妖怪喫茶「景狐堂」 〜心の注文、うかがいます〜

星見守灯也(ほしみもとや)

第1話、弥尋

 この日も、なにも変わりのない一日だった。


「うん、そこに置いておいて」


 退職届を出しても、辞めてやったという感慨はなかった。上司は重なった書類の上に置くように言うと、すぐに画面に目を移した。私は自分の机を片付け始める。まわりはキーボードを叩く音が響くほど、静かなまま。


 いまさら止めて欲しかったわけではない。いないように扱われることに、むしろ安心すらしていた。


「お疲れさまでした」


 それだけを告げて、会社を出る。誰も返事をしなかったけれど、それがかえって心地よかった。あたりはすっかり暗くなっていた。もう十二月、冷たい風がコートを鳴らす。駅前で立ち止まり、スマートフォンを取り出した。


 安定した会社で普通に働いて、普通に結婚して、普通に暮らしていく。親の言う普通の人生は、私には難しすぎたみたいだ。背伸びすれば届かないことはないが、ずっとそうだと疲れてしまう。いつまで頑張ればいいの? そんな道を、ずっと歩いてきた。


 母から「おつかれ。次の仕事、考えなきゃね。ちゃんと食べて寝て。いい出会いもあるかな。またね」とメッセージがあった。悪意はないし、心配してくれているのだろう。けれども「ちゃんと」「いい出会いも」という部分が引っかかって、返信する指が止まった。


 昔の友達に連絡を取ろうかとも思ったが、「今、何やってるの?」と無邪気に聞かれそうで、ためらわれた。嘘をつける気がしなかったし、だからといって事実を笑って答えられる気もしなかった。


 SNSの通知も数件入っている。対立と論争、炎上、暴露、商材商法……他人の感情が次から次に流れ込んできて、気持ち悪くなる。それらに混じって、ていねいな暮らしの紹介が出てきた。ひとつひとつに心をこめて過ごしましょう。作り置きを作って、植物に水をやって、古くなった服を繕って、コーヒーの豆を挽く。


 そんな完璧で美しい生活、できっこない。毎日をきちんと生活できている人たちを見ると、なんだか非難されている気持ちになってしまう。……私は頑張れなかったなあ。スマホを閉じて、夜の街をただ歩く。


 坂井さかい弥尋みひろ、二十六歳。ここにきて、行き先が見えなくなってしまった。




 人通りの少ない道に入って、裏通りの角を曲がった瞬間、街の音が途絶えた。ビルの灯りが影に隠れ、いつの間にか風景が変わっていた。車の入れない細い道、でこぼこした石畳が続く。先程までとまったく違う、静かな街並み。どうやら迷ってしまったみたいだ。


 でも、このまま家に帰る気にはなれない。どこかに座りたい。ちょっとだけ、知らないところで休んでいきたかった。


 その時、カラカラカラ……と引き戸の音がした。私は思わず頭をあげる。どこから聞こえたのかと見回すと、ビルとビルの谷間に灯りを見つけた。墨で書いた文字、喫茶『景狐堂けいこどう』。十字路の角に、猫の額と表現できそうな小さな庭つきの建物があった。


「え、こんなところに……?」


 地面を覆う草に低木が数本、大小の鉢にも植物が植えられている。その緑に隠れるようにして、古民家風の平屋が建っている。まわりの古びたビルとはまるで質感の違う光景に、思わず目を疑った。


 まさか、手の込んだハリボテじゃないかと思ったとき、引き戸から作業服の男性が出てきた。男性……いや、ツーブロックの頭の中央が平たく皿のようになっている。肌は緑色で、口もくちばしのようにとがって、背中も丸く膨らんでいて……。


「おや。あなた、この店を見つけましたか」


 まるで河童カッパに見えたその人は、私を見つけると朗らかに話しかけてきた。返す言葉を失った私のことなど気にもせず、彼はニコニコとして「どうぞ、どうぞ」と勧める。え、これ、入らないとダメ?


 私は流されるまま、平たい石の小道を歩いた。すれ違いざま、河童は「ここは、ゆっくり休むにはいい場所ですよ」と笑った。


 その店は木造で、柱に木目が浮き出て綺麗だな、と思った。小さな窓の向こうは薄暗く、本当に営業しているのかと疑問が湧く。「あの……」不安になって振りむくと、あの河童はもういなかった。


 河童だなんて! 夢でも見てるんじゃないか。白ウサギのかわりに河童って!  狐につままれたような光景だったが、不思議と帰る気にはなれない。吸い寄せられるように手をかけると、引き戸は先ほどと同じ柔らかい音を立てて、するりと開いた。




「おじゃまします……」


 入ってはみたが、人の気配がない。雲がかかったような薄暗さ。かすかな灯りに、なにもかもがぼんやりとかすんで見える。時間の流れさえ澱んでしまっているようだ。


 目が慣れると店内が見えてきた。外から見たより広い。太い柱とはりに支えられた天井が高いからだろうか。床は三和土たたき――土間どまになっている。中にもあちこちに植物があって、濃淡の緑に囲まれていた。


「……おーい、誰かいるの?」

「え?」


 かすかに声が聞こえた。男のものとも女のものともわからない。それどころかこどものようにも老人のようにも聞こえた。見回すけれど、誰もいない。……気のせいだろうか。店のなかはしんと静まりかえっていて、私の吐息だけがやけに大きく聞こえる。


 おそるおそる店の奥へと歩いていく。小さなカウンターがあって、席が並んでいた。店の人はどこにもいない。怪しい雰囲気を感じながら、声の主を探す。


「……あの、誰かいるんですか?」

「ここだよ! ここ!」


 そこで私はやっと気づいた。カウンターのイスに、布で包まれたなにかが置いてある。その布のなかから声がする!


