第3話 同じ目線での会話

 5日が経つ頃には、二人の間のしりとりは、ゲームではなく、ただの消耗戦と化していた。

  疲労困憊の頭で必死に紡ぐ、互いの専門性を賭けた熾烈なデッドヒート。

 やがて、彼らの頭の中には、互いに何を言われても動じないような分厚い鎧が出来上がっていた。心を守るための壁を作る、絶対防御。

 そんな状況で繰り広げられる、一見荒唐無稽に見える、抽象的かつ直感的な言葉でのやりとり。

 いつしか、両者はある一つの真理に到達していた。

 ──すなわち、相手をどう崩すかではない。

 相手が崩れるかだ 。

 両者の戦いは、互いが自分の領域を守りながら、相手が崩れるまで戦うのだ。

「もう、なんなのよ、あの朴念仁!」

 うんざりしながら、詩織は図書館の片隅でスマホの検索画面を開いていた。健斗から送られてきた『ラグランジュポイント』という言葉の意味が、さっぱり分からなかったからだ。

 文学部とは言え、高校までは普通科だったので一般常識的な理系の知識はあるが、知らないものは知らないのだ。

 知らなければ、相手の問うて意味を答えさせるのがルールではあったが、質問をするということは教えを請うということだ。

 最初の頃は、「それって、どういう意味?」「それは何のタイトルだ?」と言ったやり取りがあったが、「こんなことも知らないの?」「一般常識だろ?」という挑発的な言葉と共に付随する解説に、申し合わせることなく、自分で調べるようになっていたのだ。

 イメージも意味も分からない言葉を使われると、自分自身が相手より劣っている気がして堪らなかったので、その場合は調べるのだ。

 でまかせを言われている可能性がある場合は、真偽を自分で確かめなければ、相手に丸め込まれることを意味する。

 ナチス・ドイツの宣伝大臣であったヨーゼフ・ゲッベルスによる、プロパガンダ(宣伝)に関する発言や演説から引用された、特徴的・象徴的な言葉の数々『Goebbels語録』には、


 多数で嘘を繰り返すと、馬鹿は必ず騙せる。相手に確かめない奴は、必ず騙せる。


 とある。

 相手の言う言葉や実験結果を鵜呑みにせず調べることは、研究者としての基礎中の基礎である。

 もっとも、この場合、同じ大学の人間であり、仮に相手が嘘をついているとしても、すぐにバレる嘘をつく意味などないのだが。

 詩織は、一人で悪態をつく。

「えっと、『ラグランジュポイント』は1991年4月26日にコナミから発売されたファミリーコンピュータ用ゲームソフト……。って、絶対に違うでしょ!」

 少し乱暴にサイト閉じて、他のサイトを調べる。

 それらしい、サイトがあった。

 

 ――地球と月との引力の関係が安定する領域。天体と天体の重力が釣り合う、宇宙空間の安定点。


 そこに置かれた物体は、ほとんどエネルギーを使わずに留まり続けられるというものだ。

 1969年に、ジェラード・K・オニールはスペースコロニーという新天地を建造するというアイデアを発表するが、建設位置をラグランジュポイントに指定している。

「へえ……」

 無意識に声が漏れた。

 詩織の脳裏に、星々の海に浮かぶ宇宙居住地・スペースコロニーが、まるで港に停泊するように静かに浮かんでいる光景が広がる。

 スペースオペラなどに出てくる、宇宙に進出した人類が作り上げた新たなフロンティア。

 静かで壮大なイメージが浮かんだ。


 ――なんて、ロマンチックなんだろう。


 理屈っぽい健斗が使う言葉にも、こんな詩的な世界が隠れていることに、彼女は初めて気づいた。


 ◆


 その日の昼下がり、学食で詩織が一人、クリームソーダの鮮やかな緑を眺めていると、トレーを持った健斗が向かいの席に、どかりと腰を下ろした。

 偶然?

