暁けの花火と壺中天
綿雲
前
「あたし、花火って嫌いなんだよね」
この時のあたしは、いつにも増して不機嫌な仏頂面をスマホに向けていた。人のまばらな学生食堂に、自分の声が寒々しく反響する。いやに冷えると思えば、窓の向こうには雪がちらつきはじめていた。
通知欄には数件のメッセージと、レポート提出期限のリマインド。せっかくのお昼も不味くなりそうだ。
「なんで?きれいだよ、花火。きんきらきんで」
正面の席に座る『みか』が、おっとりと間延びした声をあたしに向ける。みかならそう言うと思った。あたしとは真逆のタイプだから。
いつでもにこにこして、どこかのんびりして。
その点あたしときたら、
「慣れすぎてかも」
「慣れすぎて?」
この日は下の名前も知らない男子からのしつこい誘いが、ストレスの主な原因だった。ため息をついたあたしを気にも留めずに、みかは相槌を打ちながらカレーうどんをすする。
食べるのが遅過ぎて麺が伸びていた。あたしの器はとっくに空っぽだ。
「うちの地元って、花火名産の地とか言ってさ。夏でも冬でも、隙あらば花火上がるんだよね、ほんとうるさいったら」
「いいじゃん、綺麗だし。たくさん見れてさ」
「綺麗は綺麗だけど……こう毎度見てたら飽きるし。わざわざ観に行く人の気が知れない」
どうしてそういう言い方しかできないの、とは小さい頃母に言われた台詞だったか。あたしにだってわからない。思ったことを推敲もせず口に出して、そのあとで、いつも後悔はしているのだ。反省が活かせた試しはないが。
「だってせっかくなら近くで見たいじゃん。遠くでちーっちゃく上がってるの見るだけじゃつまんないよ」
「だからって家の近くでやられてたら、逃げようにも逃げられないんだよ。いちいち上げてやってるんだから見ろ、ありがたく思え、みたいなノリも嫌」
ほらまた、後ろ向きなことばっかり。みかはそういうあたしの性質をわかっているのか気にしていないだけなのか、常にマイペースだ。
そういうところが楽でもあり、時々少し嫌にもなる。
「ふうん……そんなもんかあ。せっかく誘われてるのに、勿体無いなあ」
呆けたようなつぶやきに、耳を疑った。固まった手中でスマホは勝手にスリープして、暗い画面に間抜けな顔の自分が映る。ようやく食べ終えたらしく、丼の前で手を合わせるみかをじろりと見上げた。
「何で知ってんの」
「え?」
「あたしが花火誘われてること。行かないけど別に」
「あ、やば、うっかりだ。ゼミで男子が喋ってるの聞いちゃってさ」
みかにだけは、そんなの知られたくなかった。閉口したあたしに、ごめんって、となんにも悪気がなさそうな声でみかが笑う。こっちの気も知らないで。
「そんなに花火嫌なら、巫女さんのバイトもやめとく?年末のさ」
「は?なんでそうなんのよ」
「このへんって毎年、年明けと同時に花火打ち上げるんだよ」
みかが宮司さんの知り合いだとかで、あたしたちは大晦日、大学近くの神社でバイトをすることになっていた。確か名前は
去年は帰省していたから、深夜零時に花火が上がるなんて知らなかった。厳かな雰囲気を想像していたが、思いのほかしっかりお祭り騒ぎのようだ。
「それは、まあ、やるけど。もうシフトも決まってるし」
「よかった!頑張ろうね、宮司さんいい人だし、甘酒も飲めるよ」
「あたし甘酒嫌い」
「好き嫌い多いなあ」
「ほっといて」
花火も甘酒も、人ごみも嫌いだけれど、たまには目新しいことを試しても良いかも。そんな軽い気持ちだった。神様への信仰心だとかそんなもの、別段持ち合わせちゃいない。
ただ、在学中のうちに一度くらい、みかと一緒に年を越してみたかったのだ。本人には絶対言わないけれど。
——
「はいこれ、すずねにあげる!」
浮かれた参拝客のざわめきの中、みかは喧騒に負けじとでかい声でそう言うと、あたしに拳を突き出した。巫女装束の袖を押さえて手のひらを差し出すと、ぽとりと落っことすようにしてそれは渡された。
