後
「すずね。どうかしたの?」
はっとして隣を見ると、みかが座っていた。そこは白い日差しが降り注ぐ縁側で、竹垣で囲まれた前庭は一面が銀世界だった。松の木からほたほたと雪が溢れ、根元の池に落ちる。飛び石には大きな亀が一匹、目を閉じて日光浴でもしているようだった。
知らない場所なのに、なぜか気分が安らぐような、奇妙な感覚。みかは先程と同じ巫女服を着ている。相変わらずのんびりした声音と、穏やかな笑顔をあたしに向けていた。
何が起こったのか理解が及ばず、きょろきょろと周りを見回す。そもそもこんなに陽が高いなんて変だ。さっきまで夜中だったのに。どこか現実味がなく、試しに自分の頬をつねってみた。
「……痛くない」
「すずねったら。ほっぺがお餅みたいになってるよ」
限界まで皮膚を伸ばしてみても、さっぱり痛みを感じなかった。それに、陽光を受けているはずなのに暖かさがない。雪が足元にあるのに冷たくもない。恐る恐るみかの頬に触れてみても、体温も匂いも肌の感触も、何も感じられなかった。
ここはどこだろう。さっきまでの暗くて寒い木の下よりマシだけれど、もしかしたらあの世なのかも知れなかった。雪化粧の落ちた松の梢に、一羽の鴉が舞い降り、呑気に羽繕いをし始める。あれも子供らの貌の一端なのだろうか?もうそんなことを考える気力も尽きていた。
みかはすぐそこで、手の届く距離にいる。元の、人間の姿のまま。
なのにどうしてだろう、ちっとも嬉しくないのは。みかがすごく遠くて、ここにはいないような気さえするのは。みかの顔を見て、こんなに淋しくなったのは初めてだった。
「すずね、どうしたの?どこか痛いの?」
気付かぬうちに頬に雫が滴っていた。零れ落ちた涙が袴を濡らす。嗚咽を漏らすあたしに驚いて、みかが背中をさすってくれる気配があった。いつもならこんなに安心することはないのに、今はその温度すらわからない。
「違う……みか、ごめんね……ごめんなさい……全部あたしのせいだ……」
「どうしたの、大丈夫だよ、すずねは悪くないから……大丈夫だからね、」
みかはいつもそうだ。嫌になるくらい優しい。こんなどうしようもない、馬鹿で捻くれた女が隣にいることを許してくれる。素直に、それが嬉しいとさえ言えないあたしを。嫌味な言葉ばかり口をついて出る。本当に言いたいことは喉につかえる。
どこにも行かないで。嫌いにならないで。きっと大学を卒業したら、今みたいには会えなくなって、あたしのそばからいなくなっちゃうってわかってるのに。みかがあたしと同じ気持ちを返してくれることはないってわかってるのに。ばかみたいだ。それでも。
「みか、戻ってきて、お願いだから……あたしを置いて行かないでよ……」
「すずね……?」
「ごめんね、みか、あたしほんとは……楽しみだったの……」
悲しげに眉を下げるみかに、あたしは何もしてあげられない。どうしたらいいのかわからない。息をするのも苦しいのに、情けない本音が勝手に溢れる。こんな話よりもっと、言うべきことがあるはずなのに。
「みかと……年越しの、花火……見られるの、楽しみにしてた、のに……」
みかと一緒にいられるなら、なんでも良かった。派手すぎるお守りも宝物になるし、甘酒の匂いだって愛しく思える。どうしてこんなことになってしまったんだろう。うんざりしていたはずの日常が、ひどく恋しかった。
しゃくりあげるあたしを宥めるように、みかは両腕でそっとあたしを包み込む。胸の中で、ちりん、と鈴の音が響いた。
「すずね……うん、私も、楽しみだよ」
「みか、みか……」
