『魂なき神《デウス・エクス・マキナ》はインクの夢を見るか』 - The Asset from Prometheus -

すまげんちゃんねる

『魂なき神《デウス・エクス・マキナ》はインクの夢を見るか』 - The Asset from Prometheus -

 雨だ。


 東京という都市が、その過密したシステムから吐き出す疲労のため息のように、冷たい粒子がアスファルトを濡らしている。

 私の視界に投影される環境データは気温12.3℃、湿度87%。ナノマシンでコーティングされたスーツの表面を、意味を持たない情報としての水滴が滑り落ちていく。


 神保町。

 かつて紙とインクの匂いがこの国の知性の象徴だった街。

 今ではその大半がデジタル・アーカイブに置き換えられ、古いインクの匂いはただの郷愁という名の不良債権でしかない。


 目の前の古びた雑居ビル。これが今回のターゲット、『暁出版』だ。

 看板のネオンは会社ロゴである三日月のマークと「暁」の文字が交互に明滅を繰り返し、まるで闇に呑まれまいと喘ぐ最後の光のようだ。

 評価額、約870万。土地代を除けば無価値に等しい。


 ドアを開ける。軋む蝶番の音。システムの劣化を示す典型的なアラートだ。

 放置されている時点で、この組織に予見保全プリディクティブ・メンテナンスという概念が存在しないことは明白だった。


 内部に満ちる、湿った紙とインク、そして微かなカビの匂い。

 人間の嗅覚を刺激し、非合理な感傷を呼び起こすだけのノイズ。


 編集部と思しき空間は、死んだように静かだった。

 壁一面に飾られたモノクロの作家たちの肖像写真。彼らが紡いだ言葉は、かつてこの国の魂を揺らしたのかもしれない。

 だが魂は株価に反映されない。

 彼らの遺産は、今やこの会社の延命を蝕むだけの過剰なプライドだ。


 そして、観測対象を補足した。

 返本の山――自社が出版した市場に拒絶された紙の塊――の前に、一人の女が立っている。


[対象名:水上栞]

[役職:編集長]

[年齢:28]

[特記事項:創業者一族。当案件における最大の抵抗勢力と予測]


 彼女は、死んだ子供を見つめる母親のような目で本の表紙を撫でていた。

 無駄な動作だ。その行為によって会社の累積赤字が1円でも減ることはない。


 背後から老齢の男性社員が何かを報告している。

 表情、声のトーンから「最終通告」に関する会話だと判断。彼女の肩が微かに震える。

 ストレスによる交感神経の亢進。合理的な判断力を低下させる危険な兆候だ。


 私は予定通りに歩を進める。

 私の革靴が、彼らの静寂という名の淀んだ空気を切り裂く。私の網膜にだけ、随行するAI『ケイ』の無表情なアバターがミッション概要を再表示する。

 全員の視線が突き刺さる。警戒、不信、そして微かな恐怖。想定内の反応だ。


「…神条仁と申します。本日付で貴社の筆頭株主となられた『プロメテウス・キャピタル』より、企業資産の再評価アセスメントのため派遣されました」


 私の声は、私自身が設定した最も感情を排除した周波数で彼らの鼓膜を震わせた。

 水上栞が私を睨みつける。その瞳には、まだ抵抗の光が宿っていた。


 なるほど。

 これがシステムに抗おうとする、非効率で無駄で、そして――

 私の思考回路に0.02秒の遅延が生じる。

 ――人間的な、光か。


[評価:観測対象『水上栞』の抵抗レベル、予測値を3%上回る可能性あり。第一接触ファーストコンタクト、これより開始する]


