義務婚の国で、君を想う

カム口

第1話 義務の光

——その夜、静寂が破れた。


窓を叩く風が、書類を散らした。

その中で、長い間沈黙していた灰色のマギボードが、

まるで息を吹き返したように淡く脈動した。


「……誤作動か?」


石の板とは思えないほど、温い。

指先に触れた瞬間、白い光の文字が浮かび上がった。


> 『……聞こえますか?』




声ではない。

光が、言葉になっている。


七年前──ただ一度だけ共鳴した相手がいた。

その光は、理由も告げられぬまま消えた。

以来、エリアス・グレインのマギボードは沈黙を続けていた。


なのに、なぜ今。


胸の奥で、久しく忘れていたざわめきが微かに揺れた。



---


朝。

王都ルシオンの鐘が街を叩くように鳴り響く。

人々にとっては祝福の音。

だがエリアスには、一日の始まりを告げる“義務の合図”に過ぎなかった。


——結婚せよ。それが国の掟。


愛のためではない。

国家のためだ。

二十五歳までに婚約を結ばなければ“魔力安定局”へ送られ、

感情を鎮める奉仕労働に従事させられる。


掲示板には新しい布告が貼られていた。

《婚約登録率、九十二パーセントを突破》

《未婚者には国家給付を停止》

祝福の鐘の裏で響くのは、自由ではなく“管理”の音だった。



---


エリアスは文書院の一室で、湯気の消えた茶をすすっていた。

机の上に積み上げられているのは、婚約契約書の山。


今日も他人の“愛の記録”を分類し、保存するだけの日だ。


「……今日も安定してるな」


自嘲は紙の山に吸い込まれる。

恋人たちの誓いの言葉も、乾けばどれも同じ黒い線になる。


彼は三十二歳。

適齢を七年過ぎ、“監督対象者”に指定されている。


引き出しから取り出した封書にはこうあった。

『最終通知:六ヶ月以内に誓約登録を完了せよ。』


エリアスは苦笑する。

「愛より安定、か……」


消されるのも悪くない。

そう思えるほど、心は乾いていた。


窓の外では婚活庁の白い建物が朝日を反射している。

教会のような外観の内側で行われているのは、祈りではない。

“愛の選別”だ。


職員たちが配るマギボード。

古代の魔導具は、いまや婚約から出産までを管理する“心の端末”になった。


愛は数値で測られ、国家が記録する。

人々はその光を幸福と信じて疑わない。


エリアスのマギボードは、もう何年も光っていない。


かつて共鳴した相手──

その光が消えた日から、彼は恋を避けた。

逃げるように書類の山に埋もれ、静寂だけを選んだ。


だが昨夜、その静寂は破れた。



---


> 『……聞こえますか?』




光の文字はまだ脈打っている。

返事を刻んでも応答はない。

ただ淡い点滅が、誰かの心臓のように鼓動を続ける。


エリアスは目を閉じた。

自分の鼓動と光のリズムが重なる。


夜が明けても、光は消えなかった。


胸のざわめきが、もう「孤独」ではないと気づくまで、

それほど時間はかからなかった。


——この瞬間から、

 彼の世界は静かに歯車を外れ、

 まだ見ぬ“誰かの光”へ動き始めた。

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