「見よう、ふたりで。いっしょに」
みかの笑顔が淡く揺らめいた。光が拡散し、世界を結んでいた像がはらはらと解けて散っていく。あたしの体も淡雪のように崩れて、形を留めなくなっていった。
みかは最後まであたしを抱きしめてくれていた。あたしは感覚のない腕で必死にみかに縋り、泣き続けることしかできなかった。
——
どおん、と鳴り響く破裂音で目が覚めた。
胃の底まで染み渡るような力強い音。いつか慣れ親しんだ音だ。
霞んだ視界は暗く、しかし同時に明るい。体が重くて動かない。何かに阻まれている。呻きながら唯一自由な右手を動かしてみると、指先が細い糸の束を掠めた。
「……みか‼︎」
触れたのは結んだ長い髪だった。あたしの胸で丸くなっていたみかは、ひとつ声をあげるとゆっくりと瞼を開ける。
「……すずね?」
あたしは思わずみかを抱きしめた。ちゃんと人肌のあたたかさがある。嬉しいはずなのに、とめどなく涙が溢れた。みかはまだぼんやりとしているようで、くふくふ笑いながらあたしの頭を撫でてくれる。
「なあに、どうしたの?苦しいよー」
「みか、みか……!良かった……!」
「あーあ」「もどっちゃった」「もどっちゃったね」
三つの声にぞっとして起き上がると、花火に照らされる子供らの姿があった。みかを背後に隠し、睨みつける。相手が神様だろうが何だろうが、もう二度とみかをあんな目に遭わせない。
「み、みかは……あんたたちには渡さないから!」
「えっ?」
「みか、くれないの?」「どうする?」「どうしよう……」
「えっと、すずね?」
「べ、弁償するから……!絶対!あたしを代わりにしたっていい!だから許して!」
みかは不思議そうにこちらを見ている。あたしは震える手のひらをぎゅっと握り込んだ。鴉の子らは思案顔で、ひそひそこそこそと何事か相談している様子だった。
「どうしたんだろ?なんかかわいいね、ちっちゃく座り込んでないしょ話して」
「あ、あんたねえ……どうしてそう、にこにこしていられるわけ?何されたのか覚えてないの?」
「え?あ、そういえば……私、あの子たちと遊んでたはずなのに、なんでこんなとこで寝てたんだろ?」
気もそぞろに空を眺めるみかにつられ、顔を上げる。厚い雲はすっかり晴れ、夜空には大輪の花々が咲き誇っていた。優雅な牡丹に、華やぐ千輪。色とりどりの光を受ける地面には、もはや鴉の羽などどこにも見当たらず、巨木はもとの枯れ木に戻っている。振り向けば藪の向こうから、本殿を照らす灯りが、新年を祝う人々の喧騒が届いてくる。
戻ってきたんだ、と心から思えた。
「わあ……!綺麗だね、花火」
「……うん、そうね」
「毎年見てるけど、今年のはいっとう綺麗!」
まったく現金なもので、みかの嬉しそうな声を聞いたら、あたしまでなんだか力が抜けてしまった。子供らはいつの間にか相談を止め、花火を見ながらきゃらきゃらとあどけなく笑っている。屈託のない笑顔は、これまでの所業を忘れてしまいそうなほど無垢で純真に見えて、怒りを通り越してもはや呆れてきた。
「まったく、いい加減な神様もいたもんね……」
「ええ?神様?あの子たちのこと?」
「わかんない。妖怪かもしれないけど」
三人はあたしたちと目が合うと、ぱたぱたとこちらへ近づいてくる。身構えたあたしの前で、子供らは眉を下げて顔を見合わせた。今はその背に翼はない。並んだ三つのつむじだけを見れば、まるきりただの子供だ。
「おねえちゃん、かめ」
「は?」
亀?言われて見下ろせば、やはりその手には金色の置物が握られている。あたしにその亀をどうしろと言うのだろうか?
