恋に堕ちる

七転び八起き

第1話 最後の依頼

 仕事帰り、銀行のATM。

 通帳記入をし、印字された数字をじっと見つめる。


 500,000


 歪んだ正義感で得た報酬。

 これでまた誰かが救われた。

 夜のオフィス街を一人で歩く。


 私は『別れさせ屋』で仕事をしている。

 依頼人の要望に沿って、ターゲットに近づき、感情を操作する。

 様々な依頼がある中、私が受けるのは「恋人に裏切られた女性」の依頼だけだ。


 なぜなら私自身がそうだったから。

 恋人と親友の裏切り。私の知らないところで二人は関係を持っていて、その現場をあの日見てしまった。


 別れさせ屋というものの存在は知っていたけれど、まさか自分が利用することになるなんて思わなかった。

 あの時私は、電話をかけて事務所に飛び込み、泣きながら担当者に訴えた。


「二人を別れさせてください!」


 担当者は落ち着いて話を聞き、金額や手続きについて説明してくれたが、「かなり高額なので一度よく考えてみてください」と言われた。

 その職員に気持ちを打ち明けただけでも、私は救われた思いだった。


 冷静になった私は、結局別れさせ屋を使わなかった。二人とも自分から縁を切った。

 そして、私のような人たちを救いたいと思い、この仕事をしたいと自分から志願した。

 演劇関係の経験者や夜の仕事をしていた人がほとんどの中、私はほぼ熱意だけで事務所に雇われた。


 恋人の二股が発覚し、泣きながら事務所にやって来た女性の話を、パーテーションの向こうで聞いていると胸が痛んだ。

 だから、私はその人を救った。

 ターゲットと浮気相手の関係を拗らせ、依頼人のもとに戻るよう誘導する。

 それが終わるまで二ヶ月ほどかかった。


 ターゲットの男と話していると、フラッシュバックで吐き気を催すこともあるが、依頼者の嬉しそうな顔を見ると救われた気持ちになる。

 そんなことを続けて2年ほど経った。


 もうこの辺りが引き際だと思った。

 他人の人間関係に踏み込むことに疲れてしまった。

 誰かを救っても、あの時の私自身は救われないのだから。


 次が最後と決めていた。しかし、その依頼を聞いた時、かなり戸惑った。


「恋人の愛を確かめたいんです」


 事務所のパーテーションの向こうから声が聞こえる。


「ちゃんと私を愛してくれているか確かめたいんです」


 そんな理由でここを使うの……?


 様々な案件があるが、この依頼はその中でも異質だった。

 依頼人が帰った後、担当職員に聞かれた。


「これ、最後に受けてみる?」

「これ……ターゲットが揺らがなければいいのですが、揺らいだ場合、依頼人は傷つきますよね」


 関係を壊しかねない。


「依頼人はただ数回接触して、アプローチしてほしいだけのようだが……。その辺りのリスクも説明して確認する」

「はい、分かりました」


 こんなの受けるべきじゃない。恋人同士を引き裂くかもしれないのに。


 ——ただ興味があった。ターゲットがどんな男なのか。


 ***


 夜。私はとあるバーの近くにいた。

 ターゲットがよく行く場所として資料に書かれていた店だ。

 結局私はこの仕事を引き受けた。


 地下に続くバーへの階段を降り、店に入る。暗く落ち着いた雰囲気で、日常から切り離されたような場所だった。


「いらっしゃいませ」


 バーテンダーの挨拶に軽く頭を下げる。

 そして店を見渡すと、ターゲットと思われる男の姿がカウンター席にあった。

 資料で見た写真とほぼ一致している。しかし実際に見ると、想像していた雰囲気とはだいぶ違った。


 ——早川蒼真。確かに優しく誠実そう。でも、どこか影がある。


 少し離れた席に座り、彼を観察する。

 バーテンダーと談笑している。


 この人は私が近づいたらどんな反応をするのだろう……。

 今まで何度もこなしてきた仕事なのに、なぜかこの男は掴めない。

 そう思った瞬間、目の前にカクテルグラスが置かれた。


「こちらのお客様から」


 振り向くと、彼がグラスを上げて微笑んでいる。


「初めまして」


 その瞬間、鼓動が早くなった。その射るような視線に、身体が動かなくなってしまう。

 こんなことは初めてだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る