第2話:お掃除の作法は、すなわち必殺の作法ですわ
闇の中から、じりじりと包囲網が狭まってくる。茂みの向こうで光る赤い瞳の数は、数えるのも馬鹿らしくなるほどだ。絶望的な状況。一対一ですら、幸運がなければ勝てなかったというのに。
(終わった……。結局、ブルボン伯爵のいやらしい手から逃れられても、ゴブリンの夕食になる運命だったのね……。なんてこと。わたくしの初体験が、魔物相手だなんて絶対に嫌ですわ!)
恐怖で膝が笑い、今にもへたり込みそうになる。けれど、脳裏にあのハゲデブ伯爵の顔と、わたくしを見限った父の顔が浮かんだ瞬間、腹の底から怒りのようなものが込み上げてきた。
(ここで死んだら、あの人たちの思う壺じゃない! わたくしを無能だと見下した連中に、負けたことになる! それだけは、絶対に嫌!)
理屈ではない。ただの意地だった。わたくしはダガーを握る手に力を込める。生きるために。そして、わたくしを不遇な運命に突き落としたすべてを見返すために。
わたくしは、強くなるのだ。
「さあ、お掃除の時間ですわよ!」
啖呵を切ったところで、状況が好転するわけではない。一番近くにいたゴブリンが、奇声を発しながら棍棒を振りかぶって突進してくる。
わたくしは、先ほどと同じように、その足元を強くイメージした。
「お掃除(クリーン)!」
ツルンッ!
見事なまでに、ゴブリンは前のめりに転倒した。しかし、それを見て怯むどころか、他のゴブリンたちは一斉に雄叫びを上げて襲いかかってきた。四方八方から迫る、緑色の悪夢。
(一体だけ滑らせても、意味がないじゃない! どうすれば……!)
パニックに陥りかけた、その時。右側から迫っていたゴブリンの棍棒が、風を切る音を立ててわたくしの頭上を薙いだ。
死を覚悟し、目を固く瞑る。
だが、衝撃は来なかった。
不思議に思って目を開けると、わたくしの体は、自分でも信じられないほど深く屈み込み、攻撃を紙一重で回避していた。
(あら? 今、体が勝手に……?)
まるで、低い場所にある棚の下を掃除するときのように、ごく自然な動きで体が最適の位置を取ったのだ。
目の前には、がら空きのゴブリンの胴体。
(……ここ、汚れておりますわね)
邪魔なゴミは、片付けないと。
そう思った瞬間、わたくしの腕が鞭のようにしなり、握っていたダガーがゴブリンの脇腹、心臓へと続く急所を深々と貫いていた。抵抗する間もなく、ゴブリンは崩れ落ちる。
「ヒギャッ!?」
背後から別のゴブリンが襲いかかる。わたくしは振り返ることなく、まるで背中に目があるかのように、体をくるりと回転させた。バレエのピルエットのような華麗な動き。これもまた、部屋の隅々まで埃を払うための、最適化された動きなのだと、なぜか直感で理解できた。
回転の遠心力を乗せたダガーが、ゴブリンの喉を綺麗に切り裂く。
そこからは、もう無我夢中だった。
敵が来れば「お掃除(クリーン)!」で足元をワックスがけのようにツルツルにし、体勢を崩したところを、体が勝手に導き出す最適の一撃で仕留めていく。
右から来れば、棚の上の埃を払うように。左から来れば、床のシミを擦るように。最小限の動きで攻撃をいなし、最大の効率で敵を無力化していく。
この『お掃除』スキルは、ただ汚れを落とすだけではない。邪魔なもの――すなわち『汚れ』を効率よく排除するために、わたくしの体を最適化してくれる能力でもあったのだ。
(素晴らしいですわ! これなら、どんなに散らかったお部屋でも、あっという間にピカピカにできますわね!)
