真夜中、出港する
[シン]
風呂から上がったシンは、部屋に戻ると、夜風を取り入れるために窓を開けて、リュックの中を整理をしはじめた。すでに旅に必要なものは揃えていた。いつでも旅立てるようにするなんて、元の世界では考えもしなかった。実際、捨てられていたことも気づいていなかった。
次にオイルを染み込ませた革帯をベッドに置いて、武骨な二本のハンドアックスを小さなテーブルに丁寧に並べた。それから質の悪い麻のシャツ、頑丈なデニム、革のブーツを身に着けた。ブーツの紐はきちんと結ぶことにしていた。かかとの靴擦れは命を落とすことにもなる。
隣室にはレイがいる。静かだ。彼女の隣にはウラカがいるが、今は入浴中に違いない。シンは壁に耳を押しつけてレイの様子を探った。
シンは窓際のロッキングチェアに腰を掛けて、しかるべきときのために仮眠した。こういう椅子に座ると意味もなく揺らしてみたくなる。
やがて窓が開いた。
この世界の窓は分厚くて、透明度が低く、もろくて、ところどころに気泡が入っていることも多い。
覗くと、旅支度を整えたレイがしがみついていた。爪先がわずかに花崗岩の隙間に引っ掛かっているくらいで、腕の力で支えていた。
「何してる」
シンは笑いを堪えた。
「行く」
レイは落ちそうだが、下には瓦屋根が続いているので大丈夫だ。
「どこへ行くんだ」
「教会以外」
「そうだね。でもウラカは悪い人じゃないよ。僕はそこだけは信じてあげてほしいんだ」
「悪くない。でもウラカ一人ではどうしようもできないこともある。早くして。落ちそう」
シンは革帯をして、ハンドアックスを差し込んだ。巻いた外套を載せたリュックを担いだ。二人で宿の窓から瓦に飛び降りると、急いで隣の家に飛び移り、他人の家のベランダ伝いに路地まで降りた。
路地の淀んだ空気には、潮と魚の生臭い匂いが淀んでいた。シンたちは入り組んだ路地へと逃げ込んで埠頭まで走った。ウラカが知れば怒るだろうなと思ったが、教会で何があるかわからない今、戻る気はない。
「船には乗るの?」
「乗るよ。ハイデルからの峠越えは厳しいし、追いかけられたら捕まるかもしれない。でも乗るのは教会の船じゃない。もっと小さい船に待ってもらってるの」
シンはレイが意外に調べてあることに驚きと、うれしさを覚えた。少しずつ成長していく。同時に遠くへ行くようの寂しさも感じた。
「まずは隣の港まで行く。そっちから行けばハイデルからの峠越えよりもぜんぜん楽らしい」
「よく調べたな」
風呂から上がった後、宿屋で働く何人かに近くの街まで行くにはどうすればいいのか聞いたらしい。人好きにする性格はうらやましい。
ここまで海を見に来たが、峠を越えてコロブツに戻ると話したということだ。
「船なら塔の街付近までも戻れるらしいんだけど」
「今戻るのか?」
「せっかくだから旅しよう。わたしはシンと旅をしたい」
シンたちは教会側の持ち物で使えそうな物を詰め込んできた 泥棒と言われれば否定はできない。必要なものは食い物と飲み物とカネだ。
夜の港は不気味なほど静かだ。レイから前に見える帆掛けの荷船に乗るように言われた。歩み板を恐る恐る踏んで、何とか落ちないように船に乗った。女の船頭が一人、舵取りが二人、帆を操るのが二人、すべて五人家族で商売をしているらしい。
「お、約束通り来たね。そろそろ出るよ。ガラルでいいかい?」
「これでいい?」
レイは銀二枚を渡した。
船頭は恰幅のいい女だ。肌は浅黒くて、毎日積荷を積んでいる腕は脂肪の下に鋼のような筋肉がある。
「後ろにいてくれ。風を捕まえるまでは櫓を漕ぐからね。あの岩の左に行けば風は拾える」
二人の若者が櫂で岸から船を押した。船は後ろから進んで、やがて頭を旋回させた。一人が櫓べそというところに櫓をはめた。それは継ぎ足して人が二人分以上の長さがある。もう一人が来て二人で漕ぎ始めた。船頭は手伝うわけでもなく煙をくゆらせていた。
「母ちゃん、本当に風が来た」
「お嬢さんの言うように、風の精霊様が来てくれたようだね」
帆が風をはらんだ。
レイはあぐらをかくと、近づいてきた白と茶トラの猫を抱き締めていた。潮風が夕闇を流した。眠っているハイデルの街が遠ざかる。
船頭の女がこれならガラルまですぐに行けると喜んでいた。他人よりも早ければ、他人よりも荷物が運べるという話だ。雨待ち風待ちで食いしのぐには働けるときに、人よりも働くのだと、シンに笑った。
「うちら小さい荷船は数を運んでなんぼだからね。こうしてこっちの港、あっちの港へ行くのさ。ライバルも多い。しかし賭けて正解だ」
「無理を頼んだみたいで」
「無理でもないさ。銭もくれたし。お嬢さんは風の精霊の眷属が見えているようだ」
「風の精霊が騒いでる」
舵を持つ子どもがはしゃいだ。
「精霊様が驚く。静かにしてな」
女船頭はレイに向いた。
「ちゃんと来てくれたんだね。一人じゃないかと話してたのは杞憂だったということだ」
「そんなこと話してたの?」
シンは膝を抱えたレイを見た。
「教会の本部へ行くと、シンはわたしを置いてどこかへ行く」
レイが呟いた。その腕からモガモガと離れた猫が、シンに近づいてきてきて指に鼻をつけた。白にキジ色のぶち柄の猫だった。
「聞いてたのか。後の話だ」
「後でも嫌だ。シンがこの世界にいるうちはわたしは一緒にいる」
「もちろんだよ。教会とやらにレイの幸せがない。教会はウラカみたいな人だけじゃないだろうし」
「教会がわたしを幸せにしてくれる」
「幸せなんてのは、誰かに与えられるもんじゃない。少しずつ積み重ねてきたもんを見返したときに気づくもんだと思うよ」
シンはキセルが船べりを叩くのを聞いた。
「僕は今のところ教会を信じる気はないんだ。どこもしょせん人の集まりにすぎないからね。剣は預けるくらいにしか信じてない」
シンは猫の前足を抱き上げた。
「僕は見てないところで起きたことなんて信じにゃいのだ」
「わたしから離れない?」
「レイに相談する」
「うん」
「お、いい潮の流れだね。お嬢さんの気持ちが晴れたみたいだね」
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