03
早咲と知り合ったきっかけは覚えていないが、早咲とよく話すようになったきっかけは覚えている。バレンタインデーの2日前のことだ。
月曜日だった。連休中なせいか、朝のまちは起き抜けのビル風にもまどろんでいた。
その日も、うちのAV屋が入っているビルの入り口周辺にはゴミが散らばっていた。ビルのすぐ前にあるコンビニで買われたおにぎりやパックジュースは、大体最後はここに流れ着くのだ。
ゴミは昨晩降った雨に濡れ、饐えた匂いを立ち上らせていた。いつもならカラスがゴミとゴキブリをつついているのに、今日は姿が見えない。替わりにぼさぼさ頭の男がいた。早咲だった。童顔に髭は似合っておらず、髭には白いものが混じって見えた。
路上に捨てられたママチャリにもたれかかって、ぼさぼさ頭の早咲は目を閉じていた。寝ていたわけではない。早咲をその場からどかそうとする警官とは、受け答えできていたからだ。早咲は「わかんないよ」「あっち行ってよ」のふたつの単語だけで乗り切ろうとしていた。
早咲が職質を受けているのは、2ブロック先からも見てわかった。
呼び込みの男どもは、とばっちりを恐れて通りから消え失せていた。
店を開けるためビルに入ろうとしていたおれは、警官に声をかけた。
「知り合いが迷惑をかけて、申し訳ございません。酔っ払っているだけなんです」
早咲に肩を貸したおれは、すぐさま後悔した。実際のところ、本当に酒臭かったからだ。
服は灰をかぶったように硬くざらついていて、便所と油の匂いがした。
早咲は自転車のかごから手を離すと、目を閉じたまま立ち上がった。
早咲は自分を責めるように唸ると、片目だけ開けておれをぼんやりと見た。「どなたでしたっけ」と言いそうになる早咲を、おれは目で制した。
「嘘はもっとうまくつくように。今日はもういいよ」
警官は面倒くさそうに小言を述べると、自転車に乗って立ち去った。話がわかる警官は歌舞伎町にならまだいる。西荻窪ではあまり見ない。まちが警官を育てるのだ。
黒いナイロンジャンパーを着た早咲は、もう一度唸ると、脚をふんばった。
うんざりするぐらい長い間、早咲はそのまま唸っていた。
おれは早咲の体を支え、エレベーターへと向かった。
6階でおれは早咲にコーヒーを1杯ふるまった。
ぬるめに作ったせいで粉が残ってしまったようだ。早咲は口から粉をぷっと吐き出しては、ジャンパーの左袖で拭っていた。
「及川さんはAV屋の店長なんですね」
レジカウンターにもたれながら、早咲は店内を熱心に見回していた。
顔を洗った早咲は、ものわかりのよさそうな顔をしていた。誠実さはないが、卑屈さもない表情をしていた。
売り場は淡いオレンジの壁に囲まれている。6坪前後。もっとも、その淡いオレンジも今では想像するしかない。壁はAV女優たちのポスターで埋め尽くされていた。
入り口近くのモニターでは、茶髪で眉を細く整えすぎた小柄な女優が喘いでいた。背後からパンツ越しに愛撫されている。
店内に並ぶAVを早咲は目で追っている。
「最近は観ていないから、パッケージだけでも興奮しますね」
「最後にAVを観たのはいつ?」
「1999年ですかね」
早咲は女優の名前をいくつか挙げ始めた。引退している女優の名前も混じっていた。
レジカウンターに左手を置いたまま、早咲はコーヒーをすすった。
「今日は助けてくれて、ありがとうございました」
「飲みすぎか?」
「2年前のボジョレーヌーボーを拾ってきたんで、皆で回し飲みしたらつい……」
そう言うと、早咲は迷彩柄のカーゴパンツの尻ポケットからワインのラベルを取り出してみせた。無理矢理剥がしたようで、ほとんど破れてしまっている。
「ラベルはお湯を使うとうまく剥がれるよ」
「公園ではお湯が出ないんですよ」
早咲は朗らかに笑った。
「そりゃそうだな」俺は謝った。「味はどうだった?」
「酸味がまろやかになって飲みやすかったので、グビグビ飲めました」
早咲は顔をしかめた。頭痛が戻ってきたのだろう。
「あとで、スクランブルエッグでも食べに行こう。卵料理は二日酔いに効くからな」
「じゃあ、赤ワインを飲みながら卵を食べればいいんですね」
飲んだあとに食べるのと、飲みながら食べるのは別物だ。おれは笑った。
