第18回 叔父上
あぁ、疲れた。帝の御前を下がり、東華門から馬車に乗り込むや、ぼくは大きくため息をついてアルサランの体にもたれかかった。
傷に響くのか、彼は少し顔を顰めたが、抵抗はせずに受け入れてくれる。なお、その手元には帝から賜った褒美が握られており、銀が詰まった黄色い絹の袋には『恩賜 薬代』と朱色の墨で書かれている。
「このままお帰りになりますか?」
「……いいや、少し寄っていくところがある。済まないが、西四南大街へ向かってくれ。定親王府にお見舞いを申し上げに行く」
「分かりました」
紫禁城を出て皇城の中海を渡り西安門大街をしばし西へ向かうと、いくつかの縦横の通りが交差し、四方に道が走る交差点に行き当たる。それを更にまっすぐ行けば瀏親王府がある阜成門の通りがあり、南に折れて大院胡同との交差点まで行けば定親王の邸宅がある─複雑に見えるが、これでもかなり秩序立っている方だ。
少なくとも帝のお膝元たる内城においては、元より好き勝手な建築は許されていない。
外城が庶民の街と称されるのに対して、内城は旗人の街である。順治年間に大清が李自成を逐って華北を制した際、摂政を務めた初代睿親王多爾袞(ドルゴン)は内城から全ての漢人を外城へ放逐し、帝に忠実な八旗の旗人だけをそこに住わせる命令を下した。
金の時代、なし崩し的な雑居によって満洲人から尚武の気風が失われ、結果として大蒙古帝国の前に膝を屈することになった苦々しい先例を鑑みてのことだった。
以降も歴代の皇帝は漢人の文化に親しみつつもこれを恐れ、同胞が文弱と享楽に溺れぬ様に腐心し続けている。旗人に演劇が流行れば演劇を制限し、色街が盛んならば城内から追放し、登用試験の必須科目には歩射、騎射、満洲語を課しとあの手この手の施策を今尚尽くしている。
「(が、それも太平の圧力には敵わぬ辺り、なんとも物悲しいことだな)」
定親王府の豪奢極まる大門の前に立ちながら、ぼくはそんなことを思った。この夜にも映える鮮やかな朱塗りの柱に、螺鈿に翡翠に七宝と贅を尽くした精到な装飾。老貝勒の『和光同塵』の屋敷も大概贅を尽くした造りであったが、こちらは更にその上を行く。
ますます我が家の安っぽく惨めな様が脳裏に思い出されて、ぼくは苦笑いを禁じ得なかった。
「流石に丹の禿げた柱は直しておくべきかな、アルサラン」
「そうした方がいいと思いますよ、わたしはね」
「お待たせ致しました。主人がお会いになります、どうぞこちらへ」
夜半のことである。流石に大門を開けさせるのは憚られたので、ぼくらは慎ましく横の通用口から敷地に足を踏み入れると、主屋の西側に設けられた定親王の寝室へと向かう。こちらも遅い夕餉時なのだろう、我が家に比して数倍はいるだろう多くの召使が忙しく歩き回っており、厨房からは食欲をそそる煮炊きの音が耳に響いてくる。
「どうぞ、瀏親王殿下」
「失礼する─こんばんは、定親王殿。夜分遅くに上がり込んで、ご迷惑をお掛け致します」
「いえいえ、お見舞い痛み入ります叔父上……おや、背後の方は。よかった、傷は浅い様で何よりですな」
定親王は寝台に上半身を起こし、柔和な微笑みを浮かべた。均整の取れた肉付きの胸元は包帯で覆われており、上には白い寝巻きを羽織っている。傍には痛み止めと思しき薬湯の土瓶と湯呑みが呼び出し用の鈴と共に置かれており、今しがた治療が終わったばかりなのだろう、薬草を練りこんだ膏薬の香りがかすかに漂っていた。
「傷のお加減はいかがですか」
「そこまで深くはありませんよ。ですが、医師はどうも首を捻っていましたね……まるで何かに『噛みつかれた様だ』と」
「……では、やはりあの光景は見間違いでは無かったのですね」
