第52話 ー カレンの心配


私がA級冒険者として駆けていたころ――ひとりの青年に出会った。


聡明で思慮深く、物腰はどこか貴族めいている。


ただのD級冒険者にすぎない青年――名をサリウスという――を、私は偶然ダンジョンで救い上げた。


彼は深く一礼し、上品な言葉で礼を述べると、自然な仕草で私の手の甲へ口づけた。


吸い込まれそうな瞳。


わずかに頼りなげな眉。


なのに拙い冗談を口にする時だけ、どういうわけか胸を張る。


生まれて初めて、異性を「可愛い」と思った。


それからは、気づけば私の方が世話を焼いていた。


剣の構え、踏み替え、間合いの詰め方。


ダンジョンの歩き方、戻り方、休み方。


教えるたび、彼は素直に呑み込み、照れ笑いを浮かべる。


帰路、〈ルーベントの門〉で夕陽を細めて見返す横顔を見た瞬間――


心臓が強く跳ね、頬が熱を帯びた。


瞳がわずかに開き、その光景を一枚の絵のように脳裏へ焼き付ける。


あぁ、恋に落ちる、とはこのことか。



ーー《ルーベントダンジョン 第13層》


瘴気のたゆたう〈蟲の道〉を、私はひとりで進む。


壁を震わせる羽音。キラービーだ。


「……面倒ですね。」


群れるキラービーは針に猛毒を宿す。


一刻も早く深層へ向かいたい。


私は振り切ると決め、曲折する通路を駆けた。


追いすがる翅のざわめきが遠のき、また近づく。


その時――前方から小さな話し声が漏れてきた。


「っ」


この先にパーティーがいる。


槍を携えた青年、剣を握る女の子、身の丈ほどの杖を抱く魔術師の少女。


あまりにも歳が若い。


どうして中層に――そう思った次の瞬間、私は息を呑む。


私の“娘”と大差ない年頃の子たちに、魔物を押しつけるような真似が、できるはずもない。


背で風が逆立つ。群れが迫る気配。


「あぁ、巻き込んでしまいます。」


私はそう呟いた。



フジタカ君――槍を立てたその青年が、まっすぐに言った。


「一緒に行くか?」


本来なら即答で断るべきだった。


私は急いでいる。


竜を狩りに行かねばならない。


見知らぬ子どもたちの面倒を見ている暇など、ないはずだった。


――それなのに、気づけば私は頷いていた。


理由はひとつ。心配だったのだ。


中層は、熟練でも一つのミスであっけなく命が途切れる場所。


そんな場所に、経験の浅い若者たちを置き去りにはできない。


それは彼らが“死ぬ”という選択肢を、黙って肯うのと同じだったから。


娘を持つ母として、それだけは容認できなかった。



心配は、たやすく現実になった。


私たちの前に、アシッド・センティピードが身をくねらせて立ちはだかる。


中層でも屈指の強敵。


本来なら熟練のC級小隊で挑む相手だ。


横目に彼らの動きを測る。


実力は――ようやくC級の敷居に触れたかどうか。


この怪物には、まだ早い。


それでも私は胸の奥で小さく息を吐いた。


あぁ、よかった。私が、ここにいる。


十五年前までA級として名を連ねていた私なら、ひと捻りで終わるはずの獲物。


――そう“思っていた”。



センティピードが体節を押し付けるように暴れ、通路が鳴動する。


急がないと、子たちが呑まれる。


「……っ」


踏み出した瞬間、現実が冷たく突き刺さる。


身体が、十五年前のようには前へ出ない。


かつて一刀で断てたはずの甲殻が、重い。


間合いが、遠い。


「ッ!?」


百脚の一本が私の足首をさらい、体勢が崩れる。


視界が傾き、剣と盾の間に隙が生まれた。


まずい――


その刹那、意外なことが起こる。


狙いは私だとばかり思っていた巨体が、唐突に進路を変え、フジタカ君へ牙を向けたのだ。


私と彼の間に、叩きつけられた身節が「壁」となって落ちる。


視界が断たれ、酸の匂いが濃くなる。


「シシャアァァッ!」


双顎が静かに開く。


石が焼ける、チリ……という音だけがやけに大きく響いた。


「ははっ、これは不味いな。」


肉の壁越しに、彼の乾いた声が届く。


――立て、間に合え。


私は歯を噛み、崩れた重心を無理に起こす。


盾の革紐を引き絞る。


あの子が死ぬ。そんな未来だけは、許せない。


次の瞬間、空気が裂けた。


「ーー《ディラトン》ッ!!」


鋼槍が風よりも速く走り、分厚い甲殻を穿つ。


衝撃が通路を抜け、身節に亀裂が奔った。


私はそこへ迷いなく踏み込み、盾の面で亀裂を叩き割る。


「……はぁ、はぁ。」


崩れ落ちる巨体。


背後で若い歓声が弾けるのを聞きながら、私は喉の奥で笑った。


――見くびっていたのは、どうやら私の方だ。


彼らは、思っていたよりずっと立派だ。




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