもついてる!」
「たけるくん、絵の具は壁に塗るものじゃないよ!」
園児たちの叫びが、爆発音のように次々と飛び交う。
保育士・**藤原みのり(29)**は、今日も笑顔を引きつらせながらその中心に立っていた。
——これが私の職場。子どもの楽園、そして大人の地獄。
「おはようございます〜」
優雅に現れたのは、パートの山口先生。いつも10分遅刻、でもなぜか誰も注意しない。
「みのり先生、また早いのねえ。若いって素敵〜」
「……いえ、昨日から帰ってないだけです」
「えっ?」
昨晩、年度末の壁面飾りの準備が終わらず、園で夜を明かしたのだ。
職員室の隅のソファで仮眠を取り、朝はそのまま園児を迎えた。
夢の中でも絵の具の匂いがしていた。
「今日のテーマは“春のお花畑”です!」
笑顔で宣言したものの、すでに戦線は崩壊していた。
「先生ー! お花じゃなくてゴジラ描いていい?」
「いいけど、お花の中にね」
「じゃあ火を吐く花にする!」
……芸術に自由を与えすぎたかもしれない。
隣のクラスからは、主任保育士の怒声が聞こえてきた。
「だれ!? お昼寝布団にスライム持ち込んだの!」
園全体がカオスの渦に巻き込まれている。
そんな中、みのりのスマホが震えた。
画面には、母からのLINE——
《あんた、いつになったら結婚するの?》
《保育士って大変そうね。もっと楽な仕事ないの?》
……やめて、今まさに楽どころじゃないの。
昼食の時間。
「いただきます!」の掛け声とともに、スプーンが乱舞する。
スープはテーブルに広がり、カレーは空を飛び、牛乳は予想外の方向へ。
「先生、牛乳こぼれた!」
「大丈夫、大丈夫。人生も時々こぼれるの」
「じんせい?」
「……今はまだ知らなくていいわ」
午後、やっと園児が昼寝に入る。
部屋中に穏やかな寝息が広がり、静寂が戻る——と思いきや、
「みのり先生、主任が呼んでます」
と山口先生がひょっこり顔を出した。
「(終わった……)」
呼び出しの理由は大体ひとつ。「提出物が遅い」か「報告書のフォーマットが違う」だ。
主任室のドアを開けると、主任が腕を組んでいた。
「藤原先生、春の行事計画、提出は明日までよ」
「え? 昨日じゃなかったんですか?」
「昨日“も”締切だったけど、再提出期限が明日」
「……再々提出はありますか?」
「あるわよ」
(ホラーより怖い。)
夕方。保護者の迎えが始まり、園はまたざわめきに包まれる。
「先生〜、今日もありがとうございました〜」
笑顔で帰る親子を見送りながら、みのりはふと思う。
——この仕事、向いてるのかな。
でも、教室の隅で寝ぼけまなこの園児がつぶやいた。
「みのりせんせい、だいすき」
その瞬間、心の疲れが少しだけ溶けた。
「……ずるいよね、子どもって。」
夜の園庭。
みのりは空を見上げた。
満月が浮かび、薄く笑っている。
明日も、きっとカオス。でも、たぶん笑える。
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