宵闇に包まれてなお黄金色に光る鈴と、お守り袋が黒い組紐で束ねられたストラップ。布地には「災難除け」の刺繍と、これまた輝く金糸で編まれた矢絣紋様。
「何、これ」
「あっちの売り場で出てるやつ。すずねにお年玉」
「どうも……見た目はともかく、効果はありそうね」
これなら軽い悪霊くらい跳ね返しそう、と思わせるような派手なデザインだ。おまけに少し揺らす度けたたましく鳴る鈴が三つも連なっている。これなら害獣避けにもバッチリだろう。あたしがわざとらしく鳴らした鈴の音を聞くと、みかはいたずらっぽく微笑んだ。
「でしょ?ご利益あるよ、きっと。宮司さんお墨付きだし!」
「……?なんかこの鈴、甘い匂いがする」
「あ、ばれた?実はさっきちょっと甘酒こぼしちゃって」
「酒浸しにしたもん寄越すんじゃないわよ!」
「ごめんって、でもちゃんと拭いたし、それレアだよ!鈴三つもついてるもん、他のは二つだけなのに!」
「ただの製作所のミスでしょ。裏手に山のように積んであったし、お守り詰め合わせパック」
「しー!参拝者さんが聞いたらありがたみが薄れちゃうでしょ!」
「ありがたみねえ……」
バイトの巫女達が、社務所裏でたむろして鼻水をすすっている時点で、誰しもそんなものは幻想だと言うことに気づくだろう。あたしは自前のコートを羽織り直すと、お守りをじっと眺めた。指先に引っ掛けてくるくる回してみると、鈴がきらりと提灯の明かりを反射する。
「鈴の音ってね、魔除けになるんだって。鈴音って名前、すずねにぴったりだよね」
「どういう意味よ」
「本人も魔除けみたいにパワフルだしさ。でもどっちかっていうと、鈴より除夜の鐘っぽい?」
「あたしはしゃららん、みたいなお上品な音とは程遠いって?」
「ふふ、しゃららん、だって!かわいい」
「みか!」「あはは!」
「あの、もしかして……みか先輩?」
突然降ってきた聞き慣れぬ声に、あたしは警戒してさっと振り返った。見れば、青年が三、四人。あたしたちと同年代くらいだろうか。その中の一人がマフラーをずり下げ、赤い鼻と頬をみかに向けた。親しげで、少しこわばった笑顔だ。
「あれえ、久しぶり!びっくりしちゃった」
「やっぱり先輩だ。ほんと久しぶりですね、卒業式以来」
みかはにこにこしながら背の高い青年と喋り始める。どうやら高校時代の後輩のようだ。あたしは袂からスマホを取り出し、時間を確認した。二十三時前。混雑ピーク前の束の間の休憩である。
「みか。時間」
「あ、もう?ごめんね、私たちこれからバイトだから……」
「あ、その、良ければこれ、差し入れです。寒いでしょ、売店でずっと立ってると」
みかは差し出された甘酒の缶を受け取ると、ありがとう、と眉を下げた。直後、細められていた目が急に見開いたかと思えば、みかの白い手は、缶ごと捕えるようにそいつの骨っぽい指に握られていた。ほんの一瞬で離れたけれど、そのわずかな隙、小さく畳まれたメモ用紙が固まった手のひらに捩じ込まれたのを、あたしは見逃さなかった。
みかがそれ以上何かいう前に、あたしは履き慣れない下駄をからから言わせながら社務所に引っ込む。慌ててみかもついてきて、あたしは彼女が玄関口をくぐるのを待ってから、ぴしゃりと引き戸を閉めた。
「どうしたの、すずねったら。まだシフトまでしばらくあるよ?」
甘酒の缶、と、薄い紙っ切れを大事そうに抱えるみかに苛立ちが募った。次のシフトは三十分も後からだ。境内に屋台が出ているから見て回ろう、って外へ出たのに、結局何もせず戻ってきてしまった。
「何?もっとお喋りしたかった?懐かしの彼と」
「あはは、ううん。正直ちょっと気まずかった」
屈託なく手のひらを振ったみかに、少しだけ胸がすく気がした。けれどすぐにその綺麗な手を、知らない男なんかに握られていたのを思い出して、軽く舌を打つ。