「でしょうな。尤も、人間が三本目の腕を生やしたなどと、あまりにも馬鹿らしいことです。きっと公式記録には載らないでしょう」
そう考えてみると、野史と言うのにも案外存在意義があるのかも知れない。あまりにも馬鹿らしいから、時の為政者にとって都合が悪いから。実にさまざまな理由によって公式記録から抹消された事実が野史の形として未来に残り、与太話として消費されながらも死ぬことなく語り継がれていく。
「今回の事件も、野史ではどう語られることになるのでしょうね」
「さあ、どうなるでしょうなあ」
定親王は気楽にそう呟くと、やがて枕元の鈴を手に取って宣った。
「ところで叔父上。夕餉はもうお召し上がりに?」
「いえ、まだですが」
「では、ぜひ我が家でどうぞ。いや、遠慮なさることはありません。実は傷を治すために精の付く食べ物を買い付けさせたのですが、買い物係が量を誤りましてな。腐らせてしまうのも勿体無いと思いまして」
「しかし、」
あくまでも辞退しようとした矢先、ぼくの胃の腑がどこぞの包衣の如く、主人に対してあらぬ狼藉を働いた。ぐるぐると生意気な遠吠えを腹の中から叫ぶと、上から抑えるのも聞かずに食べ物を求めて動き回る様な感覚を催させる。
くすり、と背後で笑った包衣の方は後で串刺しにでもしてやるとして、胃の腑の方は如何ともし難い。ごうろごうろと空の円卓をゆすってお代わりを催促するわがまま坊主を持て余し、羞恥に顔を染めるぼくに向かって定親王はゆったりとした様子で微笑んで、
「さて、如何しますかな、叔父上」
「……大人しく、ご厚情に与らせていただきたく思います」
定親王のご好意に甘えること自体は、決して悪いことではない。素直に了承してしまっても、図々しいと非難を受けることもなかろう。
だが、どうしても内心気が進まなかったのもまた事実だ。何しろ、明日には今日よりもずっと陰鬱な仕事が待っており、それを思うと華やかな食事を喉に放り込む気になれなかったのである。
「どうぞ、瀏親王殿下。まずは
「あぁ、ありがとう」
我が家の数倍は広い円卓にアルサランとともに二人で座り、次々と運ばれてくる贅沢な料理を腹に入れていく。腕前は無論のこと、食材の質も品数も申し分無い出来であり、宮中で振る舞われた昼餉に勝るとも劣らない。
「(だがどうもな、腹一杯に放り込む気になれないのが難儀なところだ)」
「どうかなさいましたか、殿下。もしや、料理に不手際でも──」
「いやいや、そんなことはない。こちらの話なのだ……済まないが、次の料理が来るまでの間、席を外してくれないか。給仕役も今は結構だ」
「はい、畏まりました」
部屋の中に待機していた召使達がぞろぞろと出て行ったのを確認すると、ぼくは布巾で口を拭い、普段の忌憚無い口調でアルサランに問いかける。
「なあ、アルサラン。お前に一つ聞いておきたいのだが」
「何ですか、永暁さま」
「今回帝を襲ったあの暴漢だが、どうだろう。宿場町の山の中で出くわした化け物と、何か関係があると思うか」
「さあて、どうでしょうか。わたしにはちょっと想像がつきかねますが」
「嘘を言え。こういう作業はお前のほうが得意だろ。頭の悪いふりをして惚けたところで無駄だ。意見をしっかり聞かせてくれ」
「うぅん、そうですねえ……」
彼は少し考え込んだ後、野菜を包んだ春巻きを箸で摘み上げ、
「あの暴漢と、貝勒殿の屋敷と関係がありそうな化け物、繋がっている可能性は否定しません。ですが、一筋縄の繋がりではない様な気がします」
「どうしてそう思う?」
「永暁さまはお気づきになったか分かりませんが、自分が見る限り、あの場にあった『死体』は全て女だったんです」
