見たかった景色

仰波進

短編小説



人工重力のゆらぎで、通路の床がかすかに鳴った。

第9居住環の外縁。

防護窓は、木星の反射光でゆっくり白く染まっている。


年老いた整備士・ロウは、

緊急用リザーバーの“水”カートリッジを1本、

そっと胸ポケットから取り出した。


微小隕石群とのニアミスで、

水生成炉(リフォーマー)が一時停止中。

ステーション全体が、最低限の配給に切り替わっていた。


喉は乾いていた。

飲めば、確かに楽になる。

そして飲んでも責められない。


だがロウは、使用履歴のロックを解除し、

カートリッジをそのまま

隣区画の若い研究員のロッカーへ挿入スロットで登録した。


——自分には、いま、まだ要らない。


それだけだった。


少年の頃、ロウは

“いつか木星の雲海を間近で見る”と決めていた。

それはここに来て叶った。

夢は現実になり、現実はやがて日常になった。


それでも——

この瞬間に、宇宙は確かに“存在し続けている”。


ロウは、通路E-14の防護窓に近づき、

ゆっくりと呼吸した。


氷の粒子が、微細噴出ガスの乱流に乗って

黄金色に反射していた。

光は、だれの所有物でもなかった。


欲望は暮らしを支える。

焦点を合わせる“力”にもなる。


けれどロウは、木星の光を眺めながら

別の種類の静けさを知っていった。


何かを手に入れることで語られる時間ではなく——

“いま、すでに在る”

というだけで世界が充分である時間。


その研究員は翌朝、

自分のロッカーに、配給上限を超えた1本を見て

首をかしげ、

誰の名も書かれていないそれを、

そっと大切に扱った。


ロウは誰にも言わなかった。

そして、誰にも証明しなかった。


通路にふわりと人工風が流れ、

彼は少しだけ肩の力を抜いた。


宇宙空間は真空だ。

だがその向こうの黒には、

何かが“欠けている”という感触はなかった。


ただ、宇宙は広い。

それだけだった。

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見たかった景色 仰波進 @aobasin

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