第2話
私が謎の「泥」を仕込んでから、一夜が明けた。
村人たちは私を「頭のおかしくなった貴族崩れ」として扱い、遠巻きに避けている。
好都合だ。
仕込みに集中できる。
(味噌(もどき)は寝かせた)
(次は、醤油(もどき)だ)
(大豆もどきと、麦もどき。昨日採取した残りがある)
私は再び竈に火を入れた。
麦もどきを香ばしく炒る。
それを潰し、蒸した大豆もどきと混ぜる。
昨日と同じように、わらから採取した麹菌の素を振りかけた。
(醤油麹よ、育て…!)
前世の知識をフル回転させる。
温度管理が重要だ。
でも、この村には温度計なんてない。
すべては私の手の感覚と、研究者としてのカンが頼りだ。
「……何をしてるんだ」
昨日とは違う村の若者が、訝しげに声をかけてきた。
「食べ物を作っています」
「食べ物? あんな臭い豆や麦をこねくり回してか」
「臭くなくなります。美味しくなりますから」
「嘘をつくな。どうせ毒でも作ってるんだろう」
若者は私を睨みつける。
(ああ、うるさいな)
(仕込みに集中できない)
(美味しいご飯のためなんだから、邪魔しないでほしい)
私は彼らを無視して作業を続けた。
醤油麹を仕込み、塩水と混ぜて、これも別の樽に仕込む。
(これも、時間がかかる)
(ああ、早く食べたいのに)
私の胃が、きゅう、と抗議の音を立てた。
もう丸一日以上、何も口にしていない。
村人たちも同じだろう。
彼らの体力も限界に近いはずだ。
その夜だった。
村の空気が、昼間よりも重くなった。
「ゴホッ! ゴホッ!」
「……う、くるしい…」
村のあちこちから、激しい咳の音が聞こえ始めた。
「瘴気が濃くなってきたぞ!」
「ダメだ、息が…!」
村人たちが苦しみだす。
特に、幼い子供の咳がひどい。
「誰か…助けてくれ…」
「聖職者様は、もう来ない…」
「我々は見捨てられたんだ…」
絶望的な声が響く。
(……うるさい)
私は醤油麹の温度を確かめながら、眉をひそめた。
(菌が死んでしまう)
(こんな騒がしいと、発酵に集中できないじゃないか)
とはいえ、あの子供の咳は、聞いているこちらも苦しくなる。
(しょうがないな)
(これで少し静かになるなら…)
私は昨日仕込んだ味噌(もどき)の樽に向かった。
蓋を少し開ける。
まだ発酵は始まったばかりだ。
とても食べられたものではない。
でも。
樽の表面に、わずかに黒っぽい液体が染み出ている。
(これは…「たまり」だ)
(味噌の旨味エキスが凝縮したもの)
(醤油の原型とも言える)
私は指先にその液体を少しつけて、ペロリと舐めた。
(……!)
(しょっぱい! でも、奥に旨味の素がある!)
(これなら…!)
私は小さな器を探し出し、貴重な「たまり」を数滴、すくい取った。
(ああ、もったいない)
(これは完成したら、最高の調味料になるのに)
私がそれを持って、咳き込む子供の元へ向かうと、母親らしき女性が叫んだ。
「な、何をするんだい!」
「その黒い水は!?」
村人たちが一斉に私に注目する。
「ま、待て! その得体の知れない黒い水を飲ませる気か!」
昨日私を疑っていた若者が、道を塞ぐように立った。
「毒殺する気だ!」
「やっぱり、こいつは俺たちを殺しに来たんだ!」
村人たちの目が、憎悪に変わる。
(あー、もう、面倒くさい)
私はため息をついた。
「違います。これは、飲めます。たぶん」
「たぶん、だと!?」
「いいから、どいてください。これが効けば、静かになるでしょう」
私は若者を押しのけた。
「やめておくれ!」
母親が泣き叫ぶ。
私は構わず、咳で苦しむ子供の口をこじ開け、器の「たまり」を流し込んだ。
「あ……」
子供の動きが、ピタリと止まった。
「……っ!」
母親が息を呑む。
村人たちも、固唾を飲んで見守っている。
数秒の沈黙。
「……すー……すー……」
子供の喉から、穏やかな寝息が聞こえ始めた。
さっきまでの激しい咳が、嘘のように止まっている。
瘴気で土気色だった顔に、急速に血の気が戻っていくのが分かった。
「え……?」
母親が、恐る恐る子供の額に触れる。
「あたたかい…? 体が、あたたかいよ?」
「息が、できる…?」
子供が、ぱちりと目を開けた。
「あれ…? おかあさん…? くるしくないよ?」
「「「な……っ!?」」」
村人たちが、全員、目を剥いた。
「う、嘘だろ!?」
「さっきまで、あんなに苦しそうだったのに!」
「瘴気の発作が、止まった…だと?」
「あの黒い水は…いったい…」
村長のエドガーが、震える足で私に近づいてきた。
「アリア様…」
その目は、驚愕と、何か別のもの…畏敬の念に揺れていた。
「今のは…? 聖属性魔法…ですかな?」
「聖属性?」
(魔法なんて使えない。私は魔力なしだ)
「しかし、瘴気の苦しみを一瞬で癒すとは…」
エドガーは、私が持っていた器の残り香を嗅いだ。
「こ、これは…浄化の力…?」
「違います。これは『たまり』です」
「たまり…?」
「はい。食べ物です」
「こ、これが…食べ物…?」
エドガーは混乱している。
村人たちも「たべもの…?」「あの黒い水が…?」とざわついている。
私は内心、ガッカリしていた。
(ああ、貴重な数滴が)
(でも、まあいいか)
(これで静かに作業ができる)
私は再び、醤油麹の様子を見に戻った。
「あ、あの! アリア様!」
若者が慌てて私を呼び止める。
さっきまで「毒殺だ」と騒いでいた男だ。
「な、何でもありません! どうぞ、お続けください!」
彼は深々と頭を下げた。
他の村人たちも、私に向かって一斉に頭を下げる。
道が、モーゼの海割りのように開いていく。
(よく分からないけど、作業はしやすくなったな)
私は竈の前に戻り、火の番を再開した。
(菌よ、育て。美味しくなーれ)
私の頭の中は、やはり食べ物のことでいっぱいだった。
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