第10話 ぶつかり合う

数日後、カイトがベッドの上で受付で借りた古い地図を広げ、いかにも「情報収集をしている」という体で時間を潰しているとき、ユカリはついに抑えきれない感情を口にした。


「ねえ、カイト」


ユカリの声は低く、これまでになく冷たい響きを持っていた。


「……ん、どうしたの、ユカリ?」


カイトはすぐに笑顔を作り、ユカリの方を向いた。いつもの、安心させようとする、安っぽい笑顔だ。


「どうしたの、じゃないでしょ。保証人、見つけるって言ってくれたのに、全然やる気出さないじゃない!」


カイトの顔から、一瞬で笑顔が消える。彼は慌てて言い訳を探した。


「ご、ごめん……でも、また襲われたら嫌だし……この間だって、あんな目に遭ったんだ。もう少し、安全に情報収集を……」


「安全に情報収集するって何?ずっと宿にこもっていることが、安全なの?」


ユカリは声を荒げた。


「生活費はどんどん減っているし、このままじゃ私たち、本当に詰むよ!カイトが土下座して命だけは助かったとしても、宿を出されたらどうするの?」


カイトの自己防衛の盾は、ユカリの正論によって打ち砕かれた。しかし、彼はその痛みに耐えられなかった。恐怖と屈辱から逃れたい一心で、彼はさらに頑なになる。


「だって、外は本当に危険なんだ!ユカリにはわからないよ!俺はもう、あの山賊に殴られるのは嫌なんだ!それに、ユカリは『焦らなくていい』って言ってくれたじゃないか!」


「それは、あなたが怪我をするのが嫌だったからよ!でも、それと何もしないのは全然違うでしょ!」


ユカリの目に、諦めと悲しみが混ざり合う。カイトの顔に浮かぶのは、本質的な問題から逃れようとする子どものような表情だった。彼は、ユカリとの関係を壊したくないからこそ、笑おうとし、優しくしようとする。その表面的な優しさと、行動の伴わない言葉のギャップが、ユカリの不満をさらに募らせるのだ。


ユカリとの小さな衝突が繰り返された翌朝、カイトは意を決した。このままではユカリに見限られてしまう。


「……行くか」


震える足で宿を出る。路地裏を通り過ぎるたびに身体がこわばり、すれ違う者全てがゲルデルンたちに見えてしまう。彼の全身は、恐怖の波に晒されていた。


しかし、彼は一つの決めた場所へと向かう。ユカリが働いている、飲食店だ。


店の窓の外から、カイトは中の様子を覗き込む。


(……あ、ユカリだ)


ユカリは、テキパキとテーブルを回り、客からの注文を笑顔で受けていた。給仕の皿を持つその姿は、軽やかで優雅だ。客に丁寧に、尚且つ笑顔で他の店員と手際よく連携している。


その姿に、カイトは思わず目を奪われた。彼女の周りだけが、まるで光を放っているように見えた。


(ユカリは……すごいな)


彼女だって、この世界に来て、いきなり知らない言語、知らない仕事に放り込まれたはずだ。それでも、彼女は懸命に働いている。


(ユカリだって、辛い目にあっただろう。それでも、俺のために、こんなところで……)


彼女の精神力と、前向きな姿勢を前に、カイトの「恐怖」を理由にした言い訳は、もろくも崩れ去った。情けなく、惨めな気持ちがカイトの胸を押しつぶす。


「……俺は、何をしているんだ」


そのとき、店の中に、ある男が入ってきた。

狙う視線と、満更でもない笑顔。


背が高く、端正な顔立ちをしたエルフの男だった。白銀の髪に、緑色の瞳。品のいいレザーの服を身に着けている。


カイトはハッとした。


(あのエルフ……!そうだ、俺が初めてこの店で、料理を運んだ時の客だ!)


カイトが呆然と見ている前で、エルフはユカリが担当するテーブルに座った。そして、ユカリがメニューを持って近づくと、彼は親しげにユカリに話しかけ始めた。そのエルフがユカリを見る目が、カイトには耐えられなかった。


まるで獲物を品定めするかのような、ねっとりとした、いやらしい視線。そのエルフは、彼女に興味があるのだと、カイトは直感した。


ユカリは、エルフの話に耳を傾けている。そして、満面の笑みを浮かべた。その笑顔は、カイトに向けてくれる、優しさと愛情が混ざった笑顔とは少し違う、社交的な、しかしどこか嬉しそうな笑顔だった。


ユカリは満更でもなさそうだ。


その光景を見た瞬間、カイトの胸に、これまで感じたことのない熱が湧き上がった。恐怖による自己防衛でも、無力感でもない。


嫉妬と、独占欲。


(なんだ、あいつ……!ユカリに、あんな顔をさせて……)


カイトの頭の中で、恐怖の鎖が弾け飛ぶ。彼の中の何かが、一気に逆転した。命の危険を冒すことよりも、ユカリが他の男に魅了されることの方が、今はるかに恐ろしかった。


彼はその場から逃げるように宿へと引き返し、ユカリの帰りを待った。その夜、二人の間に、避けることのできない大喧嘩が巻き起こることを悟りつつ。


ユカリが宿に帰ってきて、部屋のドアを開けた瞬間、カイトは怒りに満ちた声で問いただした。


「ユカリ!今日の昼間、あのエルフ!何なんだ、あいつは!」


ユカリは驚き、手に持っていた荷物を床に落とした。


「カイト、なんでそんなに怒ってるの?ていうか、見てたのね」


「見てたさ!あいつ、どう見ても客じゃなくて、お前を口説こうとしてるだろうが!お前だって、あいつに満更でもなさそうな顔してたじゃないか!」


カイトは、恐怖から逃げ続けた数日間のフラストレーションを、すべてこの一点にぶつけた。


「満更でもないって……仕事よ!客と話して笑顔を見せるのは当然でしょ!それに、あの人は色々な情報を教えてくれるのよ。カイトが全然外に出ないから、代わりに私が……」


ユカリの声にも、強い怒りが滲んでいた。彼女が抱えていた、カイトの無気力への不満が一気に噴き出す。


「代わりに私がって、なんだよ!俺のせいだって言いたいのか!」

「そうよ!あなたは一刻も早く保証人を見つけなきゃいけないのに、カイトはいつも『怖い』『嫌だ』って言い訳ばかりして、部屋にこもっているじゃない!」


ユカリの放った、的を射た言葉は、カイトの胸に鋭く突き刺さった。それは、彼自身の弱さと、卑怯さを完全に暴き出す言葉だった。


カイトは何も言い返せなかった。二人の間に、冷たい、重い沈黙が降り注ぐ。この世界に来てから初めて、二人の関係は、修復が難しいほどの亀裂が入ったのだった。

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