「かわりのつぼ」「かわりのかめ!」「ちょうだい!」
「ええ?なによ、まだ亀が欲しいの?そんなに気に入ったわけ?」
人数分で、あとふたつ欲しいということかもしれない。けれどそれが壊した壺の代わりになるというなら、とにかく同じものを持ってくれば許してくれるかも。
しかし子供らはぽかんとして、やはり揃った動きで首を傾げた。みかは成り行きを察してか、こっそりとあたしの袖を引く。
「どうしよう、すずね、あの亀さんすごい人気で、もう在庫残ってないかも……」
「え⁉︎うそ、じゃあ早く買いに行かなきゃ」
「今から並んで間に合うかなあ……君たち、どうしてもそれと同じ亀さんがいい?」
「かめ?」「それ?」「これ、かめ?」
「え?なによ、あんたたち、亀も知らないの?」
神様かなんかのくせに、という台詞はすんでのところで飲み込んだ。これ以上怒らせたら何をされるか。三人の子供は手の中できらきら輝く小亀をじいっと眺めたり、突っついたり、ひっくり返したりしていた。
今まで気づかなかったけれど、亀のお腹側には穴が空いていて、丸いシールで空洞を塞がれていた。シールにはごく小さな文字で、交通安全祈願、と刻印されている。亀のようにゆっくり気をつけて進め、という意味だろうか。
「かめ」「かめ?」「かめ!」
「うんそう、亀さんだよー。もしかして、別の動物に見えてたのかな?うーん……犬っぽくもある?」
「さあ……まあ全身金色だし、ここ暗いし、ぱっと見亀には……」
でも彼らは最初、これを見て「かめ」と言ったのではなかったのか。疑問を感じたのも束の間、子供らははしゃぐように小さな陶器の置物を掲げた。
「かめ?」「かめ!」「かめ、くれたの?」
「うん、もちろん!君たちの亀さんだよ」
三人はぱあっと笑顔になると、ありがとう、と花火の音にも負けないくらいの大声で言った。瞬間、ばさりと背中の翼を広げたかと思うと、彼らは金色の亀を夜空へ向かって投げ上げる。まるで花火を打ち上げたかのように、それは光の粒子を纏って空高く翔け、いっそう輝きを増してぱちんと弾けた。月をぐるりと囲むように、輝く光の輪が夜空に浮かぶ。
どこからか飛んできた大きな鴉が、花火の中を掻い潜るように空を駆けていく。ゆったりと旋回する姿はどこか楽しげで、照らし出されたその巨軀からは、鉤爪を携えた黒い足が、確かに三本伸びていた。
「おねえちゃん、ばいばい」「ありがとー!」「ばいばい!」
鴉は翼をはためかせると、すうっと環の中へ消えていった。ぱらぱらと散りゆく柳の露に混じって、微かに幼な子の笑い声が聞こえた気がした。
——
「あの子たちって、一体なんだったんだろうねえ」
よく晴れた午後の日、あたしとみかは連れ立って、石畳の道を進んでいた。昨日降った雪が薄く道沿いに積もっている。控えめな鳥居をくぐり、巣箱じみた社の前で歩みを止める。
小さな観音扉はやはり開かれたままで、そこには金の壺の代わりに、金の小亀がちょこんと座っていた。
「これがここにあるってことは、やっぱりこのお社の……神様?だったんじゃないの?いまいち釈然としないけど」
「そっかあ、なら仕方ないよね、やっぱり?」
「何がよ?」
「シフト、すっぽかしちゃったのもさ。ほら、私たち神様とお喋りしてたわけだし」
「ばかじゃないの。誰も信じないわよそんなの」
そうなのだ。あの日、あたしとみかはけっきょくシフトに間に合わず、どころか借り物の巫女装束を泥で汚して社務所へ戻り、宮司さんほか神社職員の皆さんに平謝りすることになった。しこたま怒られたし、すっぽかした分のバイト代は当然入らなかったし、あたしたちは意味不明な言い訳でサボりを誤魔化そうとする社会不適合者として認定された。
「だめかなあ。でもすずね、あの時スマホもなくしちゃったじゃない?この上、もし壺まで弁償しろって言われたら……」
