第11話:お洒落の基本は、見えないところから整えるものですわ

 銀貨百枚という大金を手にし、わたくしの心はすっかり薔薇色だった。ギルドの計らいで泊まらせていただいている『木陰の宿』も、今やガドさんが毎日ピカピカに磨き上げており、快適そのもの。次の大きな『お掃除』の前に、まずは自分の身なりを整えることにした。


(そうですわ、まずは下着ですわ! 見えない部分の充実は、心の余裕に繋がりますもの!)


 家出の時に持ってきたのは、丈夫さだけが取り柄の簡素な木綿の下着だけ。乙女として、これはあまりに寂しい。わたくしは街で一番と評判の服飾店『絹の揺り籠』へと、弾む足取りで向かった。そこは、大通りから一本入った、静かで上品な場所に佇んでいた。


 重厚な扉を開けると、カラン、と澄んだ鈴の音が鳴る。店内は、甘く上品な香油の香りに満ちており、壁一面に並べられたドレスやブラウスは、どれも溜息が出るほど美しい。


「あらあら、可愛らしいお嬢さん。何かお探しものでも?」


 店の奥から現れたのは、銀髪を綺麗に結い上げ、背筋をしゃんと伸ばした初老の女性だった。物腰は柔らかいが、その瞳の奥には、すべてを見透かすような鋭い光が宿っている。


「まあ、素敵なマダム。わたくし、自分へのご褒美に、新しい下着を探しておりまして」


「下着、ですって? ふふ、お目が高いわ。お洒落の基本は、まず肌に一番近い場所から整えること。よくご存じでいらっしゃる」


 マダムはにこやかに微笑むと、わたくしを奥の、特に上質な品々が並ぶ一角へと案内してくれた。

 その時、わたくしは気づかなかった。わたくしが店に入った瞬間、マダムの目が鋭く光り、カウンターの下に置かれた小さなベルを、指先で一度だけ、チーン、と鳴らしたことの意味を。



 店の二階。諜報員クロウは、マダム・オリヴィア――かつての王家直属諜報部隊『影の針子』の元締め――が鳴らした合図を聞き、息を殺した。

 昨夜、シーナの独り言「レースの下着を新調したい」という言葉を聞いた彼は、その『暗号』を解読し、血相を変えてこの店に駆け込んでいたのだ。


『マダム! 緊急事態です! 例の『掃除屋』が、貴族間の『レース(婚姻関係)』の調査を開始します! おそらく、近いうちにこの店へ接触してくるはずです!』


 オリヴィアは、クロウの報告を冷静に受け止めていた。そして今、その『掃除屋』が、何の前触れもなく、客としてふらりと現れたのだ。


(これが、あの『掃除屋』……。見た目は、ただのか弱い貴族の令嬢。だが、この娘が、ボルコフを潰し、マルザスを追い詰めたというのか……。底が知れん)


 オリヴィアは、階下の少女の一挙手一投足に、全神経を集中させていた。



「まあ、なんて素敵なんでしょう!」


 わたくしは、目の前に広げられた色とりどりのランジェリーに、すっかり心を奪われていた。繊細なレース、滑らかなシルクの肌触り。どれも芸術品のようだ。


「あら、この黒いランジェリーは、夜の闇に紛れるのに良さそうですわね。静かな夜に、こっそりと活動するには最適かもしれませんわ」


 純粋に、黒い下着が持つミステリアスな雰囲気に惹かれて呟いた言葉。だが、それを聞いていたオリヴィアの眉が、ぴくりと動いた。

(『夜の闇に紛れる』……『静かな夜にこっそりと活動』……。暗殺の予告か! 黒は、喪に服す色。つまり、誰かを亡き者にするという、強烈な意思表示!)


 わたくしは次に、深紅のレースがふんだんに使われた、情熱的なデザインのセットに目を留める。


「まあ、こちらの赤は……燃えるような色ですわ。一族の誇りや、血の繋がりを重んじるような、情熱的な方がお好きになりそうなデザインですこと」


 その言葉もまた、オリヴィアの耳には全く違う意味で届いていた。

(『燃えるような赤』……『血の繋がり』……。王家に対抗しうる、血統を重んじる公爵家……ルナール公爵家のことか! あの家に、内紛の火種でも仕掛けるつもりか!)


