夏の残り香

@Umi1108

第1話

今書いている「湯田温泉記」の休憩代わりに、短編を一つ書きました。

来週からはまた「湯田温泉記」の続きを投稿します。



 ある日の昼下がり。最近は秋風が寒さを帯び始め、日が落ちるのが早くなってきた。遠くから救急車のサイレンの音が響いて来る。その音の合間、微かに鳩の鳴く声が聞こえる。そろそろかしら、と京子はベランダに向かう。きっとお腹を空かせて待っているに違いない。小さな義務感が京子の足を軽くする。夫が仕事に行っている間、鳩に餌を与えることが、彼女の趣味だった。いつから始めたことなのかは分からない。そもそも私にそんな趣味はあったかしらと思いながら、硝子戸を横へスライドする。

 すると、淡く黄色に染まった日の光に射抜かれる。京子は目を細めた。しかし、すぐに慣れてきて、町全体を包む秋の色に見入る。京子がベランダに出ると、一羽の白い鳩がどこからともなく飛んでくる。さっきの声はこの子かしらと京子は思う。初めは欄干の隅に遠慮がちに止まり、こちらの様子をチラチラと窺う。それから少しずつ、小さな足で歩いて来る。

 一羽目の鳩が京子の目の前まで辿り着くと、バサバサという大きな羽音と共に残りの鳩達が飛んでくる。

「取り合わなくても、ちゃんと皆の分はあるのよ。」

京子は我先にと飛び込む鳩を宥める。どこまでも深く澄み渡る秋の空を、所々ゆったりと流れて行く雲が白く切り取る。両手で器を抱え、羽ばたく鳩と共に陽光に照らされる様は、それだけで一級の絵画になり得ただろう。

 通りの先から、一陣の風が京子のいるベランダを通り抜ける。干してあった純白のリンネルのシーツと共に、京子の長い黒髪が柔らかく翻る。するとまた、サイレンの音が聞こえてきた。その時、左手がチクッとした。一瞬の閃きのような痛みだった。京子は反射的に右目を閉じる。それに釣られて、右の口角が持ち上がる。この手の中にいる誰かが、誤って指をつついてしまったのかしらと京子は思った。

 しかし、真っ白だった鳩に徐々に紅い斑点が浮かび上がる。小さなその点はどんどん大きくなり、鳩の体を染め上げる。目の前で繰り広げられるあまりにおぞましい光景に、京子は慄き、手に持っていた器を落とす。重力に引かれた器が地面に触れた時、ガチャンという大きな音が空気を裂き、残っていた餌が床に飛び散る。真っ赤な鳩達はそんなことは物ともしないで、床に転がる餌をついばみ続ける。その狂気的なまでの食事への執着から目を背けたい一心で、京子は痛む自らの左手を見た。

 自分の見たものが信じられず、絶句する。そこには、あるべきはずの彼女の細く白い人差し指と薬指が無いのだ。声が出ない。その代わりに血だけが滴り続ける。京子はまた鳩を見る。散らばった餌の中に、自分のものだったと思しき指が見える。僅かな痒みを伴う強烈な痛みに、京子は目を覚ました。

 真っ暗だが、仄かな月明かりが窓から差し込んでいる。そのおかげで、ここがいつもの自分の部屋だと分かる。さっきのは夢だったのだと京子は安堵し、胸を撫で下ろす。しかし、今しがた見た恐ろしい光景を夢にするため、京子は自分の左手を見る。

 そこには、夢の中で食い千切られた指が元通りくっついていた。京子はホッとした。すると突然、今度は夢とは反転した感覚に襲われた。左手の薬指と人差し指がとてつもなく痒い。そして、若干の痛みもある。不愉快な夢とは決別して、完全に覚醒した意識で再度左手の指を確かめる。よく見えないので、部屋の明かりを点ける。すると、薬指と人差し指の一部が不自然に膨らんでいた。

 「蚊だ。」

長い夏が去り、明け方と夕暮れ時はすっかり冷え込むようになっていた。こんな時期にまだ蚊の生き残りがいたのかと、京子は驚いた。しかし、今はそんな感慨に耽っている場合ではない。

 蚊というものは、大抵腕や脚といった部位を刺す。だが、寒さのために着込んでいた京子は、僅かに顔と手の皮膚だけを露出していた。蚊は、そこを狙うより他は無かったのだ。

 彼女の指の細さに対して、蚊に刺された腫れは大きすぎる。感覚が集中して、どんどん痒みが増していく。掻きむしりたい衝動を何とか抑えて、京子は洗面所へと駆け込む。腫れた指を水で洗い流す。しかし、ここまで腫れ上がった指は手遅れだった。もう毒素を抽出することは叶わない。