「ここ……?」


 とまどいながら布を開いてみると、それは円形にがついた銅の鏡だった。鏡面がくすんでいるだけの、博物館でしか見ないような古い鏡だ。裏には南天が鋳込まれている。


 くるりと返せば、大きなヒビのはいった鏡面に、ぼんやりと私の顔が映る。なんて疲れ切った顔。どこにでもいる、換えのきく人間。ヒビ割れに歪んだ顔がそのまま、私の心のように思えた。


 その顔がぐにゃりと揺れて見えたとき。


「見つけてくれて、ありがとう。親切なかた」


 鏡から声がした。鏡に映った私が喋っている!


「.……つらかったでしょう? 誰にも見てもらえずにがんばるのは」


 鏡の声は澄んでいて、まるで古くからの友人のようだった。自分の心の中の言葉をそのまま聞かされた気がして、私の心臓が強く跳ねた。そうだ、私はつらかった。普通に頑張れなかった私を、誰にも知られたくなかったけれど、誰かに優しく声をかけてほしかった。


「ここに映るあなたは、ありのままのあなたよ。.……名前を教えてちょうだい。ここにいるあなたを、ちゃんと知りたいから」


 不思議な誰かが、やっと自分の存在を認めてくれた気がして、つい涙腺がゆるんでしまった。その声は日向ひなたの眠気のように、抗いがたい誘惑となって心を揺さぶる。


「ねえ、お名前を教えて? きっと楽になれるから」


 鏡の中の私は、私が言ってほしかった言葉をささやく。「頑張ったね」「もう無理しなくていいよ」。その声を聞いた瞬間、思考が白い霧に包まれた。


「……私は――坂井さかい弥尋みひろ

「そう、ミヒロね、ミヒロ! 良い名前!」


 鏡のなかのミヒロが奇妙に笑って見えた。その笑みに背筋が凍る。息をしたいのに胸が動かない。まるでなにか大事なものが抜け落ちてしまったようだ。私はどうしてここにいる? ここでなにをしている? 私は……。


 一気に体温が下がる。動こうとしても足の感覚が遠い。鏡の向こうで笑う自分がいるのに、私は血の気が引いた顔をこわばらせるだけだった。鏡を持つ手が、まるで石膏せっこうのように固まったまま動かない。


 鏡のミヒロはそのままの姿で鏡から抜け出すと、私を突き飛ばす。「あっ!?」。ミヒロは投げ出された私のカバンをつかんだ。それから何も映っていない鏡を持ち、高らかに笑う。


「これでわたしはサカイミヒロ! はは、名前をくれて、ありがとうよ!」

「おい、おまえ、何をしている!?」


 荒々しい足音をたてて奥から出てきたのは、シャツに黒地の着物を着た男性だった。長い銀髪を後ろでまとめた男は、もうひとりのミヒロを見ると紫赤色の目を光らせた。ぐわっと顔が歪み、怒りをあらわにする。しかし、ミヒロはひらひらと手をふって答えた。


「ちょっと名と姿を借りただけ。飽きたら返すよ、いいだろう?」

「てめえ、やりやがったな……!」

「ふん、我々に名前を教えるほうが間抜けなんだ。違うか!?」


 そう言い捨てるなり、鏡から出てきたミヒロはひょいと飛んで、闇夜に消えてしまった。




「あーあ……。余計なことを」


 男のため息で、目が覚めた気がした。けれどもまるで現実感がなかった。裏路地の店。河童カッパのような男。鏡からした声、そして――。今もまだ、ふわふわと浮いているようにさえ感じる。


「あの、なにが、あれは、鏡が……」


 聞きたいことはあるが、うまく言葉にならない。何が起こったのか飲み込めていない。その様子を見ていた男は、袴をさっと整え、いまいましげな低い声で聞いた。


「匂いが薄い。――おまえ、自分の名前は言えるか?」

「私の名前……? 私は……」


 当たり前のように言おうとして気づいた。名前が出てこない。あれっと思って考えるが、まったく思い出せない。確かにあった名前も音もなくなっていた。慌てて記憶をたどるけれど、気持ちが焦るばかりで自分に関することがすっぽり欠けている。


「私は……」


 それっきり、あとが続かない。思わず腕を握りしめる。その腕は冷たく、ぶるぶる震えていた。


「あの鏡に名前と姿を映しとられた。名前というのはこの世にカタチを繋ぎ止める糸のようなもんだ。おまえはもともと自分が薄いようだからな。全部持ってかれちまった。仕方ねぇなあ……」


 男は丸眼鏡ごしに顔を覗き込んできて、がりがりと銀の頭を掻いてみせた。


「おまえ、人間だろ? 身分証は? ああ、とられたのか」

「……すみません」


 チッと舌打ちが飛んでくる。しゅんと体を縮めると、整った顔の男は口を曲げた。


「まあ、あそこに置いておいた俺が悪いんだけどよ」


 ふうと息をついて、男は引き戸を閉めた。外からの空気が途切れると、この店に染みついた薬草臭さがわかる。


「とりあえず、こっち来い。今後のことを考えよう」

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