 次から次へと、わたくしが発するファッションに関する感想が、オリヴィアの頭の中で、恐るべき作戦計画へと変換されていく。


 そんな時だった。店の奥の扉が静かに開き、顔をヴェールで隠した、いかにも高貴な身分と分かる少女が、侍女を一人だけ連れて入ってきた。


「オリヴィア、お願いしていたドレスは……あら?」


 少女は、わたくしの存在に気づくと、少し驚いたように足を止めた。その声には、どこか憂いが含まれている。


「アナスタシア様……。こちらは、大切なお客様でございます」


 オリヴィアが恭しく頭を下げる。アナスタシアと呼ばれた少女は、わたくしが物色している下着を一瞥し、ふ、と寂しそうに微笑んだ。


「……素敵ですわね。わたくしには、もう、自分の好きなものを自由に選ぶことなど、許されませんけれど」


 その言葉には、深い諦めが滲んでいた。わたくしは、彼女が身につけているドレスに、小さな『汚点』を見つけた。デザインは素晴らしいが、肩のラインがほんの少しだけ、彼女の体型に合っていない。窮屈そうに見える。


「まあ、お客様。お言葉ですが、サイズの合わない服は、体を締め付けて苦しいだけですわ。自分に本当に合ったものを選ばないと、どんなに高価なものでも、結局は長持ちしませんもの。心も、体も、窮屈になってしまいますわよ」


 わたくしが、純粋な善意から服選びのアドバイスをすると、アナスタシア様の体が、びくりと震えた。ヴェールの奥の瞳が、大きく見開かれるのが分かった。


「……心も、体も、窮屈に……?」


 アナスタシア様は、わたくしの言葉を反芻し、その目に涙を溜めた。


「その通りですわ……! わたくしは、ずっと、サイズの合わない服を無理やり着せられようとしていたのです! 国の未来のためだと、父に、家のために、この身を捧げろと……! わたくしが嫁ぐ相手は、五十も年の離れた、隣国の公爵……! 嫌だと、言えなかった……!」


(え? えええ!? なんだか、ものすごく話が大きくなっておりませんこと!?)


 どうやら、わたくしのアドバイスが、彼女の抱える政略結婚の悩みに、クリティカルヒットしてしまったらしい。


「どうすれば……わたくしは、どうすればよろしいのですか!?」


 涙ながらに助けを求められ、わたくしは困ってしまった。そんな国家レベルの悩み、元女子高生のわたくしに分かるはずもなかった。でも、そういえば噂で聞いたことがある。隣国には、潔癖症で有名な若い王子様がいるとか。


「そ、そうですわね……。そういう、古い慣習という名の頑固なシミは、無理に洗おうとせず、全く別の布と合わせるのも手かもしれません。例えば、若くて綺麗好きな方とか?」


 わたくしが、とっさに思いついたコーディネートの豆知識を口にすると、アナスタシア様は、はっと顔を上げた。


「……綺麗好きな方……! そう、そうですわ! 隣国の王子殿下は、大の掃除好きだと伺いました! 公爵ではなく、王子殿下に直接お会いして、わたくしの気持ちを……! わたくし、決心いたしました! 父に、国王陛下に、この度の縁談、考え直していただくよう直談判してまいります!」


 アナスタシア様は、憑き物が落ちたような晴れやかな顔で、わたくしの手を取った。


「ありがとうございます、名も知らぬお方! あなた様は、わたくしの恩人です!」


 そう言うと、彼女は嵐のように店から去って行った。

 呆然と立ち尽くすわたくしの背後で、マダム・オリヴィアが、畏怖に満ちた声で呟いた。


「言葉一つで、王女殿下の心を動かし、隣国との関係すら左右する政略結婚を、覆させるとは……。シーナ様、あなた様は、一体何者なのですか……」


 そして、二階で全てを聞いていたクロウは、

(馬鹿な……! 直接王族に接触し、縁談を『漂白』、つまり破談に追い込むだと!? これが、今回の『掃除』の真の目的だったというのか……! 一体、この国の未来をどうしようというのだ、『掃除屋』シーナ……!)

 と、壮大すぎる勘違いの迷宮で、一人、出口を見失っていた。

 一方、わたくしはといえば、

(ああ、びっくりしましたわ……。でも、お悩みも解決したようですし、これで心置きなく、下着選びに集中できますわね!)

 と、すっかり切り替えて、先ほど目をつけていた青いシルクのセットを手に取るのだった。

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