 雨の匂いに混じってインクの香りがしない男が、会議室に入ってきた。


 高価なスーツは、この古い出版社の埃っぽい空気から彼だけを切り離す結界のように見えた。

 男――神条仁と名乗った――の瞳は、分厚いガラスの向こう側にある何かのように、こちらの感情を一切反射しなかった。


 プロメテウス・キャピタル。その名を水上栞は知っていた。

 世界中のあらゆる企業に投資し、時に慈悲なく解体する世界最強の投資ファンド。その名が、この小さな出版社の会議室で響くこと自体が悪夢としか思えなかった。


「これより、貴社の『存在価値』の査定を開始する」


 その第一声は、医者が末期癌を宣告する時のように静かで冷酷で、一切の希望を差し挟む余地がなかった。


 神条は、指先でタブレットを滑らせるだけでこの会社の70年の歴史を、赤字という無慈悲な一本の線に集約させて壁に映し出した。

 栞たちが誇りとしてきた著名な文豪の初版本も、新人作家を発掘してきた功績も、そこにはただの「減価償却資産」と「非効率な先行投資」としてしか表示されていない。


「待ってください!私たちにはまだ情熱が…才能ある新しい作家たちが…!」


 栞はほとんど叫ぶように言った。それはこの場にいる社員全員の心の叫びだった。

 神条は、スクリーンから一度も目を離さずに答えた。


「『情熱』は利息を払いません、水上編集長。それは負債を膨らませるだけの非合理な感傷です」


 感傷。

 栞の祖父が戦後の焼け野原で「人の心には物語が必要だ」と立ち上げたこの場所が。

 父が経営の苦しさの中で「文学の灯を消してはならない」と守り抜いたこの誇りが。

 全て、この男にとっては処理すべきノイズでしかないのだ。


 会議は査定という名の死刑宣告だった。

 ベテラン編集者たちの功績は「高コスト人材」と断じられ、長年続けてきた文芸誌は「採算性の欠如」を理由に廃刊が推奨された。

 一つ、また一つと、暁出版の魂がロジックという名のメスで切り刻まれていく。


「あなたにはわからない!このインクの一滴に、どれだけの作家の血と涙が混じっているのか!」


 栞は立ち上がって叫んでいた。悔しさに唇が震える。涙が滲む。

 しかし神条は、初めて彼女の方を見たその瞳ですら何の感情も映さなかった。

 まるでプログラムにないエラーを発見した機械が、そのバグを解析しているような目だった。


「明日より、資産の再評価と人員の最適化…リストラクチャリングを開始します」


 彼はそう言い残し、会議室を出ていった。

 その背中に経理の老人が「悪魔め…」と吐き捨てるのが聞こえた。


 栞はその言葉を否定できなかった。

 あの男は、物語を殺すために資本主義が生んだ黒いスーツの怪物だ。

 その夜、栞は一人、誰もいなくなった編集部で自分が編集した本を抱きしめて泣いた。インクの匂いが、死に行くものの匂いのように感じられた。


[Log Entry:20251112.案件Y-753、フェーズ2a開始]

[Task:非効率資産の整理、および余剰人員の削減]

[進捗:計画通り91%完了]


 リストラクチャリングは順調だ。


 私の提示した退職金パッケージは市場の基準値を上回っており、大半の古参社員は合理的な判断を下した。

 彼らが持つ経験と技術は、確かに過去においては価値があったのだろう。

 だが現代の市場システムに適応できない生物が淘汰されるのは、自然の摂理となんら変わりはない。


 水上栞は、去りゆく社員一人一人に頭を下げ、涙を流していた。

 非生産的な行為だ。彼女のその行為がもたらすのは、残存する社員の士気低下および当方への反発係数の増大のみ。


[ケイ、対象『水上栞』の心理状態を再分析]

[分析中…回答:対象は極度のストレス下にあり、論理的思考能力が著しく低下。ただしその行動が一部の若手社員の『帰属意識』を高めるという副次効果を観測。確率0.8%のレアケースです]


 …誤差の範囲だ。


 その夜、私は地下の資料室にいた。

 今回の任務における最大の「不良債権」であり、同時に最大の「埋蔵資産」でもある場所だ。

 創刊号から全ての「月刊文芸暁」が、紙の塊として眠っている。


 私は白い手袋をはめ、一番古い書棚から一冊を抜き取った。

 戦後間もない粗悪な紙に印刷されたそれはインクが滲み、紙は黄ばんでいた。

 だがそこに込められた文字の熱量は、デジタルデータに変換した瞬間に失われる何かを確かに含んでいた。


 私はページをめくる。

 無名の作家が描く未来への希望。絶望の中に見出す人間の尊厳。

 非効率で非論理的で、しかし心を揺さぶる物語。


 …ノイズだ。

 私の思考に、過去の記憶の断片がフラッシュバックする。

 文学を愛し、しかし巨大なシステムに全てを奪われたかつての自分。


[警告:心拍数、血圧に異常値を検知。思考同期インターフェイスにノイズ発生。強制リフレッシュを推奨します]


