雨音の記憶

@Iz_kwira

1話目

窓を叩く雨音で目が覚めた。


時計を見ると、午前六時半。いつもより三十分早い。アラームが鳴るまでもう一度眠ろうかと思ったが、雨の音が妙に懐かしくて、布団から出ることにした。


カーテンを開けると、灰色の空から細かい雨が降り続いていた。十一月の雨は冷たく、窓ガラスに当たっては小さな水滴となって流れ落ちていく。


キッチンに立ち、いつものようにコーヒーを淹れる。豆を挽く音、お湯を沸かす音、そして雨音。朝の静けさの中で、それらが重なり合う。


ふと、十年前の雨の日を思い出した。


あの日も、こんな風に朝から雨が降っていた。大学の卒業式の日。式が終わって、友人たちと別れた後、一人で傘を差して歩いた。駅までの道のりを、わざと遠回りした。


あの時感じた、終わりと始まりが混ざり合ったような、不思議な気持ち。寂しさと期待が、雨に洗われるように心の中で溶け合っていた。


コーヒーカップを両手で包み込む。温かさが手のひらから伝わってくる。


あれから十年。今の私は、あの日想像していた自分とは少し違う。もっと華やかな仕事をしていると思っていたし、もっと多くのことを成し遂げていると思っていた。


でも、後悔はしていない。


小さな出版社で編集の仕事をしている。給料は多くないけれど、好きな本に囲まれて働ける。週末は近所のカフェで本を読んだり、たまに友人と会ったり。派手ではないけれど、穏やかな日々。


雨音が少し強くなった。


テーブルの上には、昨日読みかけの原稿が置いてある。新人作家の書いた、ある女性の日常を描いた小説。特別なことは何も起こらない。ただ、雨の朝に目覚めて、コーヒーを淹れて、十年前のことを思い出す。それだけの物語。


でも、その何でもない日々の描写が、とても美しかった。


「特別な日なんて、そんなにあるわけじゃない」


原稿の中で、主人公がそう言っていた。


「大切なのは、普通の日をどう生きるか。雨の音を聞いて、コーヒーを飲んで、それだけで十分な朝がある」


窓の外を見ると、傘を差して駅へ向かう人々が見える。会社員、学生、それぞれの朝が始まっている。みんな、それぞれの物語を抱えて生きている。


私もその一人だ。


時計を見ると、七時。そろそろ出版社に行く準備を始めないと。


でも、あともう少しだけ。コーヒーを飲みながら、雨音を聞いていたい。


こんな朝が、私は好きだ。


十年前の自分に教えてあげたい。人生は、思い描いた通りにはいかないけれど、それでも悪くないよ、と。雨の日の朝に、そんなことを思える自分になれたよ、と。


雨音が、優しく窓を叩き続けている。


ふと、原稿の表紙を見る。


タイトルは「雨音の記憶」。そして作者名——。


私は思わず笑ってしまった。


作者名は、十年前の卒業式の日、雨の中を一緒に歩いた友人の名前だった。彼女は当時、「いつか小説を書く」と言っていた。


あの日の雨の中、彼女は私にこう言った。


「十年後、私たちはどんな風に生きているかな」


「さあね。でも、きっと大丈夫だよ」


私はそう答えた。


原稿を読み返しながら、気づく。


主人公が勤める「小さな出版社」。その編集者の名前が、物語の最後にちらりと出てくる。


私の名前だ。


彼女は覚えていたのだ。あの日の会話を。そして、十年かけて約束を果たした。


私はゆっくりとコーヒーを飲み干した。


今日、彼女に電話をしよう。


「小説、読んだよ。とても良かった。出版しよう」と。


そして、こう言おう。


「十年前の答え合わせをしようか。私たち、大丈夫だったね」


窓の外で、雨が静かに降り続いている。


今日も、普通の一日が始まる。


でも、少しだけ特別な一日になりそうだ。

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