彼はひょい、とそれを口にするとパリパリと噛み砕き、
「貝勒殿の屋敷から出た不穏な女の死体達、そして三本目の腕を生やした暴漢。時期も近いですし、関係があると推理なされるお気持ちもよく分かります。しかし、安易に繋がりを想定すると、かえって真相を見失うことにもなりかねません。結論はまだ、慎重に下されるべきかと」
先走り過ぎではありませんか。彼の視線は静かにそう訴えていた。確かにその通りだ。ぼくはとにかく気が短い。調査にしたところで、長い時間をかけてどぶ板を洗う様な調査には向いていないのだ。
「……確かにそうだな、その通りだ、アルサラン。今のところ、ぼくらはあの暴漢の名前さえ知らないんだ。それでは、話にもなるまいな」
「永暁さまは賢いあまり、一足飛びに結論へ向かわれる癖があります。いえ、それは決して悪いことではありません。永暁さまが突飛な発想で突破口を開き、それをわたし達が下支えすればいいのですから。今回のことも、二つの『異様なるもの』に対して繋がりがあるとお考えになるのは、やはり自然なことです」
「……」
「となると、問題はこの両者を繋ぐものは何か、と言うことに他なりません。今のところ、老貝勒の事故と神武門の大逆未遂は、距離的にも大きく離れています」
「では、この二つが繋がっているのだとしたら、その間に入り込むものを探してみなくてはならないと、お前はそう言うわけだな」
「左様です、永暁さま」
僅かに頭を下げる相棒。ぼくはもう少し足掻いてみようか、と顎に手をやって思索を続けたが、結局は情報不足の分厚い壁にぶち当たってしまう。これ以上無理に進めるのはよろしくない。
「(全ては明日、ということか)」
大きなため息が口から漏れるのと同時に、扉の向こうから控えめな召使の声が、
「新しいお料理をお持ちしました」
「一先ず、難しい話はここまでにしましょうか、永暁さま。明日のご予定はどうします?」
「朝一番に牢獄に行き、尋問をする。午後にはそうだな……貝勒の家に行ってみることにしようか。あいつらも連絡が無くて気を揉んでいることだろう。改めて、あの『未亡人』とやらに会ってみるのも悪くはないな」
「では、そうしましょう」
扉を開けて召使を呼び入れると、丁寧に薄餅に巻かれた家鴨の皮が盛られた皿と、代えの酒入りの瓶子を盆に載せて持ってくる。まずは一度、このくらいにしておけと言うことか。
「(まあ、思うところはあるが、そうするかな……)」
「永暁さま?」
「何でもない、アルサラン。それよりも、お前に一つ聞いておきたいことがあるのだが」
「はい、何でしょう」
「実を言うとな、ぼくは今とても機嫌が悪い。理由は無論分かるだろう。お前の勇気に対して報いられたやり方が、あまりにも気に食わないからだ」
「別に気にしてませんよ」
「いいや、ぼくは気にしている。そういう扱いをした侍衛連中も、そんな扱いを受けてへらへらしているお前自身にも」
パチン、と箸を置いてじろりと睨め上げると、アルサランの顔色が青くなる。そして、少し恐れた様に引き攣った表情で、
「永暁さま、今夜はその、明日に備えて早めにお休みしましょうね?」
「そうだな。明日もあるし、早めに寝ようか」
「そうですよね、ね?」
「お前に包衣としての『心得』をじっくりと教え込んでからだ。喜べ、主人直々に教育してやる機会などそう無いぞ」
「そ、そんな!」
─全ては、酔っていたお互いが悪いのだ。後々ぼくはそんな言い訳をすることになるのだが、閨の蝋燭を吹き消した後のことを語るのも野暮な話である。二十日の話はこれまでとしよう。
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