第2話 偽りの名前

 バーのカウンター。

 氷がグラスの中で静かに溶けていく。


「お仕事は何をされているんですか?」


 彼の問いに、準備していた答えを返す。


「化粧品関係の会社で事務をしています」

「化粧品……なるほど」


 なぜか含みのある言い方。でもそれ以上は追及してこない。

 彼はグラスを置いて立ち上がる。

 会計を済ませながら、振り返って微笑んだ。


「また会えるといいですね」


 そう言って店を出ていく。残された私は、なぜか物足りなさを感じていた。

 ただの挨拶なのに、心臓が不意に熱を帯びている。

 店を出た後、事務所に連絡した。


「どうだった?」

「少し話した程度です。まだ様子見の段階ですが」

「そうか。今回はそれほど深入りしなくていい。気づかれないよう注意しろ」


 通話を切る。

 あくまで仕事。

 彼は依頼人の恋人で、ただ試すだけ。

 そう自分に言い聞かせた。


 ***


 休日の美術館。

 早川蒼真が月に2回訪れる場所だと、依頼人からの情報にあった。

 現れる時間帯を見計らって館内に入る。


「こんにちは」


 背後から声をかけられて振り返ると、彼が立っていた。


「偶然ですね」


 微笑んでいるが、どこか読めない表情。


「ええ、びっくりしました」


 まるで私を待っていたかのような自然さ。


「美術館にはよく来るんですか?」


「いえ、友人に勧められて」


 鼓動が早くなる。


「よければ、一緒に回りませんか?」


 こちらから縮めようとした距離を、逆に縮められているような不思議な感覚。


「はい、お願いします」


 この人にどこまで踏み込んでいいのか分からない。

 ただ、これ以上は危険だと本能が告げている。


 ***


 展示室。油彩の匂いがわずかに残る静かな空間で、彼は一点の絵の前に立ち止まった。

 青の濃淡が美しい海の風景画。


「この絵、動いているように見えませんか?」


 不意に話しかけられ、私は隣に並ぶ。


「確かに……波が揺れているようですね」

「筆の流れが独特なんです」


 言葉は淡々としているのに、その目は絵の奥を覗き込むようだった。

 真剣に見つめる横顔に、私の視線が吸い寄せられる。


「見ていると心が落ち着きます。でも、どこか寂しさも感じる」

「私もそう思います」


 不思議な人だ。


「愛を確かめたい」


 という依頼人の言葉を最初は理解できなかったが、今はその気持ちが少し分かった。


 ***


 閉館間際。出口に向かう人の流れの中で、彼が横に並んで歩く。

 短い沈黙の後、彼が口を開いた。


「連絡先を教えていただけませんか?」


 一瞬、呼吸が止まる。

 これは仕事。

 そう自分に言い聞かせながら——


「はい」


 仕事用に作った捨てアカウントの連絡先を教える。

 偽名、偽りの自分。

 それなのに、受け取った彼の笑みは真っ直ぐで。


「詩織さん。素敵な名前ですね」


 胸が痛む。嘘の名前を褒められることの切なさ。


「じゃあまた」


 人波に消えていく彼の背中を見送りながら、私は胸を押さえた。

 偽りでつながったはずなのに、心の奥で小さな期待が灯っている。

 戸惑いと、ときめき。その両方を抱えたまま、夜の街を歩き出した。


 これは仕事。なのに、なぜこんなに心が揺れるのだろう。

 彼の依頼人への想いは本物なのか。それとも……。


 私が確かめようとしているのは、一体何なのだろう。

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