 京子は焼け石に水と諦め、洗面所を後にすると、その足で冷蔵庫に向かう。目的は下段の冷凍庫で、そこから保冷剤を取り出す。長らく放置された保冷剤は十分に冷え切って固まっている。それを指に押し当てると、痒みが和らぐ。急激に体温を奪われた皮膚は、ピリピリと痛みを訴えるが、そんなことはお構い無しに押し当てる。この痒みには代えられない。指の感覚が無くなるまで、保冷剤で冷やし続ける。

 京子は昔から皮膚が弱く、お風呂上がりなどには体が痒くなりやすい体質だった。そんな時は、痛くなるまで患部を冷やすと、痒みが和らぐということを、彼女は経験から知っていた。腫れはまだ残っているが、徐々に痒みは治まってきた。すると、次の問題はこの痒みをもたらした犯人がどこにいるかだ。時計を見ると午前の一時だ。

 京子はリフォーム専門の住宅会社でデザイナーをしている。納期に追われるこの業界では、徹夜作業は当たり前だと思っていた。実際、京子も大学時代や入社してすぐの頃は、夜通しで作業をするなんてこともあった。しかし、近年はそんな風潮も変わってきて、京子の会社では定時退社が基本になった。それでも納期はやって来るし、クライアントはこちらの事情を全て理解してくれる訳では無い。明日も四時には起きて作業に取り掛かりたい。そのために昨日は早く寝たのだから。もう今日か、と一人でツッコミを入れる。今はそんなことで笑っている場合では無い。朝のことを考えれば、今すぐに眠りたい所だが、今寝ると、またやつが来るに違いない。

 京子は気合を入れる。まず、家中の電気を点ける。それから、各部屋の扉を閉めて、隔離する。蚊の逃走ルートを断つためだ。まずは、京子が寝ていた寝室から捜し始める。部屋全体を見渡しただけでは見つからない。布団を叩いたり、カーテンを揺すったりする。隈無く捜したが、見つからない。どうやってこの密室から脱出したのか分からないが、京子は諦めて次の部屋に移る。

 リビングでもさっきと同じように捜す。テレビの裏やキッチンも見る。それでもいない。あり得ないとは思いつつ、念の為トイレやお風呂も捜した。しかし、蚊の姿は無かった。

 捜し始めてから既に三十分以上経過している。焦りから、京子は少し苛々してくる。目にうっすらと涙を浮かべながら、もう一度リビングと寝室を調べようと思う。

「どこなのよ。」

どれだけ捜しても見つからず、途方に暮れる。もしかしたら、窓の隙間から外に出たのかもしれない。そういうことにして眠ってしまいたいが、もし見落としていたら。その不安がある限り、慎重な京子は眠れないだろう。寝癖でボサボサの髪を撫でながら逡巡していると、耳元で不快な高音がする。

 これまで一体どこにいたのか皆目見当もつかない。しかし、この推参者は、図々しくも三度目の血を吸いに来た。私の血はそんなに美味しいのかしらと思うと、少し嬉しいような気がした。しかし、今が最大の好機だ。ここを逃すと、もう眠れないかもしれない。京子はじっと耐え忍ぶ。緊張で汗ばんだ彼女の細い首筋に蚊が止まる。その瞬間、京子は全力で自分の首を叩く。バチンッと肉の弾ける音と共に、ジリジリと痛みが伝わる。京子は右の手のひらを確認する。

「嘘でしょ。」

仕留めた跡が無い。足元を見下ろすが、死体も落ちていない。取り逃がした。そう思うが早いか、辺りを見回す。

「いた。」

京子からの不意の反撃を見事に躱した蚊は、ふわふわと彼女から距離を取っていた。小さな小さな黒い点にすぎないが、白い壁なのでよく見えた。その姿を見逃すまいと、京子は一定の距離を保ちながら凝視する。

 蚊の方も流石に疲れたのか、壁に止まった。再びのチャンス。京子はゆっくりと近付く。ジリジリと距離を詰めながら、可能な限り腕を縮める。そして、力を溜め込んだ腕を、一気に解き放つ。隣の人には申し訳ないが、躊躇していられない。辺りを見渡す。今度は蚊の影は見えない。満を持して、手のひらを見ると、黒く汚れていた。全力で壁を叩いた手はひどく痛むが、この戦いが終わったことによる喜びがそれを打ち消す。

 京子は実に五十分にも及ぶ真夜中の戦いを制し、見事勝利を収めたのだ。ティッシュを取って死体を処理し、手を洗う。疲れた体でゆらゆらと歩きながら、一つ一つ電気を消していく。

「あと二時間。」

仮眠にしかならないような時間だが、彼女が勝ち取った二時間だった。京子は大きな満足感の中、再び夢へと還っていった。

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