No Rewind
紅雲
第1話 No Rewind
駅のホームは午後の日差しで震えていた。
薄く伸びた影が線路のリズムに合わせて揺れ、風が切り裂くように過ぎる。改札の向こう、二つの出口が僕の前に並んでいた――
一方は見慣れた道、もう一方は見たことのない細い坂道。
地図にも載っていない路地の匂いが、潮と古いコンクリートと焼きたてのパンの混ざった香りで鼻をくすぐる。
「行くか、行かないか」
その一言を決めるのに、世界は一瞬で凝縮した。
時計の針は動く。1分、1秒が僕の胸の鼓動と同じ速さで通り過ぎる。
過去の自分たちが手を振っているように見える――笑い合った夏、壊れたギター、夜中の交差点で語り明かした未来。
若さはいつも引き返せない線路のように一直線だと、僕は思っていた。しかし今日はその線路の分岐点に立っている。
若い頃、選択はしばしば軽やかだった。
何かが嫌になれば次へ行き、迷えば踊って誤魔化した。
失敗は学びの代名詞で、後悔はすぐに流れ出す川の泡立ちのように消えた。
だが年を重ねると、それが違って見える。決断の重みが手に馴染み、取り返しのつかない時間が背中に触れるようになる。
僕は坂道の方へと足を向けた。
ほんの数歩だったはずだ。
だがその一歩が、見慣れた日常から僕をそっと引き離した。
路地には砕けた光が差していて、そこを抜けた先には小さな古本屋があった。
店主は目を細めて俺を見て、無言でカウンターの奥へと案内した。
棚の隙間から覗く背表紙が、まるで俺のこれまでの選択を一冊ずつ取り出して見せるかのようだった。
数年後、僕はその古本屋で働き、夜は古い曲をコード進行の隙間に埋め込みながら小さなライブハウスで歌っていた。
あの日の決断は僕を柔らかく、しかし確かに別の風景へ連れていった。
友人たちは別の生活を築き、時折交わすメッセージは過去の自分たちを懐かしむ短い絵葉書のようだった。
だが、決して「正解」だとは言い切れない。
ある夜、飲み屋の帰り道に聞いたラジオから、幼い頃の自分が好きだったバンドの曲が流れた。
歌詞の中に、もしも別の道を選んでいたらという仮定が盛られている。
胸に小さな痛みが走る。
もしもの世界――その言葉は甘美に響くが、同時に無意味だ。時間は戻らない。もしもの朝焼けは、決して本当の朝焼けにはならない。
後悔はいつも静かに忍び寄る。
思い出の片隅に置き去りにした渇きが、夜更けに顔を出す。
誰かと肩を並べて笑った瞬間の空気や、抱きしめられずに終わった夜の冷たさが、ふと現実を引き戻す。
だが僕は学んだ。
後悔は罰ではなく、地図の獲得だと。
そこに記された十字の印は、通らなかった道への感傷ではなく、自分がどこから来たかを証明する印だ。
あるとき、昔の仲間と再会した。
彼は医者になり、風格のある笑みを浮かべていた。
目の奥にはやはり同じ光景がある——選んだ道の功績と、選ばなかった何かへの小さな陰り。
僕らは酒を酌み交わし、言葉少なに昔話をひとつずつ取り出した。
お互いの選択を裁くことはなかった。
ただ、笑い声と間の沈黙が、どれだけ多くを語っていたか。
でも、もしもの世界は来ない。
そんな幻想に縋るほど、時間の流れは優しくない。
だから僕は、選んだ道の先で手に入れたものに目を向けることにした。
小さな古本屋で働く日々は、想像以上に穏やかで、僕は夜の路地で出会う人々の物語を聞き、それを曲にすることができた。
街灯の下、物語を歌うたびに小さな灯が胸の中でともる。後悔が煤のように溜まる瞬間でも、その灯は消えない。
人生は幾つものドアの連続だ。
開ける前のその瞬間、世界は紙一重のように平たく、どちらへも行ける気がする。
でもドアの向こうにはいつも新しい風景が広がり、そこでの景色は開けた者だけの特権だ。
選ばなかった扉はいつまでも向こう側で光を放ち続けるかもしれないが、触れられない光に悲しむのはやめよう。
選んだ扉の向こうで、まだ見ぬ朝焼けが待っているのだから。
僕はあの駅のホームへ戻る夢を見た。
夕暮れの淡いオレンジが線路を染め、僕はまた二つの出口の前に立つ。
時間は流れ、選択は押し寄せる。
でも今は違う。
胸にあるのは、寄せては返す波のような静かな確信だ。
選んだことに責任を持ち、選ばなかったことを抱きしめずに歩く。
その歩幅で、僕は今日も歌をつむぐ。
時間は戻らない。
だからこそ、選ぶ。選んだ結果が痛くても温かくても、それは僕の生きた証だ。
もしもの世界が来ないなら、ここにある現実を丁寧に育てていけばいい。
未来は不確かで、でも確実に続く。
時計の針は今日も優しく僕を促す。
僕はギターのネックを握り、弦を震わせて、まだ見ぬ明日へ一音を放つのだ。
No Rewind 紅雲 @mashe
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