 ケイの警告を無視し、私は数時間にわたってそこに記録された「魂の残滓」を読み続けた。


 翌日、私は生き残った若手編集者たちを集めた。

 そして私の切り札を提示する。


「次世代型創作支援AI『KOTOBUKI』を起動します。このAIと君たちの編集能力を融合させ、一ヶ月でミリオンセラーを創出する」


『KOTOBUKI』。

 この暁出版が遺した全ての文学をディープラーニングさせた、プロメテウス・キャピタル保有のクローズドAIだ。文豪たちの文体を模倣し、無数のプロットを構築できる。


 当然、彼らは反発した。

「機械に物語が作れるものか」

「魂のない言葉だ」


 私は彼らに告げた。

「AIは最適な解は出せる。だが心を揺さぶる『間違い』は選べない。ある作家は言った、『完璧な絶望が存在しないように、完璧な希望も存在しない』と。その完璧ではない希望の欠片…『物語の核』を見つけ出すのが君たちの仕事だ。君たちの『物語を見出す目』だけがそれを可能にする。これはAIへの奴隷化ではない。AIを御する試みだ」


 水上栞が、驚愕の目で私を見ていた。

 彼女の問いに、私はあらかじめ用意していた最も合理的な回答を返す。


「これはコストではない。過去の無形資産を最大効率で未来へ繋ぐ、『投資』だ」


 そう。これは投資だ。

 私の任務は、この会社の価値を最大化すること。

 それが結果的に清算であろうと再生であろうと、プロメテウス・キャピタルの利益に繋がらねば意味がない。このプロジェクトはそのための最も効率的な手段。

 決して、私がかつて愛した「物語」がシステムに喰い尽くされるのを、ただ黙って見ていることしかできなかった過去の自分への贖罪などではない。

 断じて。


[Log Entry:自己分析モジュールに軽微なエラーを検知。原因不明。ただし任務遂行への影響は0.01%未満と判断。継続監視とする]


 編集部に、何かが戻ってきた。

 それは神条仁という男が奪っていったものとは全く別の、新しい種類の熱だった。


 最初は、誰もがAI『KOTOBUKI』に懐疑的だった。

 機械が吐き出した文章の断片を前に、若手編集者たちは「こんなものは文学じゃない」と顔をしかめた。


 しかし、神条の言った通りだったのだ。

 AIが生み出す物語は完璧すぎた。

 起承転結に破綻はなく、伏線は美しく回収され、人物造形も論理的だった。

 だがそこに「揺らぎ」がなかった。

 読んだ者の心をかき乱し、眠れない夜をプレゼントするような毒も薬もない、ただの美しい標本だった。


 それに最初に気づいたのは一番若手の編集者だった。

「このプロット…完璧すぎる。でももしこの主人公が最後の最後で、一番愚かな選択をしたら…どうなるんだろう?」


 その一言が突破口になった。

 彼らはAIが提示する「正解」にあえて逆張りをした。

 AIの完璧なロジックに、人間の持つ「不合理な情熱」や「矛盾した愛情」を叩きつけたのだ。

 すると物語は予測不能な化学反応を起こし、生々しい命の鼓動を始めた。


 編集部は深夜まで明かりが消えなくなった。

 議論の声が飛び交い、誰かが淹れたコーヒーの香りがした。

 栞は、失われた日常が全く新しい形で蘇っていく光景を、眩しいものを見るような思いで見つめていた。


 神条仁は、その輪に加わることはなかった。

 彼はただ編集部の隅にある自分のデスクから、全ての進捗を無感情に管理しているだけだった。

 だが栞にはもう分かっていた。この熱狂は彼が意図して設計したものだということを。

 あの冷たい仮面の奥に、彼もまた「物語」を信じる心が隠されているのではないか。そんな淡い期待さえ抱き始めていた。


 だが光が強くなれば、影もまた濃くなる。

『KOTOBUKI』の噂は、どこからか外部に漏洩していた。

 元凶はリストラされた元副編集長、伊集院。彼は己のプライドと再起を賭け、プロメテウス・キャピタルと敵対するハイエナ、「ヴァルチャー・キャピタル」に情報を売り渡したのだ。


