ナンバースリーに気をつけて

白鯨

「アーモンドを食べるためには、殻を割らなければならない」


 僕の家の近くには、昔からレンタルCDショップがある。古い店で、黄色い看板はところどころが剥がれていて、みすぼらしい。内観も古くさいが、壁一面に飾ってあるレコードやポスターは店主のおじさんのセンスが光っていて、僕は好きだった。僕と同じ世代の若者は、もうCDを借りないらしく、利用者はほとんどいない。この店は僕が暮らす街の中でも一際目立っていた。

 僕はこの店に通い詰め、ほぼ毎日というもの、試聴コーナーで一、二時間ほどCDを聴いていた。そろそろこの店にあるCDは全て聴き終わるな、と思ったのと同じくらいの時、突然、「おい」と声をかけられた。

 「おい。そこの高校生」

 「え、僕ですか」ヘッドフォンを外して振り向くと、犬が立っていた。犬のような男だった。

 「名前は?」

 「え、僕ですか」

 「おまえしかいないだろ」男は顔をしかめた。

 「ともです」あまり気は進まなかったが、とりあえず僕は名乗った。

 「何を聴いてるんだ?」

 「別に、なんでもいいじゃないですか」初対面の人間に、自分の嗜好を知られるのは嫌だった。少し生意気な言い方になってしまったかな、と思ったが、日比野さんはけろっとして「まあ、そうか」と言った。

 「で、要件なんだが」

 「え、はい」

 「あ、それ、外せ」

 男が僕の顔のそばにあるヘッドフォンを指差した。男の言う要件とやらが少し気になってしまったのも事実で、僕はヘッドフォンを試聴コーナーの棚に戻した。

 「要件ってなんですか?」

 「あそこに、角刈りの男がいるだろ?」

 男は、店の隅に立っている男を指差した。軽くパーマのかかった角刈りの頭が目立っており、眉間のしわが深く刻まれている。足を小刻みに揺らしていて、落ち着きがない。男は、あの道端で犬を蹴ってそうな、といらない補足をつけた。

 「で、その横の、サラリーマン」

 男は伸ばした腕を横にスライドし、角刈り男の横に少し距離を置いて立っている真面目そうなスーツの男を指差した。楕円形に近く、赤黒い色をした奇妙な形のトランクケースを持っていて、それが気味悪く、この店には不釣り合いに見えた。

 「あの人たちが、なんなんですか?」

 「あの二人組は今日、この店に約三時間も居座っている」

 「三時間も?」僕は眉をひそめた。あの二人組が三時間も居座っていることにも驚いたが、あの二人組を観察していたのなら、この男も三時間、この店にいたということになる。

 「な、不思議だろ? 三時間だぞ、三時間」

 「なんでですか?」

 「知らねえよ」と男は顔をしかめる。「だから、今からそれを調べるんだよ」

 「なんでですか?」この「なんでですか?」は、あなたはなぜ、そこまであの二人組のことが気になるのですか、という意味だった。

 「怪しいだろ」

 男は真顔で言った。僕からすればあなたも怪しいのですよ、とは言わなかった。

 「だからな、さっきあの角刈りに聞いてきたんだ。なんで三時間もいるんだってな」

 「え、話しかけたんですか? あの頭の人に?」

 「頭で人を判断するなよ」

 「あの人、なんて言ってたんですか?」

 「なんだか、『おまえなのか?』と言われて睨まれた。失礼な奴だよな。よく分からないから、違うと言ったら、『帰れ』って」

 「じゃあ帰りましょうよ。怖いですし」

 「無理」男は片手を振った。

 「なんでですか。あの人たち怖いじゃないですか。よく分かんないし、関わりたくないですよ」

 「アーモンドを食べるには、殻を割らないといけないんだよ」

 「なんですかそれ?」

 男はふうと息をつくと、少し黙り、「なにかを始めるには、なにかを始めないといけないってことだ」と言った。よく分からなかったが、「そうですか」と納得してみせた。

 「サラリーマンの方も聞いてきたんだよ」

 「どうでした?」

 「話しかけたら俺をこう、下から上まで見たんだ」靴を指差した手を頭の方まで持っていった。「で、『お金はあるんですか?』と俺に尋ねた」

 「お金?」

 「意味がわからないだろ。金はないと言ったら、無視された」

 「やっぱり怪しまれてるんですよ、お兄さん」

 「俺は怪しくないだろ。あと、俺の名前は日比野ひびのだ」

 はあそうですか、と僕はまた、ため息をついた。「で、どうするんですか? これ以上ヒント、ないですよ」

 「まあそうだな」

 男──日比野さんが考え込むように腕を組むと、背後から「なあ」と荒っぽく声をかけられた。振り返ると、赤色の髪を短く切った若い男が立っていた。派手な柄シャツを身に纏っている。その後ろには黒髪の男がいて、こちらは無言で、怪訝な顔で僕たちを見つめている。