早咲はもう一度店内を見回した。
「及川さん、僕は今日で目標ができました。将来、お金持ちになったら、この店でたくさんAVを買います」
早咲は手を広げて、くるっと回った。草原で歌うジュリー・アンドリュースのようだ。芳香剤がきつく香るこのどんよりとした空間を、おれは誇らしく思えてきた。
「
1990年代に活躍したAV女優の名前を早咲は挙げる。「お金持ちになったら」「成功したら」というシンプルな言い回しで、かっこつけることなく夢を語れる奴が今どれだけいるだろう。
「そのときは、及川さんの好きなお酒をおごらせてください。なにが好きですか?」
「スプモーニって知ってるか?」
早咲は首を振る。
「スパイシーなカクテルだ。カンパリ、グレープフルーツ、トニックウォーターで作る。グラスに氷を入れたら、一旦トニックウォーターで氷を少し濡らすのがポイントだ。カンパリのえぐみがそれで抑えられる」
「おとなって感じですね。じゃあ、それをおごりますね!」
以来、おれは歌舞伎町で早咲を見かけては声をかけるようになった。
寒さも緩んできたからか、夕方にミラノ座前の広場に行けば、早咲はいた。
どん兵衛の段ボールに座って友人と喋っている日もあれば、スーパーカップの段ボールに寝そべっている日もあった。床面積という観点からいえば、カップ麺の段ボールが一番座り心地が良いと早咲は強調した。
おれは何度も早咲を飲みに誘った。おれが日ごろ誰ともしないし、する必要もないと思っている話題を、早咲がおれに持ち出してくるからだ。
早咲は90年代のAV女優やエロ本に詳しかった。
ある日、バーテンダーがグラスをゆっくり並べるのを見ながら、早咲はおれにたずねた。
「及川さんは『デラべっぴん』世代ですよね?」
エロ本で世代を括ろうという価値観には同意しかねるが、確かにおれは『平凡パンチ』世代でも『GORO』世代でもない。
「そうだな。確かに読んでた。あの雑誌は変な企画が多かったよな。オナマイドとか」
オナマイドというのは、『デラべっぴん』に毎号付いていた付録で、ペーパークラフトのことだ。裸の女の子がエッチな動きをする紙模型である。工作が苦手なおれも何度か組み立てた。大体の場合、腕関節がひん曲がって、猟奇的な見た目になってしまったが。
「1993年1月号に、猫の目を通して女性のひとり暮らしを盗み見るという企画があったのを覚えていますか?」
AV屋の店長だからといって、エロになんでも通じているわけではない。万一覚えていたとしても、何年のどの号かまでは覚えていない。早咲はそういう細かいことをよく覚えていた。
「猫って、常日頃からそういうラッキーなシチュエーションにいられるわけですよね」
早咲はそう講評した。猫のアイデンティティに危機が訪れかけている。
「だから猫に生まれ変わりたい」と結論づけると、早咲は何度か頷いた。
おれらはまた黙ってしばらく酒を飲んだ。しばらくすると、早咲はまた違う話を始めた。おれは耳を傾け、相づちを打った。
いつもそうだった。店内ではいつも決まって旧い歌が流れていた。
早咲と会うことは習慣の一部になっていた。早咲とおれの価値観が抜群に合うというわけではない。早咲の価値観がおれに馴染んだ、というのが正解だろう。
早咲は日常の習慣や若い頃の体験談などを話題にしなかった。だから、好感が持てた。
早咲は見栄を張らなかった。かっこつけるような飲み方もしなかった。
飲みすぎることもないし、揚げ物を多く注文することもない。揚げ出し豆腐とポテトサラダだけで十分だと知っていた。枝豆を注文して白けさせることもなかった。
30分ほどなにも話さず、お互いじっと黙っていることもあったが、気まずくなることは一度もなかった。おれがスプモーニを2杯飲んで、早咲がクーバリブレを2杯飲んだら、そこでお開き。長居することもない。
気持ちよく一緒に酒を飲める相手を得たのははじめてのことだった。
飲んだグラスの数を覚えていられる内にお開きにできる相手なんて、そうそうお目にかかれるものではない。
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