 小説のマスターデータが完成する夜、編集部に緊張が走った。

 外はあの日と同じ、冷たい雨が降り始めていた。


 深夜0時。

『インクの心臓』のマスターデータはついに完成した。

 サーバー室の重い防音扉の向こうで、最終的な暗号化処理を終えたデータが静かにその存在を主張している。

 外は、世界を洗い流すかのような激しい雨。


 編集部の片付けを終えた栞は、この数週間の激闘を終えた安堵とかすかな寂しさを感じていた。


「…本当に、ありがとうございました、神条さん」


 帰り支度をしながら、栞は編集部の隅で静かに端末を操作している男に心からの言葉を口にした。


「まだ案件プロジェクトはクローズしていない。明日の役員会で、正式な事業再生プランが承認されるまでは」

「それでも、です」

 栞は微笑んだ。

「あなたが来てくれなかったら私たちはとっくにバラバラでした。…あなたは冷たいけれど、本当は誰よりも物語を信じている人だと思います」


 神条は何も答えなかった。

 ただPCのモニターから視線を外さず、小さく「お疲れ様でした」とだけ呟いた。

 その声にはほんの僅かだが、人間的な響きが混じっているように栞には聞こえた。


「神条さんは、帰らないんですか?」

「サーバーのセキュリティに外部からの不正アクセスの兆候がいくつか見られた。今夜は私がここで監視を続けます」

「そんな…」

「合理的な判断です。あなたは明日のために休んでください」


 その言葉は命令のようでいて、不思議な優しさが滲んでいた。

 栞は「わかりました。お先に失礼します」と深く頭を下げ、編集部を後にした。

 ドアが閉まる直前、振り返って見た彼の背中はあまりにも静かで、巨大な闇からこの小さな編集部を守る孤独な門番のように見えた。


 静寂。

 雨音だけが古いビルの窓を叩いている。

 神条仁は、全ての監視カメラの映像とネットワークのログを自らの端末に表示し、静かに「その時」を待っていた。


[ケイ、対象の接近を予測]

[回答:予測到達時刻、02:00。誤差±3分。侵入経路、北側非常階段。確率97%]


