09
台風が近づいていた。日本への上陸は2年ぶりだという。
瞬間最大風速が30メートルを超える大型の台風だった。ゆっくりとした速度で北上しているのが特徴で、各地に長時間居座って、被害を出し続けている。
東京でも、21日の午後には雨になり、テレビでも早めの帰宅が呼びかけられていた。
歌舞伎町でも会社員向けの飲食店は早々に店じまいを始めていた。
「びしょ濡れ」も今日は臨時閉店するらしく、ビル前の看板を昼過ぎには引っ込めていた。るみかさんは日記に「予約していた人はごめんね」という内容を投稿していた。
うちのAV屋も16時には店を閉めた。
15時にはクローズしたかったが、ロリータアイドルのイメージビデオを買うかどうか悩む客に付き合っていたら、こうなったのだ。彼がずっと悩んでいた作品は、
戸締まりを済ませると、おれはミラノ座前の広場へ向かった。
ビルの合間を重い風が滑り抜けていく。
呼び込みの男たちも鼠も、通りからすっかり姿を消してしまっていた。
出勤前の女の子たちが悲鳴をあげながら、舗道を進んでいく。さすがに、今日は皆、ジーンズを穿いている。スカートで出歩く女の子なんていない。
広場にはほとんど人がいなかった。一方で、パチンコ屋は盛況のようだ。
さすがに早咲はいないかと諦めかけたタイミングで、パチンコ屋から早咲が出てきた。
「新宿で一番きれいなトイレはパチンコ屋のトイレですからね」
軒下に立った早咲は笑った。久しぶりに笑顔を見た気がする。
「台風が接近してるってのは知ってる?」
「知ってます。仲間の間では今朝から話題になっていました」
早咲は白いTシャツを着ていた。濡れたシャツは肌に張り付いていた。
「長老みたいな人たちは公園のトイレで凌ぐと言っています。ぼくはどうしようかなあ」
公園のトイレには入れても6人といったところだろう。
「こう聞くと気分を害するかもしれないけど、カプセルホテルに泊まる金はあるか?」
早咲は恥ずかしそうにうつむいた。
「バイトに行く交通費を残さないといけないから、ないんですよね」
「おお! 決まったのか。おめでとう」
おれは早咲とハイタッチした。早咲の手はすっかり冷えてしまっていた。
「じゃあさ、金は俺が出すからカプセルホテルに泊まれよ。行きつけは中野だっけ?」
早咲はうなずいた。雨垂れで顔は濡れていた。
「車で中野まで送っていくよ。どうせ通り道だし」
早咲は顔を輝かせた。今日の寝床について、なにも考えていなかったのだろう。
雨はますます激しくなり、10メートル先も見えなくなっていた。
視界はすっかり黒ずんでいた。
俺は早咲に傘をさしだした。2本持って出て正解だった。
駐車場に向かう間、道草を食って『道草』を買った客の話を早咲にした。人出がないからか、遠慮せずにバカみたいに笑っていた。
ピンボール台みたいに派手な壁の建物が見えてくる。747超高速立体駐車場だ。
おれはスバルのアルシオーネをいつもそこに停めてある。
エンジンをかける。国産で唯一の水平対向6気筒エンジンはなめらかに回る。
靖国通りを走る。360度全面ガラス張りのキャビンに雨の線が降り注ぐ。雨は強くなり、弱くなり、そしてまた強くなった。
ラジオのキャスターはニュースをテンポ良く読んでいた。
読売ジャイアンツ対ベイスターズの試合は中止にならないとも言っていた。巨人の先発はメイ、横浜の先発はバワーズ。試合を行わない方がみな幸せになれるのに。
おれはラジオに毒づき、早咲は前を行くプリメーラのテールランプを眺めていた。
「次の仕事はいつからだ?」おれは訊いた。
「あさってからです。倉庫整理のバイトで、場所は葛西です」
早咲は物流会社の名前を挙げた。伊勢丹の前で、その会社のトラックを見たことがある。
「そうか。どこかの事務所に登録したの?」
早咲はおれでも知っている人材派遣会社の名前を挙げた。
「でも、派遣ということは、倉庫整理以外の仕事も回されるんじゃないの?」
「派遣先の運送会社がレギュラーで週6で入れる人を探していたみたい」
雨粒が車体を叩く音がしなくなった。雲の切れ目に入ったようだ。
「そうなると、アパートも借りられるかもな。若いから仕事もあるだろうし、いよいよホームレス生活も脱出か」
土気色の顔をした早咲は小さく笑った。
「いや、油断はできないですよ。体を壊したらシフトに入れず稼ぎもゼロになるし」
そうだった。派遣バイトというのは、要するに「日雇い」のことだ。保険も自分で加入するしかないし、交通費も支給されない。
「だから、今はアパートを借りるという目標に向けて、お金を貯めようと思っています」
早咲は前を見ていた。おれも誇らしい気分になった。
「及川さん、知っていますか? ホームレスをやっていると、夜寝る前は水をいっぱい飲めないんですよ。トイレに行きたくても、すぐ行けないから。そういう生活からぼくは抜け出したいです。姉さんががんばっているから、ぼくもがんばろうと思ったんです」
それは鼓舞だった。早咲は自分に言い聞かせるように、力強く言った。
おれは目が潤んでいた。あやうく赤信号を見落とすところだった。
雲の切れ間に入ったからだろう。向こうに夕焼けが見えた。
早咲の話を聞いている内に、おれはなぜか不安な気持ちになっていた。怖くなるような夕焼けが見えたからに違いない。
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