「あ!チッて言った!」「悪い?」
「悪いよ!今は私たち、バイトとはいえ巫女さんなんだから。お行儀よくしなさい!」
「はいはい。あんたは誰にでも品行方正だもんね」
「もう。男嫌いなのはいいけど、お客さんには愛想良くしないとダメだよ?」
ストーブの前に座り込んだみかの頬が、揺れる灯火を受けて赤く染まる。さっきの奴に連絡するの、と言いかけて、やっぱり口をつぐんだ。あたしはいつのまにか握りしめていたお守りを懐にしまい込むと、もう一度玄関へ出て下駄をつっかけた。
「すずね、どこいくの?」
「……電話きたから。ちょっと出てくる」
「あ、わかった。人多いし気をつけてね!」
下手な言い訳だ。みかの温かい声から逃げるようにして、あたしは外へ飛び出した。今にも雪が降りそうな、湿った墨色の雲が立ち込めていた。
——
とてもすぐ社務所へ戻れる気分じゃなかった。人ごみを避けてふらふらからから、下駄を転がすうちに神社の裏手にまで出てしまっていた。境内の賑やかさから一転、静まり返った空気にどきりとする。まるで別の場所へ迷い込んでしまったかのようだった。
夜の帳が下りた小径に、覚束ない下駄の足音だけが空しく響き渡る。辺りには灯籠がぽつぽつと立つばかりで、人っ子一人見当たらない。
おもむろに目を向けた石畳の向こう、小さな鳥居が目に入った。
(こんなとこに、お社なんかあったんだ)
まったく知らなかった。短期バイトの身には、授与所から向こうに用事などないのだ。ミニサイズ、とは言えあたしくらいなら無理なく潜ることのできる鳥居は、参道の出入り口にある赤いものとは違って、煤けたように黒っぽい。雲の隙間からかろうじて届く薄明かりを頼りに、お社のほうへと足を進める。
こういうの、摂社って呼ぶんだったかしら。小作りで、ちょっとあれに似ている。鳥の巣箱。開け放たれた観音扉の中には、妙に光る物体が鎮座していた。何だか無性に気になって、黒々と開いた孔へ向けて、スマホのライトをかざしてみる。
(うわ。何、これ?壺……?)
きんきらきんだ。みかの言葉を借りるなら。そこには両手に収まるくらいの壺が、ぽつんと置いてあった。梅干しかなんかを入れておくような、蓋付きの丸っこい器。けれど異様なほど金色一色に塗り込められていて、無彩色のライトを受けて奇妙に光り輝いていた。
(変なの。これって、いわゆる御神体なのかしら)
趣味の悪い派手なデザインにも関わらず、なぜか馴染んでいるというか、百年前からここにあります、って感じ。湾曲した表面に記された筆文字は、掠れているけど多分、
ふと。観察するうち、壺の文字が陽炎のようにゆらめいて。
あっと思った時には、もう遅かった。
ぱん、と何かが砕ける音が目と鼻の先で響いて、びくっと身を強ばらせた。思わず強く目を瞑る。
その矢先、鴉の鳴き声と、羽音が聞こえた気がした。はっとして目を開ける。周囲の光景はさっきまでと変わらない。目の前のお社も、金の壺も。
いや、違った。亀裂の走った壺は実にあっけなく崩れ落ち、ほんの数秒で砂金みたいに粉々になった。足元にさらさらと破片が溢れ落ちてくる。
さあっと血の気が引く音って、実際経験してみるとかなりはっきり分かる。まずい、よくわからないけどこの壺って、歴史的に貴重だとか、とにかく重要なものなんじゃ。
あたしが壊したの?弁償するべき?一体いくらするんだろう、兎にも角にも、やらかした!どうしよう、せっかくみかに紹介してもらったバイトなのに——
「「「おねえちゃん」」」
「ひっ⁉︎」
不自然なほどぴったり重なった、三つの声。仰天して後ろを振り返った。眼下から向けられるまなざしに更にびっくりして、ひっくり返った声を上げながら尻餅をついてしまう。
均等に居並ぶ六つの真っ黒な瞳が、あたしの目をじいっと見つめていた。
いつのまに後ろにいたんだこのガキども、というかまさか、壺を割ったのを見られていた?
