第19回 翌朝

  嘉慶八年閏二月二十一日。


 赤々と燃える太陽が東の空に顔を出し、ようやくそのやたら大きい体を空の上に乗り上げ終え、さあ仕事が始まるぞ、とばかりに照り始めた時間のことであった。


 瀏親王府の寝台の上でごろりと体を転がすと、すぐ隣でなりに似合わず大人しく、規則正しい寝息を立てているアルサランの顔が目に入る。


「眠い……」


 だが、こちとら包衣とは違ってすやすやと惰眠を貪っているわけにはいかない立場である。のそのそと布団から起き出すと、朝方の冷たい空気が床の辺りに溜まっており、足首をひやりとしたものが掴み取る。


 起床を邪魔するものはそれだけではない。ぼくが半身を起こして寝台から出て行こうとすると、まるで見計らったかの様にアルサランが動き、寝ぼけたまま寝衣の袖を掴むのである。


「(わざとやってるんじゃないだろうな、これは)」


 思わず疑いたくなるやり口だが、憎らしい気持ちを抑えてなお余りある深い情に心が締め付けられ、自然と手は寝衣の肩に向かう。


 とはいえ、白絹の袖をそう簡単に割いてやるわけにも行かず、こちらとしては苦笑いを浮かべて衣ごと与えてやるより他に無い。どうせ中にもう一枚着込んでいるのだ、構うことは無い。伽羅の香りを染ませたそれをするりと脱いで与えてやると、ぼくは名残惜しげに彼の頬を一度撫でて、寝台から降りた。


 寝室から扉一枚隔てた居間の方に入ると、そこは既に主人の起床時刻を心得ている召使達によって火鉢が一つ置かれ、暖められていた。


 何も言わずとも彼らは黙って朝に必要なもの──水の入った金盥に櫛、出仕に必要な服と装具一式、軽食まで──を恭しく捧げ持ち、髪の毛を整える者から順に中へ足を踏み入れてくる。


「おはようございます、殿下。今朝はこのまま御出仕になられますか」


「うん、そのつもりだ。それから、アルサランのことは起こさんでいい。ゆっくり休ませてやってくれ」


「心得ましてございます」


 どうせ弁髪に纏めてしまうのにと思わないではないが、侍女達はいつも丁寧に髪に水を含ませ、櫛で梳かしてくれる。お陰でいつも絹糸のような艶を持った三つ編みが完成するのだが、これを間近で目にする人間がごく限られているのがまことに惜しい。


「今朝まずどちらにお出でになりますか」


「監獄だ。昨日帝より、さる事件の調査にあたる様勅命を承った。普段の仕事は一旦次官に代理で任せ、こちらに専心して良いとのお言葉だ」


「そうでございましたか」


「とはいえ、罪人を扱う仕事に思うところがないというわけではない。葉家司、今後は衣に香を少し濃い目に焚いてくれ。地下牢の匂いが移るのは嫌だからな」


「畏まりました」


 口元に運ばれる羹を匙から啜りながら、ぼくは今日の陰気極まる仕事に思いを馳せる。罪人の尋問はこれまでにも経験があるが、軍機処の牢獄でなどというのは初めてだ。正直、どんな場所なのか想像したくもない。


「(ああ嫌だ、汚れ仕事だ、全く。一体どこの誰がぼくにこんな仕事を押し付けやがったんだ。そうだよ、帝だ。畜生)」


 声に出したが最後棒叩き百回に処されても文句は言えない不敬な思いを胸に抱きながら、ぼくは朝餉を食べ終え、気の進まない出仕の準備を整える。牢獄へ行くのにしっかりと朝廷用の服を着込むのは何とも無駄が多い様な気もするが、仕事に対してはしっかりと情熱を持ってあたる。そんなぼくの態度を示した物だと言っておくことにしよう。


「ご主人様の出発だ!」


 冷え込む中でも律儀に主人の出座を待っていた馬丁たちがすぐさま車の準備を整える中、ぼくは門の辺りまで付いてくる家司に囁く様に命じた。


「もし、アルサランがぼくのことを探すなら、監獄の方には来るなと伝えてくれ。宣武門の菜市口に小料理屋があるから、巳の刻辺りになったらそこで食事を取ると」


「ははっ」


 太陽はすっかり高く登っている。間も無く卯の刻の鐘が鳴り響くだろう。この清々しい交通制限がいつまで続くかは判らないが、道が混みだす前にさっさと向かってしまおう。


「さあ急げ、時間は待ってはくれんのだぞ!」


 急足で進め。事故を起こさないくらいには。

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