第5話
コウは子供の泣き声がする方へ歩みを進めた。森の茂みに隠れて姿は見えないが、その声は確実に近づいてきている。
コウは相手を驚かせないよう注意しながら、そっと声の主の方へ近寄ろうとした。
その時、泣き声がピタリと止まった。
「ヒカル?」
突然泣き止んだヒカルに陽子は足を止め、背中に目をやった。
ヒカルは無表情のままある一点を見つめている。その視線の先にある木々の間からコウが姿を現した。
「すみません、泣き声が聞こえたものですから」
心配そうに近付くコウを見た陽子は息を呑み、無言のまま足早に森の奥へと歩き出した。
コウは慌てて追いかけ更に声をかける。
「ここから先は危ないですよ」
「いえ、お気遣いなく」
陽子は歩みを止めることなく前を見たまま答えた。
「でもお子さんもいらっしゃいますし、どうしてここへ来られたのか、少しお話聞かせてくれませんか?」
それでも歩みを止めない陽子にどうしたものかと思案したが、陽子に背負われたヒカルがずっとこちらを見ていることに気づく。
「こんにちは」
笑顔で話しかけるがヒカルは無表情のままだった。
「いくつかな?幼稚園くらい?」
「幼稚園には行ってません」
答えたのは陽子だった。
「この子には障害があります。しゃべらないし笑わない。泣くことで不快な気持ちを表現するだけ。とても幼稚園ではやっていけません」
「それは大変ですね。ご家族のご協力はありますか?」
「家族ですか。夫は躾だと言って息子に暴力を振います」
「じゃあご両親は……」
「夫の両親は夫に同調しますし、実の両親も息子の障害を受け入れようとはしません」
陽子は抑揚のない声で、どこか他人事のように話した。
「息子が生きていくには世の中は厳しすぎます。でも息子を殺すわけにはいかない。だからこのまま二人で消えるつもりです」
「そうだったんですね。けど消えるだなんて言わないでください。お子さんのためにもまずはどこかに相談をして、少しでも事態が良くなるように動いた方が――」
陽子はついに足を止め、コウの方に向き直った。
「あなたもですか?」
「え?」
「あなたもいい人になりたいんですか?」
その声は先ほどまでとは違い、どこか怒りを含んでいる。
「相談なんてもう何度もしています。相談すればみんな同情して慰めたり励ましたりしてくれるけど、実際に助けてくれる人は誰もいなかった」
陽子は堰を切ったように話し出した。
「みんなそうやって綺麗事を言うだけで、いい事をした気になって去っていく。こちらの状況は何一つ変わらないのに。私は――もう疲れたんです。夫や夫の両親にも、自分の両親にも、いい人たちにも……」
陽子は声を詰まらせた。
「これ以上傷つきたくない。だからこの子と一緒に静かに消えます」
再び小雨が降り出し、陽子とヒカルを濡らしていく。
ヒカルは落ちてくる雨粒をつかもうと、空に向かって小さな手を伸ばしていた。
「すみません」
黙って話を聞いていたコウは静かに謝った。
「今の僕には、あなたに何かしてあげる事ができません。ただ――」
コウは一呼吸置いて続けた。
「無責任を承知でいいます。できればこの森ではない場所で、お子さんと二人で幸せになってほしいです」
「本当に無責任ですね」
コウの言葉に陽子は乾いた笑いを漏らす。
「はい、無責任です。ただこの森はあなたが思っているよりずっと寂しいところです。ここにいても安らぎは得られない」
「私は別に……」
「お気持ちはわかります。確かにここに居れば傷つくことはないかもしれません。でもお子さんはそれでいいでしょうか。……さっき、これ以上傷つきたくないと言ったのは、あなた自身ではなくお子さんのことではないですか?」
陽子は答えなかった。
「周りの目や旦那さんの暴力から、お子さんを守りたかったんですよね」
コウは気づいていた。
コウが声をかけた時、陽子は背負ったヒカルがコウの方に向かないよう咄嗟に体勢を変えた。
それは我が子を守ろうとする気持ちの表れだった。
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