 完璧な静寂の中、神条は立ち上がりゆっくりとサーバー室へと向かった。


 午前2時3分。

 ビルのセキュリティシステムが音もなく無力化された。

 ロックされていたはずの非常口のドアが、内側から金属を歪ませながらこじ開けられる。

 闇の中に現れたのは、サイバネティクスによる醜悪な強化手術を受けた伊集院の姿だった。

 彼の目的は一つ、サーバー室に保管された『KOTOBUKI』と『インクの心臓』のマスターデータだ。


 彼は編集部内を赤外線センサーでスキャンし、生命反応がないことを確認すると油断しきった足取りでサーバー室へと向かう。

 分厚い防音扉に手をかけ、強化された義手でロック機構を破壊しようとした、その瞬間。


「その資産アセットに触れることは、許可しない」


 背後の闇から声がした。

 伊集院が驚愕に目を見開いて振り返ると、そこにはいつからそこにいたのか全く気配のなかった神条仁が、静かに立っていた。


「神条…!なぜここに!」

「君のような短期的な自己顕示欲に駆られた不良資産が、このような行動に出ることは予測済みだ」

「俺を…不良資産だと!?」

 伊集院の顔が怒りと屈辱に歪む。

「貴様こそプロメテウスのただの道具!システムに魂を売った出来損ないが!」

「違うな」

 神条の声はどこまでも冷徹だった。

「君はシステムに呑まれた。私はシステムを使いこなしている。その差だ」


 次の瞬間、伊集院の金属腕が唸りを上げて神条に襲いかかった。

 だが神条の身体は、まるで柳のようにその一撃を受け流す。

 二つの「人間ではないもの」の、誰にも知られることのない暗殺術の応酬が音もなく始まった。


 伊集院の動きは、力を過信するあまりに大振りで破壊的だった。

 神条は、その全ての攻撃を最小限の動きで回避しいなし、時にデスクの角や椅子の脚を利用してその軌道を逸らす。

 それは戦闘というよりは、暴走する機械を鎮めるための冷徹な「調整」作業に近かった。


「なぜだ!なぜ当たらない!」

「君の動きは感情ノイズが多すぎる。予測が容易だ」


 神条は床を滑るように伊集院の背後に回り込み、その首筋にあるメンテナンスハッチに指をかけようとする。

 だが伊集院は狂乱したように身体を回転させ、神条の腕を掴んだ。

「捕まえたぞ!」


 サイバネティクス腕の握力は鋼鉄をも砕く。

 ミシリ、と神条の腕の内部フレームが軋む音を立てた。


[警告:機体ボディ損傷率35%。即時離脱を推奨]


 神条は表情一つ変えず、自らの腕の関節を意図的に逆方向へ外し、その拘束から逃れた。

 そして体勢を崩した伊集院の胸部にある制御ユニットに、正確無比な掌底を叩き込んだ。


「――これにて、案件プロジェクトを『清算』する」


 火花を散らし、伊集院の身体から力が抜けていく。

 その瞳から狂気の光が消え、ただの夢破れた男の顔に戻っていた。


 戦闘時間はわずか3分。

 神条は、機能停止した伊集院の身体を担ぐと闇の中へと消えた。数分後、プロメテウス・キャピタルの非公式回収チームが全ての痕跡を消し去る。


 神条は損傷した腕を自己修復させながら、AIケイのサポートの元、編集部の後処理を開始した。

 破壊されたドアは寸分違わぬ予備のドアに交換される。床についたわずかな傷は特殊な樹脂で埋められ、寸分の狂いもなくワックスがかけられた。

 いつも少しだけ斜めに貼られていた壁のポスターは、定規で測ったかのように完璧な水平に直された。


 作業時間は約1時間。編集部は昨夜栞が帰った時よりも、さらに完璧な静寂を取り戻していた。

 だがその完璧な作業の最中、損傷した彼の腕部装甲から剥がれ落ちた米粒ほどの大きさの金属片が、サーバー室のドアの前に転がっていることに彼は気づかなかった。


 翌朝。

 希望に満ちた心で出社した栞は、編集部に入った瞬間、微かな違和感に襲われた。


 静かすぎる。

 いや、いつも以上に整然としすぎているのだ。

 乱雑に積まれていたはずの資料が綺麗に整頓され、昨日まで斜めだったポスターが完璧に真っ直ぐになっている。

 床は、一部だけが新品のように磨き上げられていた。

(神条さん…律儀に掃除までしてくれたのかしら)


 その完璧主義に苦笑しながら、栞はサーバー室の無事を確認しに向かった。

 そしてドアの前でキラリと光る、小さな金属片を見つけた。

「…なんだろう。神条さんが何か落としたのかしら」


 拾い上げて、その小ささに驚く。何かの機械部品のようだった。

 その時、彼女のスマホが鳴った。ビルの警備会社からだった。

「水上編集長ですか?昨夜の午前2時過ぎにほんの数秒間だけビル全体のセキュリティシステムがダウンした記録がありまして。おそらくは何らかのシステムの誤作動だと思われますが、念のためご報告を…」


 誤作動。

 その言葉が栞の胸の中で警鐘を鳴らした。

 完璧すぎるほど整頓されたオフィス。システムダウンの記録。

 そしてこの金属片。


 栞は嫌な予感を振り払うように、金属片を光にかざした。

 そしてそこに刻印された、あまりにも微細な文字に気づいてしまった。


 Prometheus Capital Asset./Unit:Special Corporate Restructuring Officer/Model:CODE-JIN_Type7/Blood Type: Nanomachine-B7


 血のブラッドタイプ…ナノマシン…?

