第一章 転落

1話-日常に非ず

『世界は虚に包まれている。

 だが、その虚を支えるものこそ人の意思である。

 それゆえ、この世界は――空虚に非ず。』


 ページの端が擦れて、わずかに黄ばんでいた古書の匂いがバスの中に混ざり、

 遠野朔とおの さくは、文字の上をぼんやりと目でなぞる。

 誰かが昔書いた哲学書――その冒頭だけを何度も読んで、

 意味も掴めぬまま、ただ心地よく繰り返していた。


 窓の外には、闇夜を照らす街の明かりが流れていく。

 光が眠気といっしょに滲み、朔の意識もゆっくりと沈んでいった。


 ふと、車体がわずかに揺れた。

 朔は顔を上げ、何気なく前方の道路を見た。

 その瞬間――

 トラックのヘッドライトが真正面から迫ってくる。


 ……朔は、呼吸の音で目を覚ました。

 肺に冷たい空気が流れ込む。

 赤く染まった視界の向こう、倒れた車体の中で、誰かの声が聞こえた。


「…やぁ、生きてる?」


 焼けた鉄の匂いの中、

 その声だけが、ひどく静かで、人間らしかった


 朔はまぶたを擦り、ゆっくり視界を整える。

 焼けた匂い、冷たい空気、倒れた車体の残骸、周りから聞こえてくる悲鳴。

 遠くからは、消防車と救急車のサイレンが鳴り響いている。

 周りの状況を整理し、先ほどの声の方を向くと、

 見下ろすように立っていたのは、深くフードを被った子供だった。

 子供が何故ここにいるのか、朔は考えを巡らせた。

 事故現場に、子供――それだけで違和感があった。


 フードの影から覗く瞳は、夜の闇をそのまま閉じ込めたような黒。

 だが、その奥に微かに白い光が揺れているのを朔は見た。

「…君、誰だ」

 問いかけると、子供は口角をゆっくりと上げた。

「妖異だよ、でも君達は悪魔とも呼ぶね」

 その声は、年齢に似つかわしくないほど落ち着いていた。

 妖異――そんなものが実際に存在するのかと思ったが、論より証拠だ。

 目の前にいるのなら、本当に妖異というものはいるのだろう。


「…まぁそんなことは、どうでも良いとして君に質問。君は生きたい?」

 朔は息を呑んだ。

「……生きたい?」

 自分の口の中で、その言葉を転がしてみる。

 意味を確かめるように、静かに。

 生きたいのか――と問われれば、答えは分からない。

 思えば今まで退屈な人生で、いつ死んでも良いと思いながら生きて来た。

 だが、いざ問われると迷ってしまう、

 それはまだ心の奥底で生きたいと、願っているからなのかもしれない。


 数分の時が過ぎた。

「そろそろ答えを聞かせてくれない?」

 朔は、ゆっくりと息を吐いた。

 喉の奥に残る焦げた匂いが、まだ現実を引きずっているようで気持ち悪い。

「死んでもいいと思ってた。でも――今は、生きたい」

 ようやく出た言葉は、掠れていた。

 フードの子供はその言葉に、わずかに目を細めた。

「よし、なら助けてあげよう。ただし衣食住は用意してね」

 その言葉を皮切りに朔は意識を失った。




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