第9話 重い足取り

昼下がりの路地裏での屈辱から、どれほどの時間が経っただろうか。カイトは重い足取りで、宿屋の扉をくぐった。


宿の二階、彼らの部屋のドアを開ける。中はすでに夕暮れの光に包まれ、ほのかな暖かさがあった。


「おかえりなさい、カイト!」


ベッドの上でこの世界の本を読んでいたユカリが、弾むような声でカイトを迎えた。彼女の笑顔は、この荒んだ世界でカイトが見つけられた、唯一の「安全地帯」そのものだった。


しかし、ユカリがカイトの姿をまともに捉えた瞬間、その笑顔は凍りついた。


「……カイト!?まさか、また……襲われたの!?」


彼女はバッとベッドから飛び降り、カイトのもとへ駆け寄る。カイトの顔には土がつき、服は破れており、隠しきれないあざが腕や首筋に浮かんでいた。


「だ、大丈夫だよ、ユカリ。ちょっと転んだだけだ」


カイトは慌ててそう言って、怪我を隠すように身体をねじる。


「嘘つかないで!」


ユカリはカイトのシャツの袖をまくり上げ、青黒く変色した肘のあざを、震える指でそっと撫でた。


「これ、どう見ても転んだ傷じゃない!あの……あの山賊みたいな人たちに、またやられたのね?」


ユカリの瞳が不安と怒りでにじむ。


「もういいんだ。今回は何も取られてないし、大事には至らなかったから」


カイトはぎこちなく笑ってみせたが、その表情は心底疲弊していた。


「大事に至らなかったって……っ」


ユカリは唇を噛み締める。そして、ふっと表情を緩め、カイトの手を優しく引いた。


「わかった。とりあえず、手当をさせて。シャワーを浴びて、それから、ちゃんと話を聞かせてね」


その夜、ユカリはいつも通りカイトの隣で眠りについた。彼女は、昼間の出来事について深く追求することはしなかった。カイトの身体の熱が、ユカリの不安をゆっくりと溶かしていくようだった。


「ねえ、カイト君……」


ユカリがそっと、カイトの胸元に顔をうずめる。


「……保証人探しのこと、焦らなくてもいいからね。カイトが怪我をする方が、私はいやだ」


彼女の温かい言葉は、カイトの心の奥底に染み込んでいく。


(ああ、そうだ。ユカリがこう言ってくれている。無理しなくてもいいんだ)


カイトはユカリを抱きしめ返す。彼女の存在そのものが、彼にとっては何よりも優先すべき報酬であり、安息だった。ベッドの中の時間は、外の世界の危険や責任から切り離された、甘い蜜のようだった。


この瞬間、カイトの心の中では、二つの声がせめぎ合っていた。


責任感と約束:「ユカリとの約束を果たすためにも早く保証人を見つけなければ。この生活は長く続かない」


恐怖と自己防衛:「あの山賊たちにまた会うくらいなら、今のまま、この部屋でユカリと二人でいる方がずっと安全だ」


そして、襲撃の屈辱が植え付けた恐怖が、静かに責任感を上書きし始めていた。


翌日から、カイトの行動は目に見えて鈍くなった。


朝、ユカリが「カイト、今日も早く出かけるの?」と尋ねると、カイトは曖昧に答える。


「ああ……いや、今日はちょっと、情報収集から始めようと思って。外は危険だし、まずは宿で……」


結局、彼は保証人探しに出かけず、宿のロビーで時間を潰したり、ユカリとのんびり過ごしたりすることが増えた。彼の中では、それは「危険を回避する賢明な選択」だった。無理に行動しなくても、命が脅かされることはないのだから。


ユカリはカイトの変化にすぐに気づいた。カイトが部屋にいる時間が増え、外の世界への意欲が急速に失われていること。


(カイト、全然外に出てくれない……。もしかして、あの人たちに会うのが、怖いのかな)


最初は、彼のトラウマを理解しようと努めた。


「休養も大切だよ、カイト。私も一緒にいられるのは嬉しいし」


その後、ユカリはカイトを元気付けるため、仕事先で作ってもらったミニウシのステーキ、コロコロ芋の炭火焼き、スライムゼリーなど、この世界におけるご馳走とも呼ばれる料理を毎晩持ち帰った。


カイトはそれらをほとんど口にすることはなかったが、ユカリは懸命に彼に寄り添い続けた。

しかし、一週間、二週間と経過するうちに、ユカリの心には小さな不満が溜まり始めた。彼女はカイトを責めたくはなかったが、このままでは生活が行き詰まることは明白だった。


ある日、ユカリはカイトに、それとなく尋ねた。


「あのね、カイト。宿の滞在費、結構負担になってきいて。そろそろ二人分払い続けるのは辛いんだけど……」


カイトは、ユカリから目を逸らし、曖昧に答えた。


「ああ……そうだよね。ちょっと良い情報が入るのを待っているんだ。適当な人に頼んで、危ない目に遭うのは嫌だし」


その時、ユカリはカイトの瞳の奥に、以前のような「何としてでもやり遂げる」という決意の光がないことを感じ取った。代わりにあったのは、冷たい諦めと、現実から目を背けるための言い訳だった。


ユカリの顔から、微かな笑顔が消える。


「……そっか。わかった」


彼女は強く追求するのをやめた。だが、その声には以前のような甘い響きはなかった。ユカリの心の中に、カイトへの苛立ちが、水滴が溜まるように静かに積もり始めたのだった。

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