「いやそりゃ、色々厳しいけど、でもそうするしかないし……」
頭ごなしに叱ることもなく、あたしたちの必死の訴えを真剣に聞いてくれたのは、宮司さんだけだった。その宮司さんが、一月も終わろうという今日、あたしとみかを神社へ招待してくれたのだ。なんでも、起きたことを考えると、一度ご祈祷を受けた方がいいかもしれないとか。
流石の宮司さんも、お社の壺を割ったと聞くと青ざめていた。あたしたちはその後もシフトが入っていたし、元旦の忙しい宮司さんとはその後話す暇もなかったけれど、やはり弁償云々についてはきちんと筋を通さなくてはならないだろう。あたしは今後の学生生活をバイトに費やす腹を決めていた。
「やあ、お待たせしてしまいましたね。申し訳ない」
鳥居の向こうから声をかけられ、びくりと肩が跳ねる。こんにちは、とうわずった声が揃うと、宮司さんはしわの入った口元を緩めた。紫色の袴の下で、浅沓を擦るように歩いて来ると、あたしたちの手前で足を止める。眼鏡の下の視線がお社に向いているのに気づき、さっと横によけた。
「ああ、どうかそのままで。わざわざお越し頂いてありがとうございます」
「い、いえそんな、あの……すみませんでした!」
「いえいえ、むしろこちらの方こそ、申し訳ありませんでした。お二人にはとんだご迷惑を……」
意味ありげに首を振った宮司さんは、すでに事の顛末を悟っているらしかった。みかが恐る恐る口を開く。
「あのう、ここにお祀りされているのって……?」
「ここにはね、天照様のお使い、八咫烏が祀られていると伝えられております。お二人がお会いしたのは、その中に座す神様だったんでしょうね」
その中、と言いながら宮司さんが手で示したのは、お社、というか金の亀。あの時の鴉の子ら——妖怪ではなく神様だったらしい——との会話には、疑問ばかりが残っていた。
「実はね、時々こっちに遊びにいらっしゃるんですよ。お祭りの日なんかは特にね。それらしい姿を見た、なんて話はたまに聞こえてきたけど、こんなにしっかり会って話したという人はいつぶりかなあ」
実にあっさりとした告白に、あたしたちは束の間呆然としてしまった。珍しい方に出会しましたね、と宮司さんはあくまでも和やかに続ける。
「え⁉︎そんな地元の有名人みたいな感じで」
「で、でもあたしたち死にかけた……というか、幽体離脱?もしたんですよ!みかが壺にされて、変なところに連れて行かれて……」
「いやあそれはね、危ないところでしたねえ。神様と言えど、あの通り子供ですから。いかんせん善悪の区別がつかないらしく……」
「あの通りって、じゃあ宮司さんも会ったことあるんですか!」
立ち話もなんですから、と宮司さんは拝殿へと案内してくれた。バイトの時はずっと社務所か授与所にいたから、入るのは初めてだ。畳張りの床に座布団を敷いてもらって、三人して正座する。
「お二人は、壺中天、という言葉をご存知ですか」
残念ながらあたしもみかも存じ上げなかった。壺中天とは、文字通り壺の中に広がる天地、という意味で、俗世とは違った別世界、異次元のようなものだという。仙境とか桃源郷とか、そんなふうに呼ばれる清らかな素晴らしい場所で、一説には仙人が住むと言われているらしい。
「彼らはそういう場所に住んでいるんです。たまに人里に降りてきて、飲み食いしては帰っていくような感じで」
「はあ、野生の熊みたいですね」
「ははは、実際彼らはカラスですからねえ。獣と言えばまあそうでしょう。習性もカラスそのままですよ、甘いお菓子なんかを好んで欲しがってね」
「あ!だからあの亀も欲しがったのかな、光り物だし」
「ああそうでしょうねえ。ああいうきらきらしたものも好きなんですよ、パチンコ玉とかね」
