第2話 出会いの塔

その日、塔の鐘は一度も鳴らなかった。

婚約の儀が行われるはずの夜に、

鐘が沈黙するのは珍しいことだった。


ルシオンの空は、

曇りガラスのように白く濁っていた。

街の隅々にまで掲げられた布告が、

風に揺れて紙の音を立てる。

《光の儀式 本日二十時 婚活庁主催》

その文字が滲むたび、リリア・ノートは胸の奥が冷たくなるのを感じた。


彼女は書簡局の奥の部屋で、

インクの匂いに包まれながら筆を動かしていた。

古びた机の上には、数枚の羊皮紙。

そこには、二人の“心の波形”が薄く描かれている。


リリアの仕事は「写本士」だった。

マギボードに記された感情の波を、

記録文として書き写す——

いわば、この国の“愛の記録係”だ。


だが、そこに“愛”は存在しない。

人の心を測り、数値化し、整理するだけ。

恋も、誓いも、文法の一部のように処理される。


リリアは、ペンを止めた。

手の震えに、少しだけため息を乗せる。


「これが、幸福の形……?」


窓の外では、人々が塔へ向かって歩いている。

彼らの手には黒い石板——マギボード。

誰もがそれを誇らしげに掲げ、

光らせることを願っていた。


リリアも、ひとつだけ自分のマギボードを持っている。

それは掌に収まるほどの薄い黒い板。

角は丸く、表面は滑らかで、

触れると人の皮膚のようにほんのり温かい。


板の中央には淡い魔法陣が刻まれ、

魔力を流すと脈打つように光る。

だがリリアの板は、長いあいだ沈黙したままだった。

光を発したことが、一度もない。


「私の心は、誰にも届かないのね。」


そう呟いて笑う。

その笑みは柔らかかったが、

どこか空気のように薄い。


彼女の指先には、微かに古い傷跡が残っている。

それは、修復士としてマギボードの魔力制御を誤った時の名残。

皮膚の奥まで光が入り込み、消えない痕になった。


——光は、美しくて危険だ。


だからこそ、この国の人々は光を崇拝する。

“国家が与える幸福の証”として。


「リリア、そろそろ準備なさい。」

同僚の女性が顔を出した。

「塔の儀式、今夜でしょう?」


「ああ……忘れてたわ。」


「忘れちゃだめよ。

 あなたも対象年齢なの。

 いつまでも独りでは、安定局の人が来ちゃうわ。」


冗談めかして言う声が、

どうしても冗談には聞こえなかった。


リリアは筆を置き、机の上のマギボードを見つめた。

修復依頼で預かっていた古い板。

表面には小さな亀裂が走り、中央に淡い光が残っている。

まるで、消えかけた心が最後の息をしているようだった。


彼女は思わず指でそのひびをなぞる。

冷たい石の感触のはずなのに、

そこから微かな鼓動を感じた。


> 『……まだ、生きてる。』




声にならない声が、胸の奥で呟かれる。


——夜が来た。


塔の広場には、無数の灯火がともっていた。

人々は皆、マギボードを手に集まり、

互いの光を確かめ合う。

誰かと共鳴すれば、その場で婚約成立。

光らなければ、次の機会を待つだけ。


それが“国家に愛されるための儀式”だった。


「どうか……光りますように」

あちこちで祈りの声が上がる。

光は幸福。沈黙は不安。

この国では、光らない人ほど危険視される。


リリアは群衆の端に立ち、

自分のマギボードを静かに掲げた。

風が塔を抜ける。

夜空は雲に覆われ、星も月もない。


周囲の板が一斉に光り始めた。

青、金、緑、白——

まるで夜空に咲く花のように、美しくも儚い光。


歓声が上がる。

恋人たちは抱き合い、兵士が記録を取る。

けれどリリアの板は沈黙したままだった。


「……やっぱり。」


誰にも見えないように、笑う。

それでも、その笑みは少し滲んでいた。


その時だった。

塔の頂上で、突如として光が弾けた。

眩い閃光が夜を裂き、

広場が一瞬だけ昼のように明るくなる。


人々が悲鳴を上げる中、

リリアの手の中のマギボードが震えた。


> 『……聞こえますか?』




耳ではなく、胸の奥に響く声。

男の声だった。

けれど、それは恐怖よりも懐かしさを伴っていた。


「誰……ですか?」


リリアの唇が、自然に動く。

言葉は空気に溶けたが、

板の表面に白い光の文字が浮かび上がる。


> 『君の光が見える。懐かしい気がする。』




息が止まった。

知らない相手の言葉なのに、

胸の奥が温かくなる。


「あなたの光も……見えています。」


そう答えた瞬間、

マギボードの表面が柔らかく波打った。

光が彼女の指先から腕へ、そして胸へと伝わる。

痛みはない。ただ、あたたかい。


塔の頂上では、金の粒が風に舞っていた。

他の光はすべて消え、

ただ一筋の金の糸だけが、夜空を貫いている。


人々は沈黙し、

誰もがその光に見とれていた。

それは、制度の外に生まれた“想い”の証だった。


リリアは、板を胸に抱きしめた。

目の奥が熱い。

涙か、光か、もう分からない。


> 『あなたは誰……?』




彼女がそう送ると、

板の文字が少しだけ揺れた。


> 『エリアス。』




その名を読んだ瞬間、

塔の光が静かに収束していく。

夜風が頬を撫で、

鐘の音の代わりに、街の犬が遠くで吠えた。


——世界が、少しだけ変わった気がした。


光の残滓が、空に漂う。

誰も知らない小さな奇跡が、

この夜、確かに生まれた。


リリアはマギボードを見つめた。

それは、ただの石ではなかった。

手の中で、まるで誰かの心臓のように、

静かに鼓動を続けていた。

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