戦いの最中だというのに、わたくしの思考はどこか呑気な方向へと飛んでいた。
◇
物陰からその光景を眺めていた男は、信じられないものを見るかのように目を見開いていた。
黒装束に身を包んだ彼は、王家に仕える諜報員の一人。名は、クロウ。近隣で目撃情報のあった不審な組織の動向を探るため、この森に潜んでいた。
(な、なんだ、あの少女は……!?)
最初に見たときは、ゴブリンに襲われているか弱い貴族の令嬢だと思った。だが、彼女がダガーを握った瞬間、空気が変わった。
流れるような体捌きは、熟練の剣舞士のようであり、一切の無駄がない動きは、歴戦の暗殺者のそれだった。魔物の攻撃を最小限の動きでかわし、的確に急所だけを貫いていく。時には、敵の足を滑らせるという不可解な現象まで起こして。
十数体いたはずのゴブリンの群れが、わずかな時間で血の海に沈んでいく。
そして、最後のゴブリンを仕留めた少女は、ふぅ、と息をつくと、自分の服に付いた返り血を見て、僅かに眉をひそめた。
「まったく、こんなに汚して……。汚れは溜め込む前に、こまめに処理するのが鉄則ですのに。特に、こういう目に見えない小さな腐敗菌は、増殖する前に早めに対処しないと、かえって被害が広がってしまいますのよ」
クロウは息を呑んだ。ただの独り言ではない。彼女ほどの人間が、無意味な言葉を発するはずがない。
(『目に見えない小さな腐敗菌』……? 隠語か。目に見えない脅威……地下に潜伏する反体制派のことか? 『増殖する前に対処』……彼らが勢力を拡大する前に、芽を摘み取れという警告か! そして『被害が広がる』……手遅れになれば、国が揺らぐというのか!)
クロウがその暗号の解読に思考を巡らせていると、少女は「まあ、これではお掃除の意味がありませんわね」と軽く呟き、自身の服に手をかざした。
すると、その身に付着していたおびただしい量の血が、まるで最初からそこになかったかのように、一瞬で消え去った。
(……痕跡まで完璧に消した、だと!?)
あの戦闘技術、そしてこの証拠隠滅能力。素人であるはずがない。間違いなく、どこかの組織に属する手練れ。それも、暗殺や破壊工作を専門とする、通称『掃除屋(スイーパー)』と呼ばれる類の人間だ。
クロウは、自分がとんでもない大物に出くわしてしまったのだと確信した。
◇
すべてのゴブリンを倒し終えたわたくしは、ぜえぜえと肩で息をしていた。体が最適に動いてくれるとはいえ、体力は普通に消耗するらしい。
目の前には、ゴブリンたちの亡骸が転がっている。
(このまま放置したら、不衛生ですわね。自然の分解を待つのも手ですが……)
そんなことを考えていると、いくつかのゴブリンの死体から、親指の先ほどの大きさの、黒い石がこぼれ落ちるように現れた。
「これは……魔石、ですの?」
冒険者がこれをギルドで換金して生計を立てていると、本で読んだことがある。全ての魔物が持っているわけではないらしい。
わたくしは幸運に感謝しつつ、落ちていた魔石を拾い集めた。全部で五つ。一ついくらになるのか見当もつかないけれど、無いよりはいい。
目的を果たしたわたくしは、この不気味な森を早く抜け出そうと、再び歩き始めた。目指すは、一番近くにあるという冒険者の街、リンドブルム。そこでこの魔石を換金し、ちゃんとした装備と、今夜の宿を確保しなければ。
生き延びた安堵と、自分のスキルが思った以上に強力だったことへの高揚感で、わたくしの足取りは、家出してきたばかりの時よりも、ずっと軽やかだった。
まさか自分の背後、数十メートル離れた場所から、国の諜報員が「あの少女の目的地は、組織の次のアジトに違いない……!」などと壮大な勘違いをしながら、必死に追跡してきているなど、夢にも思わずに。
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