よりにもよってパチンコ玉って。神社にはおよそ似つかわしくない俗っぽさ。というかそもそも、何かもっと神聖で、畏怖すべき存在なんだと思っていたのに、あの鴉ども。拍子抜けしてしまって、はあ、と大きなため息が出た。
「あの、もしかしてここの神社でやたらと金色のお守りやら何やらが売られてるのって」
「そうなんですよ、喜ばれるもんでついね。これが意外とお詣りしてくださる方にも人気が出るんですよ」
「なんだかご利益ありそうですもんね!きんきらきんで」
光り物なら何でもいいのか。しかしそれなら尚更、あたしは彼らが大事にしていた宝物であり、帰るべき場所を奪ってしまったことになる。
「ほんとに、すみませんでした。あの金色の壺、鴉の子たち……神様?の家だったってことですよね」
「なに、気にすることありませんよ。もう寿命だったんでしょう。形あるものは、いつかは壊れるのが定めです」
「え、神様のおうちなんだから、こう特別な……丈夫なものなんじゃないんですか?」
「壺自体は住処というわけではなく、通り道でしかないんですよ。いわば玄関口で、仙境そのものではない。いずれはあの壺も取り換えて、別の憑代へと移す必要があったんですが……」
つまりこうだ。あの日、あたしはたまたま彼らの来訪時、その場に居合わせた。その時使用限界を迎えた壺はひとりでに割れ、自分が割ったと勘違いして焦ったあたしは、あの子たちに『願掛け』をしたのだ。
祈りの内容はどうあれ、彼らにとっては渡りに船だったのだろう。いいところに参拝者が現れた、ちょいと願いを叶えてやって、引き換えに新しい壺を貢がせよう、という寸法だ。完全なる部外者に見当のつくものでもないが、先にしていた予想とは、かなり事情が違っていた。
「まあ彼らもなかなか困ったんでしょうね、急に帰り道が塞がれてしまったわけですから」
宮司さんのどこか面白がっているような口ぶりからすれば、鴉の子たちは無事に家へ帰れたらしい。亀の腹に印された、交通安全の文字が脳裏に過ぎった。
「しかしね、別にあなたのせいじゃありませんよ、だって壺には触ってもいないんでしょう?」
「は、はあ、まあ言われてみれば……目の前で急に割れたから、てっきりあたしがやったんだと思って、焦っちゃって……」
「すずねったら。こそこそしないで、初めから素直に言ってくれればよかったのに!」
ぐうの音も出ない。あたしのつまらない思惑のせいで、みかはあんな目に遭ったのだ。
あたしはみかに向き直った。一歩間違えば、彼女はもうここにはいなかったかもしれないのだ。
「みか、ごめん……ほんとに、あたしのせいで……」
「え!もういいって言ったじゃん、壺になった時のことなんか、全然覚えてないし……」
「ああそう、そのことなんですがね。ひとつ、僕なりに考えたことがあるんですよ」
ぽん、と手を打って、宮司さんは懐からスマホを取り出した。余計なお世話だろうが、装束の懐にはもう少し神職っぽい小道具をしまっておいて欲しいような気もする。老眼鏡だったのだろうか、眼鏡をおでこに乗っけると、宮司さんは画面をあたしたちに向けて畳に置いた。
「ほらこれ、こんな形だったでしょう。あそこに祀られている
「え、ああはい……カメ?」
「僕も壺ツボ言ってましたがね、こういう容れ物、瓶、と呼ぶこともあるでしょう?」
「ああー、水瓶座のカメ!」
「そうそう。で、お話に因れば、彼らはずっと『カメ』を欲しがっていたわけですよね」
よくよく記憶を辿ってみれば、彼らはこう言っていなかったか。
『かわりのつぼ』に、『かわりのかめ』。
あの子たちが求めていた『カメ』は、置物の亀のことではなかった。割れてしまった壺に替わる、なにか別の容器——別の
「でも、だとしたら……なんでみかが、壺の姿にされてしまったんでしょうか?」