地に着いた手元に、じゃり、という感触が伝わる。横目で見れば、すっかり粉と化した金色のかけらを臀に敷いているのだった。慌てて立ち上がって取り繕おうとする。
「え、えーと、ボクたち、迷子?」
「まいご」「まいご?」「まいご……」
「お、お父さんかお母さんは?こんな所でなにを……」
「つぼ」「つぼ!」「こわれちゃった」
「え」
三人の子供たちは一斉に、あたしの背後にある古びたお社を指さした。
嘘、見られた!どうしよう、こんなことバレたら、怒られる程度じゃ絶対に済まない。咄嗟にみかの顔が頭を過ぎった。あの子にだけは知られたくない。
「お、お願い、お姉ちゃんがしたこと、誰にも内緒にしてくれる?」
「おねがい?」「おねがい」「ないしょ?」
「そ、そう!いい子ね、内緒!できる?」
子供らは一様に丸い頭を突き合わせ、声をひそめて何やら話し合っているようだった。あたしはその間も気が気でなく、輝く破片をこそこそと拾い集める。あらかた拾ったところで置き場に困って、結局元あったところに載せた。
彼らはその様子に首を傾げ、そして揃ってぱかりと口を開ける。覗いた歯の色にぎょっとした。髪も着物も黒ければ、歯の色さえ炭みたいに真っ黒だったのだ。
いわゆるお歯黒と言うやつだろうか。この子らの親は今を何時代だと思ってるんだろう。よく見れば爪も全て黒く塗っているようで、やっぱり気味が悪い。何がおかしいのか、彼らはあたしを見ながらにっこりと笑っていた。
「かわり」 「かわり」「かわりをくれる?」
「え?代わり……? 」
「すずね?なにしてるの?」
自分でも大袈裟だと思うくらいびくりと大きく肩が揺れた。よりにもよってこんな時に。
「み、みか……!」
「「「みか?」」」
子供らはぱっと笑顔になると、また何事か相談するように低く声を交わしていた。みかはいつもの調子で、ひらひら手を振りながらこっちへ歩いてくる。あたしは金粉に塗れた手指をさっと背中に隠した。
「なかなか帰って来ないと思ったら、こんな所で電話してたの?探しちゃった。その子たちは?」
「あ、ああ、まあ……わかんない、迷子かも」
「三つ子ちゃんかな?かわいいね、おそろいのおべべ着て」
言われてみれば、子供らは三人揃いの着物を着ていた。牛若丸が着ているような、丈の短い上着と、裾の詰まった袴みたいなものと、足袋に草履を身につけている。それらはやはりすべて真っ黒だ。それに三人ともそっくりで、ひとりひとり見分けがつかない、どころか性別も歳の頃もわからなかった。内緒話がひと段落したのか、彼らはみかの足元へぱたぱたと寄ってくる。
「みか」「みか?」
「はあい、みかですよー」
「かめ!」
「は?か、亀?」
ああ、とみかは巫女服の袂から、お饅頭サイズの小亀を取り出した。もちろん生物ではなくて、お守りや何かと一緒に販売している陶器の置物だ。こちらも先程みかにもらったお守りと同じく、なぜか全身に金色の装飾を施されたど派手なデザインである。
これらが飛ぶように売れるというのだから、この神社あるいは参拝者は黄金に多大な信頼を寄せているらしい。あたしは開きっぱなしの観音扉を横目で盗み見た。
「なんでそんなもん、持ってんの」
「かわいくて買っちゃった。君たち、これ欲しい?」
子供らはそのまんまるな目に金色を映し、こくこくと三者同様に首を縦に振った。同じく頷いたみかは、差し出された小さな手のひらに、はいどうぞ、と小亀を乗せてやる。塗料が落ちたのか、みかの手先にも金の粉が移っていた。
「ありがとー!」「ありがとー」
「どういたしまして!なんでわかったんだろ」
「袖の隙間から見えたんじゃないの。超派手だし」
じーっと亀の置物を見つめる子供らをにこにこ眺めて、かわいい子たちだね、とみかは暢気に微笑む。
頷いてはおいたものの、あたしにはとてもそうは思えなかった。さっきまずいところを見られてしまったこともあり、どうにも居心地が悪い。彼らはひとしきり亀をつついたり撫でたりして弄ぶと、黒い目玉を揃ってこちらに向けた。ぎょろりとした眼に見つめられ、寒気に肌が粟立つ。三人の子どもはくすくす笑い出した。
「おいで」「みか」「おねえちゃん」
「え」
「いこう」「こっち」「おいで」
「遊んで欲しいみたい、行ってあげよう?」
「え、で、でもシフトが」
「まだ少しなら大丈夫だよ。きっとお母さんたちがお詣りしてて暇なんだね」
「う、うん……そうね……」