 いや、この広大な大学のキャンパスで、この腐れ縁の幼馴染と出くわすのは、偶然というよりほとんど必然に近い。

「……何よ、席なら他にも空いてるでしょ」

  つんけんとした態度で答える詩織。

 健斗は迷うことなく話す。

「ここが一番効率的な動線上にあるだけだ」

 憎まれ口を叩きながらも、詩織の視線は健斗のカバンにある分厚い専門書に吸い寄せられた。一方、健斗の目は詩織の手元にある一冊の文庫本――先日、彼女がしりとりで使った『雪国』――に注がれていた。

 気まずい沈黙を破ったのは、意外にも詩織の方だった。

「……ねえ、健斗が、しりとりで使った『ラグランジュポイント』に関連して知ったんだけど、ハッブル宇宙望遠鏡って、すごいのね。世界のどこかにあると思って調べてみたら、地球から高度約550km。地球と太陽の、ラグランジュポイントを周回しているなんて思わなかった。

 ハッブル宇宙望遠鏡が撮った写真も見たわ。宝石を散りばめたベルベットみたいな、きれいな写真がたくさん出てきて、びっくりしちゃった」

 詩織は、少し照れくさそうに、手元のクリームソーダのグラスを指でなぞりながら言った。彼女の言葉に、健斗は一瞬、目を丸くする。

 いつも健斗の専門分野を『無味乾燥』と切り捨てる彼女が、自ら調べて、しかも「きれい」と口にするとは。予期せぬ方向からの言葉に、健斗の心に小さな波紋が広がった。

 そして、いつもは皮肉しか浮かべない口元に、ほんの微かな、彼自身も気づかないほどの笑みが灯った。

「……ああ」

 健斗は一度、言葉を切ると、まるで大切な宝物の話をするかのように、少しだけ声のトーンを落とした。

「あの望遠遠鏡が見せてくれるのは、何万年、何億年も前の、過去の光だ」

「過去の、光……」

 詩織は、思わず健斗の顔を見つめたまま、その言葉を繰り返した。

 それは、彼女が愛する古い物語のなかに登場するような、不思議で、どこか切ない響きを持っていた。

「そうだ」

 健斗は、詩織の真剣な眼差しから逃れるように、ふいと窓の外に視線を移した。昼下がりのキャンパスの喧騒が、まるで遠い世界の出来事のように感じられる。

「僕たちが今見ている星の輝きは、その星が遥か昔に放った光。光が僕たちの目に届くまでに、途方もない時間がかかっている。つまり、今見ているあの星は、もうそこには存在しないかもしれない」

 そこまで言ってから、健斗はゆっくりと詩織に視線を戻した。黒縁眼鏡の奥の瞳が、いつもより深く、そして静かに詩織を捉える。

「いわば、宇宙からの壮大なタイムカプセルなんだ」

 無味乾燥な数式しか見えていないと思っていた男の口から紡がれた、あまりにも詩的な表現。

 詩織は、心臓が不意にキュッと音を立てるのを感じた。まるで、今まで知らなかった健斗という物語の、秘密のページをめくってしまったような、罪悪感にも似たときめきが胸を締め付けた。

「……詩織の言ってた、その小説を、少し読んでみた」

 今度は健斗が口を開く。

「『国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった』

 ……冒頭の一文だけで、情景が目に浮かぶ。

 そこから、向側の座席から娘が立って窓を開けて、駅長を呼ぶ流れになる。

 ……写真のように緻密な描写じゃないが、読み手がその場に居て目線が動くスピードと、文章の展開がうまく一致していると思う。娘の年齢も髪型も服装も分からないけれど、昭和という時代を感じた。合理的じゃないけど、自分自身が体験している様な気持になれた」

 珍しく素直な感想に、今度は詩織の頬が熱くなる。

 二人はそれから、クリームソーダの氷がカランと溶けてなくなるまで、宇宙の話と、物語の話をした。

 それは、物心ついてから初めて、彼らが同じ目線で交わした会話だった。


(続く)

 次回、完結

『新しい「しりとり」』

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