だって、言葉の通り『帰り道として使う容器』を求めていたのなら、『人間のみか』を供物として差し出されたとしても、仕様がなかったはずだ。あたしが代わりになる、と言ったとき、彼らはみかにしたのと同じことをあたしにはせず、カメをくれ、とただ言ったのだから。
「可能性の話にはなりますが……彼らは仙郷への帰り道を、カメ或いはツボ、という呼称の事物、として認識していたんでしょう。実際、壺も瓶も同じようなものですから」
「はあ……たしかに、どう区別するかと言われると……」
「ところで、瓶については、漢字だと色々な書き方がありましてね」
急な方向転換についていけず、一瞬思考がフリーズした。漢字の表記に、一体なんの関係があるのか。宮司さんは検索サイトの入力窓を開くと、かめ、と平仮名で打ち、それから予測変換の欄を開いた。その中から一番画数が多そうな一文字を選ぶ。『亀』のことじゃないのか。
「ええと、
「そう、この字ですね。読み仮名をよく見てみてください」
えっ、と声をあげたのはみかの方だった。ページの見出しを開くと、かめ、の他に、もたい、おう、なんて聞きなれない文字の羅列が続く。しかしその下に突然、よく知った単語が肩を並べていた。
「み、『みか』……?みか、って読むんですか?この字」
呆気に取られるみかに、宮司さんは頷く。
「甕のことを、みか、と呼んだ時代もあったようです。日本神話においては、この漢字、この読み仮名を名に使う神様もいらっしゃる。
あの子たちの目に、現世がどう映っているのかはわかりませんが……『カメ』、『ツボ』、そして『ミカ』という名で呼ばれれば、姿形が違えど、それらは等しく同じ事物である、と認識していた可能性も、あるとは思いませんか」
『みか、ちょうだい』。
あたしは絶句した。いくら名前が同じだからって、みかは壺ではない。瓶でも、甕でもなかった。そもそも生きた人間だ。見ればわかる、当然のことだ。
それでも、彼らはみかを『甕』として
「じゃあ、名前が同じなら、なんでもよかったの……?」
「そ、そうなのかもね……亀の置物で納得してたもんね……」
「いやいやしかしね、あの亀には膝を打ちましたよ。小さいけど条件にはぴったりですものねえ」
「なんですか、条件って?」
「帰り道として使うための、規格とでも言いますかね。昔から決まっているんですよ、憑代にするための器の大体の形が」
「宮司さん、そんなことまで知ってるんですか……」
「まあねえ。何でもいいんですが、ものを入れられそうな深さがあって、蓋で……あの亀の場合シールでしたが、とにかく口を塞いでいる。ほら、陶器製である点も含めて、割れてしまった壺と同じでしょう?それに、あれはいかにも彼ら好みの見た目ですしね」
偶然の産物だけれど、そういうことらしい。確かにあのとき、みかもそういう形のものに変えられていた。陶器製の、丸っこい蓋付きの容器。
今後は新しい瓶の代わりに、亀の置物を用意しようと思いますよ、なんて宮司さんは愉快そうに笑っていた。聞けば、もとあった壺は彼らの要望で先代宮司が黄金に染め、ついでに物取り防止で神社の名前も記入したらしい。
「なんていうか、ほんと、いい加減……」
「まあでも、結果オーライだよね。あの子たち、ちゃんとお家に帰れたんだもんね」
神様のした事とは言え、ガキの屁理屈みたいな理由で振り回されたのに。良かったね、で済ませられるみかは、ちょっと器が大きすぎると思う。洒落にもならない。
「今日はそのお礼のためにお呼び立てした次第です。本来八咫烏というのは道案内をする役目を負った存在で、人様に帰り道を用意してもらっては世話がないというものですが」
「あ、そういうものなんですか……」
「なんか名誉だねえ、神様を案内してあげたなんて」
「ともあれ、お祓い……ご祈祷をやっておきましょうかね。いちおう神の領域に触れてしまったということですから、なにか……差し障りがあってはいけませんし」