ぐいぐい袖を引っ張る子供らに連れられて、竹林の茂るお社の奥へと進んでいく。本殿の辺りとは違って提灯も焚き火も無く、暗く寂しい雰囲気の場所だった。少し開けた場所に出ると、巨大な枯れ木が立っていた。洞の空いた幹には苔としめ縄が絡みつき、節くれ立った枝が腰を曲げたかのように垂れ下がっている。
巨木を振り仰ぐ子供らに、みかは朗らかに笑いかけた。彼女はこんな時でも通常運転で、霜の降りた草の中を軽やかに歩き回っている。黒い子供らと連れ立って。
「何しよっか?鬼ごっこ?かくれんぼ?」
低い目線に合わせて屈んだみかに、三人は黙って首を横に振る。完璧に揃った仕草がどうしても不気味だ。
「かごめ」「かごめ」「かごめ、かごめ」
彼らは手を取り合うと、三人でみかの周りを囲んだ。そのままくるくると歩き回って、誰からともなく歌い始める。完全に揃った声で。まるでひとりの歌声が三台のスピーカーから流れているようだ。
「え?かごめかごめ?また古式ゆかしいねえ」
「ね、ねえ、みか……なんかさ」
「あ、鬼は目を閉じるんだっけ?私がズルしてないかちゃんと見張っててね、すずね」
何かおかしくないか、と聞きたかったのだ。蚊帳の外のあたしが言葉を続ける前に、みかはもう目を覆っていた。急激に襲ってきた焦りと不安は、だんだん大きくなる声に掻き消されていく。
かごめかごめって、こんな歌詞だったっけ?歌に混じって、耳元で翼のはためく音が聞こえる。さっきと同じ。
急にくらりと視界が歪む。あたしはよろめいて膝をつき、耐え難い眩暈に目を閉じた。
どれくらい経っただろう。いつのまにか歌が止んでいた。なんの音もしなくなった。みかの声も、息遣いもない。
どっ、どっ、と激しく鳴る心臓の音が、頭の中で警鐘の如く響いていた。
「み、みか……?」
恐る恐る目を開ける。辺りには先ほどと同じ、枯れ木に群がる叢が広がるばかり。振り向くと、子供らはいつの間にか互いの手を離し、しゃがみこんだあたしを見下ろしていた。
「……みか?」
みかがどこにもいない。眼前の小さな手には、薄緑色の壺が握られていた。
かち、と華奢な音を立てて、陶器の蓋が取り払われる。
ぽっかりと開いた穴の内側には、吸い込まれそうなほど深く、暗い闇が広がっていた。
「みか」「くれる?」「みか!」
ぞわっと背筋に悪寒が走った。
「みか、ちょうだい」
理屈はわからないけれど、それが、そのはかない色をした香炉のような器が、みか本人だという確信があった。
みか、と怒鳴ったあたしに驚いたのか、子どもたちは散り散りに走り去る。気が動転して、慣れない下駄で慌てて駆け出した。みか、みかが!どうして?まさか『かわり』って、みかが、御神体の代わりにされるってこと?この先一生、あの姿のまま――?
「ねえっ、待って!返してよ!」
「おにごっこ?」「かくれんぼ!」「にげろ、にげろ」
遊んでいるつもりなのか、耳をつんざくような甲高い笑い声があちらこちらから聞こえてくる。しかし竹薮へと逃げ込まれてしまうと、それもだんだんと遠ざかっていった。月光も届かない林の中は、夜を幾重にも重ねたように真っ暗で、覗き込んだだけでも足がすくむ。
今のは一体何だったの?あの三人は絶対にただの子供なんかじゃなかった。それに人が壺になるなんて、ありえない。あたしの妄想でなければなんなのだろう?きっとみかの冗談で、どこかで笑いながらあたしを見ているんじゃ——。
ざわり、と草木の揺れる音に混じって、幽かに谺する笑い声。口の中が乾いて舌の根が引き攣る。
(違う。あたしのせいだ。みかはあたしのせいで……!)
みかを取り戻さなきゃ。懐に仕舞ったお守りをぎゅっと握り締める。鳴る鈴の音と染み付いた甘いにおいが、今は心強かった。
彼らはどこへ行ったんだろう。生い茂る藪の中に踏み込むと、もはや一寸先も見えなかった。手掛かりを探して地面に這いつくばり、スマホのライトをかざす。足跡を探しての行動だったが、思わぬものを見つけた。金色に光る粉のようなものが、土に薄く散って線を描いている。
きっと亀の置物から落ちたものだ。あたしは装束が汚れるのも構わず這い這いで跡を辿った。砂利に膝を擦り草に足を取られても、わずかな手掛かりに縋るしかない。真冬の刺すような夜気が容赦無く体温を奪う。土を掻く手が悴み、歯の根が震えた。
どこからともなく聞こえてくる、何かの鳴き声。爪が落ち葉を踏み潰す音。闇に紛れてこちらを窺う視線。えも言われぬ気配を感じるたび、心臓が押し潰されそうになる。
(ここはどこ?みかは一体、どこへ連れていかれたの?)