 「なんだ、若者」と日比野さんはおじさんのような言い回しをした。「何か用か?」

 「おまえら、違うんだよな?」赤色の髪の若者は、怒ったような声色で日比野さんを問い詰める。「何時間も居座って、おまえら何者だよ?」

 「さっき名乗ったばかりだ。一日に二回も名乗りたくない」

 「知らねえわ。とにかく、違うなら帰れよ」若者は腕を大きく振った。「邪魔なんだよ、何者か分かんねえけどよ」

 「なんでおまえの指図で帰らなきゃいけないんだ」

 「だから、邪魔なんだって」

 「何がだよ」

 「おまえらが」

 「俺は、他人に指図されるのが嫌いなんだ」

 「知らねえわ。帰れって言ってんだろ、おっさん」

 「誰がおっさんだ。俺はまだ二十五だぞ」

 この若者は先ほどから「帰れ」しか言わない。貧相なボキャブラリーだな、と僕は哀れに思う。後ろに立っている男はこの若者の配下なのだろうか。ずっと無言で僕と日比野さんを見ている。何故だろうと考えて、辺りを見渡した。

 「あっ」

 僕は唐突に閃いた。

 「日比野さん、帰りましょう」

 「はあ? 帰るのか? なんでだよ?」

 「アーモンドを食べるんです」

 意味がわからない、と不満げな顔をした日比野さんの腕を掴み、赤髪の男に頭を下げ、足早に店を出た。店を出る最中、日比野さんはずっと「アーモンドってなんだよ」だとか「俺はおっさんじゃない」だとか喚いていたが、僕は無視して進んだ。

 「おい、どこまで行くんだよ」

 「あそこの歩道橋の上まで行きましょう」僕は店から五メートルほど離れたところにある歩道橋を指差した。「分かったんですよ。あの二人組が、なんであの店にいたのか」

 「なんだと」

 歩道橋を登り切り、僕は自分の推理を日比野さんに話すことにした。

 「あの角刈り男とサラリーマンは、あの店で取引をしているんです」

 「取引」日比野さんはその言葉を自分の脳みそにダウンロードするかのように頷いた。「それで?」

 「あのサラリーマンは、いわゆるブツの売人で、角刈り男はそのブツを買いに来た客です。あの店で約束をしていたんですよ」

 日比野さんは頷いた。「つまり、あの二人は危ない奴らだったということだな」

 危ない取引かどうかは断定できないが、角刈り男を見た感じ、そうなのだろう。僕は続けた。

 「でもサラリーマンは、客の顔を知らなかったんです。だから三時間もあの店に居座って、僕か、日比野さんか、あの角刈り男のどいつが自分の客なのか、様子を伺っていたんですよ」

 「そういうことか」日比野さんは指を鳴らした。「あの角刈り男も同じってことだな。売人の顔を知らなかったから、安易に行動できなかったというわけだ」

 「そうです」僕は頷いた。

 「なるほどな、納得だ」日比野さんは嬉しそうに言った。「まるで名探偵だな」

 「まあ、憶測ですけど」

 「俺の友達に、シャーロック・ホームズがいるんだけど、それ以上かもな、おまえは」

 言っている意味がわからず、僕がぽかんとしていると、日比野さんは急に真剣な顔つきになって「でも、なんでわかったんだ?」と尋ねてきた。

 「それは、あの赤い髪の毛の人です。あの人は事情を知ってるみたいだったので、どっちかの部下か何かなんだと思います。頑なに僕らを帰らせたがっていたので、なにかが行われるってことは分かりました」

 「まあ、あれは怪しかったよな」日比野さんはうんうんと頷いた。

 「それで、僕たち一般人が邪魔になることとなると、やっぱりこう、非合法的な」「取引とかだな」「そうです。それで分かりました」

 日比野さんは、なるほどな、と頷いた。

 「あと、その人の後ろにもう一人いましたよね」

 「ああ、ずっと黙ってた奴か」日比野さんは顎を引く。「あいつが何なんだ?」

 「あの人、多分、警察の人なんだと思います」僕は、店のそばに停められている黒いワゴン車を指差した。「あの車、警察車両です」

 「そうなのか?」

 「多分ですよ」

 刑事ドラマで見たことがある車に似ていたからそう言っただけなので、多分、という部分を強調した。日比野さんは歩道橋から身を乗り出して、黒いワゴンを眺めた。「そうは見えないけどな」とぼやくのが聞こえ、「そう見えないようにやっているんですよ」と僕は小さく言った。日比野さんは振り向いて、「生意気な奴だ」とむっとして言った。


 ♫


 次の日、レンタルCDショップには立ち入り禁止のテープが貼られていて入ることができなかった。何やら騒がしい声が聞こえて視線をやると、日比野さんが警察官に向かって何かを吠えていた。耳を傾けると、「借りたCDを今日中に返さないと、延滞料金がかかるんだよ」と聞こえた。聞き間違いかと思ったが、日比野さんなら言いそうだな、と納得した。

 視線を店の方に戻すと、こちらに気付いたのか、日比野さんが腕を大きく振って名前を呼んでいた。気付かないフリをする、という考えも一瞬よぎったが、同時に、目を逸らし続けていた現実のことを思い出した。アーモンドを食べるためには、殻を割らなければならない。あの人といれば、僕は殻を割れるような気がした。僕は右手を小さく上げた。

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