「差し障りって、え?今お祓いって言いました?」
「いやまあ大丈夫だとは思いますけどね、念のためですよ。ちなみに何か体調に変化なんてありましたか?」
「え!やだ怖い!すずね体大丈夫⁉︎」
「そういう重要なことはもっと早く言ってください!今すぐお祓いして!」
——
あたしたちはご祈祷もといお祓いをみっちり小一時間受けると、甘酒とお饅頭をご馳走になってから拝殿を後にした。飲まず嫌いだった甘酒は案外美味しくて、あまのじゃくなんだから、とみかに小突かれた。
ちょっと気になって、またあのお社を覗いてみると、さっき頂いたお饅頭がきちんと三つ供えてあって、二人で顔を見合わせて笑ってしまった。
「ねえ、すずね」
「なに?」
「私、全然って言ったけど……実はちょっとだけ、覚えてるんだ。壺になった……かめになった?時のこと」
みかは瞼を伏せ、何事か思い出しているようだった。あたしの網膜には、はっきりと焼きついている。あの穏やかな庭。澄んだ雪景色。
「結局、どうして戻って来られたんだろう、あたしたち。それに、みかは壺に変えられてたのに……目が覚めたら元に戻ってた、って感じだったし」
もしあの庭から帰れなかったら、みかは憑代としてずっと壺の姿のままだったかもしれない。そしてあたしも、きっとこの世からは消えていただろう。そう考えるとぞっとしないが、みかは平然とお社の亀に手を合わせている。
「ふふん、私はね、わかるよ」
「なんで……なにニヤニヤしてんのよ」
「すずねさ、あのときもお守りって持ってた?」
「え?ああうん、持ってた。ずっと懐にしまいっぱなしで」
あたしは上着のポケットからお守りを取り出して、まじまじと眺めた。相変わらず派手で、ちょっと揺らすだけでも三つの鈴が鳴り合ってうるさい。実はいつも持ち歩いていることは、みかには内緒だ。
「ほら、それが私たちのこと助けてくれたんだよ。災難避けだし!」
「だってこれ、効くの?ここで買ったやつなのに。あの子らも一応、この神社の神様なんでしょ?」
「でもこのお社は末社なんだし、本殿にはまた別の……主神様?がお祀りされてるわけじゃない?」
じゃあその主神様のご利益で、あたしたちは現世に帰って来れたんだろうか。たしか名前は
「それにさ、あのとき、すずねも鴉の子たちも、みんな壺の中に入ったんでしょう?それってつまり、私の中、ってことだよね」
壺中の天地。あの庭は、みかの壺中天だった。みかの内面そのもの。
そう言われると腑に落ちた。あの安らかで落ち着く雰囲気。みかと同じ、優しい景色だった。きっとあの竹垣を超えた先に、いわゆる仙郷が広がっていたんだろう。鴉の子供らが、帰りたがっていた場所。
「まあ、そうなんじゃない。変な感じだけど」
「でも私はそれが……それ自体が嫌だったわけじゃないけどね、うまく言えないけど……戻らなきゃいけないって思ったの。ここに居ちゃダメだって」
「そんなこと思ってるようには見えなかったけど。なんかやけに落ち着いてたし」
「ええ、そうだった?」
あの時のことを思い出すと、花の散り際でも目にしたような、切ない気分になる。みかがすごく遠くに感じて、けれどみかは、それでもあたしに寄り添ってくれようとしていた。
「そうだった。縁側でまったりくつろいじゃってさ」
「縁側?ええー、そのへんは覚えてないなあ……いや、でも違うって!流石にそんなふうに落ち着いてられないよ!」
「さあ、どうだか」
「もう、すずねってば!信じてくれないの?」
感傷的になってしまいそうで、あたしは話を終わらせようと素っ気なくため息をついた、つもりだった。けれどみかはそんなのお構いなしに、まっすぐあたしを見つめた。
「ほんとだよ。すごく戻りたかった。だって、すずねが泣いてたから」