みか。咄嗟に思い出せた記憶の中のみかは、あの陶器の壺の姿をしていた。普段の笑顔よりもはっきりと、黒々と開いた穴が脳裏に染み付いている。
それがものすごく恐ろしかった。まるでみかの存在自体が、じわじわと塗り替えられていくような。
おぞましい考えが浮かんで、必死に頭を振った。何も考えないように、ただ金色の道筋を追い続ける。地べたに顔を埋めるようにして、ひたすらに恐怖を押し殺しながら。
くまなく金粉の周囲を浚っていっても、足跡の類はひとつもない。しかし次第に、一枚、二枚と、鳥の羽根が落ちているのを散見するようになった。無機質な白いライトが、艶やかな羽毛を玉虫色に照らし出す。
鴉の羽。
一面に敷き詰めるように、大量の羽根が撒き散らされているのに気づいた頃、辿り着いたのはあの大きな木の根元だった。
(うそ……戻ってきちゃった?どうして、ずっと同じ方向に進んできたはずなのに)
巨木は干からびた樹皮を歪め、嘲笑うようにあたしを見下ろしている。
あたしは悪い夢でも見ているの?
もう二度とみかに会えなかったら、あたし……
絶望感と虚脱感がぐるぐると頭を巡り、崩れ落ちるように膝をついた。泥に汚れた爪で、ばら撒かれた羽根を握り締める。
突如、強い風に見舞われ、ふたたび頭を上げた時、そこにあった老樹はまったく様変わりしていた。冬枯れの姿は跡形もなく、天に向かって伸びた枝には無数の葉が茂っている。ざわざわと鳴る葉擦れの音が、木立の中に潜む何かの存在を否が応でも感じさせた。
「あれ?」「おねえちゃん」「みつかっちゃった」
頭上から声がした。見上げた木の洞に、熊ほども大きな一羽の鴉が留まっている。呆気に取られて瞬きをした途端、鴉はあの子供らに形を変えていた。
昏い瞳を弓形に細めて嗤う、三人の子供。今や彼らは異形の姿を曝け出していた。背には黒い翼を携え、ひび割れた肌から羽毛が垣間見える。真っ黒な鉤爪を生やしたその手には、未だ金の小亀と、それから淡い緑の器を抱いていた。
みか。
「あ……あんたたち、返しなさい!」
「みか、くれるでしょ?」「ないしょのかわり」「おねがい、したでしょ?」
「なんなの、もうやめてよ……お願いだから、返してよ、大事な人なの……」
「おねがい?」「だめだよ」「いっかいだけ」
一回だけ?まさか、あの金の壺を割ったとき、「内緒にして」と言ったのを、彼らへの『願い』として受け取ったのだろうか。
だとしたら、これまでの行動に説明がつく。何故みかがあんなふうにされてしまったのかも。
彼らはきっとあの社に祀られている神様で、あたしは御神体を壊したせいで、彼らを招いてしまった。そして祈りを叶える代わりに、新しい憑代を求められたのだ。
あの時、あたしはみかを呼んでしまった。彼らはだから、みかを手に入れた。願いの代償に、捧げられた供物として。
「もう、かえらなきゃ」「ばいばい」「ばいばい!」
帰るって、どこへ?きん、と耳鳴りのような音がして、器が強い輝きを放つ。
「待って、待ってってば……!」
光を帯びた壺は、あろうことか梢から宙へと放り投げられる。ああっと叫び声をあげたあたしを横目に、鴉の子たちはひとり、またひとりと、滞空する器に向かって羽ばたき、そして消えた。眩しくってよく見えないけれど、まるで壺の中へと飛び込んで行くように。
何を考える間もなく、あたしは手を伸ばして駆け出した。壺は弧を描き、あたしの手の中へと落ちてくる。
陶器の肌に触れた刹那、閃光があたしを包み込んだ。なにもかもが眩み、視界を白く染める。澄んだ風が、胸の奥深くまで吹き渡るような心地がした。
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