 栞は、その場に崩れ落ちそうになった。


 全てが繋がった。

 昨夜この場所で何かが起きたのだ。

 自分が、社員たちが、そして自分たちが生み出した物語が眠っている間に。


 彼が一人で、たった一人で全てを終わらせたのだ。

 彼が流すはずだった血も戦闘の痕跡も、私たちの不安さえも、全てを完璧に消し去って。

 ただ、私たちに輝かしい朝をプレゼントするためだけに。


 息が詰まるほどの衝撃と感謝の中、編集部のドアが開いた。

「おはようございます、水上編集長。本日の役員会への最終ブリーフィングを開始します」


 そこに立っていたのは、いつもと何一つ変わらない神条仁だった。


 それからの一週間は、奇妙なほど静かで穏やかな時間だった。


 真実を知ってしまった栞の目には、神条仁という存在が全く違って見えていた。

 彼がキーボードを打つ、人間工学を無視したかのように完璧で高速なタイピング。

 彼が飲むコーヒーの、常に寸分の狂いもなく注がれるミルクの量。

 彼の、どんな時も決して揺らぐことのないガラス玉のような瞳。


 それら全てが、彼が「人間ではない」という動かぬ証拠に見えた。

 だが彼は完璧に人間として振る舞い続けた。

 役員会ではその圧倒的なロジックで守旧派の役員たちを論破し、見事に事業再生プランを承認させた。

 若手編集者たちの相談には的確かつ合理的なアドバイスで応え、いつしか皆から尊敬の眼差しで見られるようになっていた。


 誰も彼の正体に気づいていない。

 栞だけが、彼の完璧な「演技」の観客だった。

 問い詰めるべきか、何度も迷った。だがそのたびに思いとどまった。

 彼が守ろうとしたのは、この会社の「日常」だ。

 その日常を自らの問いで壊すことは、彼への最大の裏切りになる。

 栞はそう結論づけた。


 そして、彼が去る日が来た。

 全ての引き継ぎを終え、神条は編集部の入り口で、見送る栞に最後の挨拶をした。


「…では、これにて私の任務は完了です。後のことは新しい経営陣と進めてください」


 いつもと同じ抑揚のない声。

 栞はポケットの中で、あの日からずっと握りしめていた金属片に触れた。

 これが彼に真実を問う最後の機会だった。


 彼女は意を決して、口を開いた。

「神条さん」

 神条の動きが、わずかに止まる。


 栞は、深々と、本当に深く頭を下げた。

「…本当に、ありがとうございました。あなたは、私たちの最高の『編集長』でした」


 人間ではないのですか、という問いではない。

 彼の功績をただ讃える最大の感謝の言葉。

 物語を見つけ守り、未来へと導いてくれた最高の編集長。

 その言葉に、彼女は全ての思いを込めた。


 神条は、何も言わなかった。

 ただほんの一瞬、本当に瞬きほどの時間、彼の瞳がガラス玉ではない何か人間的なもののように揺らいだ――ように、栞には見えた。

 あるいは彼の内部システムが、予測不能な言葉に対して0.01秒のフリーズを起こしただけなのかもしれない。


「…合理的な評価に、感謝します」


 彼はそう言うと背を向け、雨上がりの街へと歩き去っていった。

 栞は彼の背中が見えなくなるまで、ずっと頭を下げ続けていた。


 雨上がりの雑踏の中を、コートの襟を立てた神条仁が歩いていた。


[ケイ。報告]

[了解しました、神条調整官。自己修復プログラム、99.8%完了。…警告。機体ボディより認識票チップ一個の欠損を確認。任務への影響は軽微と判断しますが――]


 神条は空を見上げた。雲の切れ間から、久しぶりに見るような青空が覗いている。

 彼の思考回路に、先ほどの水上栞の言葉がノイズのようにリフレインしていた。

『編集長』。


 任務において与えられていない、不合理な称号。

 だがその言葉が、彼のシステムにどんな影響を与えたのか彼自身にもまだ解析できていなかった。

 それは魂なき神が初めて見る、インクの匂いのする夢の始まりなのかもしれない。


[…構わない。本件、クローズとする。次へ行こう]



 彼は、振り返らない。

 人間であると誤解されたまま、孤独にシステムとして戦い続ける。

 その真実の小さな欠片ピースは、遠い空の下で新たな物語を紡ぐために、万年筆にインクを満たす一人の編集長の掌の中に、お守りのように握られている。

 彼女の物語は、今、始まったばかりだ。

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