なんでそんな余計なことだけ覚えてるの。恥ずかしくなって、みかから視線を逸らそうとした。けれどできなかった。みかがこんな顔をしているのを見たことがなかったから。
「なんでかわかんないけど、すずねはずっと泣いてて、私は遠くから見てるだけで、何もできなくて……それがすごく辛かったの。怖い夢を見てるみたいな感じだった」
それだけははっきり覚えてる、と、みかは目を細めてはにかんだ。吐く息は白く、空気は冷たいのに、頬が火照って仕方がない。
「でもそのあと、起きたらすずねがそばにいて、花火が上がってて、ああよかったーって思ったの。それにね、すっごく嬉しかったんだ。すずね、私を守ろうとかばってくれてたでしょ?」
「な、何言ってんの……!別にあたしは……」
顔を隠そうと上げた手を取られ、額同士がぶつかりそうなほど引き寄せられる。僅か数センチの距離にあるみかの眼差しは、射竦められるくらい鮮烈で。髪のかかった頬が、いつもよりずいぶん赤い。
「すずね。私のために泣いてくれたの?」
「……知らない!」
慌ててそっぽを向いたのは照れ隠しだった。みかにはそんなこともお見通しなんだろう、口許が緩むのを隠そうともしない。
あなたに戻ってきて欲しい、そばにいて欲しいっていう幼稚な願いも、多分とっくにバレているのだ。あたしが直接口にしなくても。
ならば、自惚れてしまっても良いのだろうか。あたしのために戻ってきてくれたのだと。
頬を染めながらいつまでも笑っているみかに、顰めっ面をしてみせる。でもきっと今、あたしの顔も耳まで赤い。
照れ臭くてまだ言葉にはできないけど。ほんの少しだけでも、本心を伝えたくて、普段はしないようなことをしてみた。
「どうしたの?ほんとに珍しいね」
「うるさいわね。嫌なら離すけど」
「ううん。嬉しい!」
「あっそ」
絡めた指先がじわじわと熱を持つ。今すぐ逃げ出したいような、やっぱりこのままでいたいような、おかしな気分だった。みかは逃すまいとばかりに指先に力を込めて、いたずらっぽく微笑む。
それを見上げるうち、ふと、そばにある柿の木に目が行った。それから、その枝先にある物体にも。
「あ!あれって」
「あたしのスマホ!」
葉の隙間に、失くしたはずのスマホが挟まって揺れていた。あたしが口をぱくぱくさせている間に、どこからか大柄な鴉が現れると、ヒョイとそれをひったくってさっさと飛び去ってしまう。
「あ!こら!ドロボーカラス!」
「あらら……まあいいんじゃない?もう新しいの買ったんだしさ」
「よくない!ちょっと!返しなさいってば!あいつ絶対あのガキどもでしょ!」
「あはは、何か別のものあげれば返してくれるかもよ?また亀さん買ってくる?」
「……いいわ、じゃあこれ、お供えしとく」
あたしは手の中のお守りを、そっとお饅頭の横に置いた。名残惜しいけれど、これはもう役目を果たしてくれたのだと思う。それに、あたしに本当に必要なのは、お守りそのものじゃない。
「あ、あの子たち気に入りそうだもんね。きんきらきんで」
「そうね。それにお守りはまた来年、みかがくれるでしょ?」
みかは目を丸くしてから、うん、と笑顔で頷いた。頭上からは歌うような鴉の声が聞こえる。最後にお社に一礼すると、あたしたちは愛すべき日常へと戻っていった。
「ね、どうだった?今年のお正月は」
「……ま、たまには悪くないかな。花火も甘酒も」
「神様と遊ぶのもね!」
「それはもうごめんだわ」「えー!」
二人で手を取り合って、鳥居をくぐり、新たな年に向かって駆けていく。青空に黒い翼が舞い、笑むようなそよ風が吹き抜けた。
暁けの花火と壺中天 綿雲 @wata_0203
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