第2話 噛み合わない言葉の応酬

 しりとり勝負は3日目を迎えていた。

 もう何度目か分からないほどのラリー。

 それでも二人は諦めることなく、次々と言語の応報を繰り返す。

 時刻はすでに22時を過ぎていた。

 二人とも、本の譲り合いをすれば問題は解決するにも関わらず、意地になって続ける。

 二人の目的は、完全にすり替わっていたが、負けたくないという意地とプライドをかけた戦いだ。

 

 詩織:『ゆ』→『憂愁』

 健斗:『う』→『宇宙線』


 詩織はベッドで横になってスマホの画面を見ていただけに、飛び起きてしまった。

 思わず声を上げて笑ってしまう。

 嬉々として、返信を書き込む。


 詩織:『ん、がついたわよ! このインテリ野郎! あんたの負けよ!』

 健斗:『予測変換を使っての送信ミスだ。……『宇宙』


 健斗の焦ったような短い訂正に、詩織の胸が少しだけすく。自分の口角が少しだけ上がるのを感じた。冷静さを欠いた健斗の姿を想像し、ここぞとばかりに畳み掛けた。

 

 詩織:『ルールを追加させてもらうわ。今回は、許してあげるけど。今後は、送信ミスでの取り消しは無しよ。ゲームーオーバーにしない代わりのペナルティーとして、学食をおごってもらうからね』

 健斗:『……分かった。寛大な処置に感謝する』


 その言葉に、詩織は見えないこと良いことにガッツポーズをした。勝ち誇っているところで健斗に追撃を加えようと、意気揚々と書き連ねていく。


 詩織:『う』→『裏窓』

 健斗:『ど』→『ドップラー効果』


 子供の言葉遊びに、大学生が意地をかけて、夜が更けていく。


 ◆


 翌日の昼休み。

 詩織は、少しだけ弾む心臓を隠しながら、学食の入り口で腕を組んでいた。健斗のミスから勝ち取った、ペナルティの実行日だ。

 いつもより少しだけ丁寧にアイロンをかけたブラウスが、風にそよいでいる。

 別に、健斗のためなんかじゃない。

 ただ、おごられる側としての最低限の礼儀だ、と詩織は自分に言い聞かせた。

 数分後、講義が終わった健斗が、分厚い専門書を小脇に抱えて姿を現した。詩織の姿を認めると、彼はいつもの平坦な声で言った。

「来たか。それで、何にするんだ。一番安いA定食か?」

「なっ……! あんたねえ、これはペナルティなのよ! 罪滅ぼしなんだから、一番高いスペシャルランチに決まってるでしょ!」

 詩織がぷいっとそっぽを向くと、健斗は「非合理的だ」と呟きながらも、黙って食券機の前に立った。

 メニューを選ぶ詩織の横顔を、健斗が無意識に眺めている。その視線に気づいた詩織が「……何よ?」と睨みつけると、健斗は苦笑する。

「あの小うるさい女が、きれいになったと思っただけだ」

 彼は、バツが悪そうにさっと目を逸らし、自分の分の食券を買った。そのわずかな言葉に、詩織の胸が小さくトクンと鳴った。

 トレーを持って席に着くと、気まずい沈黙がテーブルの上に降りてきた。カチャカチャという食器の音だけが、やけに大きく響く。

 詩織は、この空気に耐えきれず、昨夜の勝利を蒸し返した。

「昨日の『宇宙線』のミス、よっぽど焦ってたみたいね。あの健斗がルールを間違えるなんて」

 勝ち誇った笑みを浮かべる詩織に、健斗は味噌汁を一口すすると、冷静に反撃を開始した。

「あれは、君が送ってきた『憂愁』などという非論理的な言葉のせいで、思考のリズムを乱されただけだ」

「なんですって? 『憂愁』は、人の心の機微を表す、れっきとした美しい日本語よ!」

「その『心の機微』とやらも、突き詰めれば脳内のセロトニンやノルアドレナリンといった化学物質の分泌量の変化で説明できる。感傷に浸るより、そのメカニズムを解明する方がよほど建設的だ」

 目の前で繰り広げられる、SMSの延長戦。

 文系と理系の舌戦は、熱を帯びていく。

「あんたのその考え方こそ、無味乾燥だわ! 人間は機械じゃないの! 説明できないからこそ、美しいものだってあるのよ!」

「説明できないのではなく、現時点での観測技術と理論が追いついていないだけだ。いずれ全ては数式で記述される」

 売り言葉に買い言葉。

 けれど、テキストだけのやり取りとは何かが違った。理屈をこねる健斗の目が、いつもより生き生きと輝いている。その声には、どこか楽しそうな響きが混じっている。

 詩織は、その事実に気づいてしまい、それ以上言葉を続けることができなかった。

 ふと、健斗の手が伸びてきて、詩織の皿の隅にあるグリーンピースを、ひょいひょいと自分のトレーに移した。

 詩織が幼い頃からグリーンピースが苦手なことを、彼は覚えていたのだ。

「……何よ、別に食べられるわよ、これくらい」

「ウソだな。ならなぜ、皿の空いた方にグリーンピースが都合よく残る理由がない。残す方が非効率だ。このランチは僕が支払っている。栄養素のムダは許さないぞ」

 ぶっきらぼうな口調。

 けれど、その行動は、どんな優しい言葉よりも詩織の心を揺さぶった。憎まれ口ばかり叩くこの男の、不器用で分かりにくい優しさ。

(……こいつ、こんな顔もするんだ)

 詩織は、健斗の顔を盗み見る。いつも自信満々に見下ろしてくる憎たらしい顔とは違う、少しだけ柔らかな光を宿した、知らない顔。

 あっという間に食事は終わり、詩織が小さな声で「ごちそうさま」と呟くと、健斗はトレーを片付けながら、負けず嫌いの顔で言った。

「……次は、僕が勝っておごらせる」

 その言葉が、詩織には「また一緒に食事をしたい」という、回りくどくて、いじらしい誘い文句のように聞こえてしまった。

「ふん、返り討ちにしてあげるわ」

 そう強気に返しながらも、熱くなった頬を隠すように、詩織は俯くしかなかった。

 ただのペナルティであったはずの昼食は、二人の間の氷を、ほんの少しだけ溶かしたのだった。


 ◆


 しりとり勝負は、その後も続いた。

 『エモーショナル』『抒情的』『カタルシス』

 詩織が放つ言葉は、夕暮れの空に滲む絵の具のように、曖昧で、けれど心を揺さぶる響きを持っているはずだ。

 対する健斗は、『反物質』『ルンゲ=クッタ法』『虚数』

 まるで無菌室で生成された結晶体のような、冷たくて硬質な単語ばかりを返してくる。

 全く噛み合わない言葉の応酬。

 時折挟むこむ、専門分野の言葉の質問に、スマホで検索したり辞書を開いては回答をする。

 それはまるで、音程の外れた不協和音だったが、どこか心地良いメロディのようだった。

 詩織は自分が天才だと自負しているわけではない。

 なのに、目の前の相手は、こんなにも強いこだわりを持ちながら、常に自分を上回ってくるのだ。

 いつも自信満々に自分を見下ろしてくる憎たらしい顔が、脳裏に浮かぶ。

「絶対、負けられないんだから」

 詩織は思わず、口から独り言をこぼしてしまっていた。


(続く)

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