エピローグ 名を押すのではなく、名乗るだけ
三ヶ月後。
新しい会社のフロアは、観葉植物が増えて、少しだけ“生活感”が出てきていた。
ホワイトボードの端っこには、ことねの字でこう書いてある。
〈名乗りボタン・社内稼働率 92%〉
その下に、ゆいの落書きで
[ポン]→[カチ]に進化したスタンプのキャラ。
紗良がコーヒー片手に近づいてくる。
「……92%。なかなかですね」
「残り8%は?」
ことねが端末を見ながら答える。
「対外契約で、相手が“ハンコください”って言うところ。紙+ポンはまだ残してあります」
ゆいがくるっと椅子で回る。
「でも“紙だけ”で終わってる案件は、もうゼロです。全部、名乗りログ併用になってる」
俺――白石は、ホワイトボードを見ながら頷いた。
「ポンを全部消すんじゃなくて、“誰のポンか分かるようにする”ところまでは来たな」
そこに、インターホンが鳴った。
〈来客 旧〇〇株式会社 契約課 判谷さま〉
三人が一斉にこちらを見る。
「来た」
⸻
打合せスペースに出ると、
判谷 朱丸(通称)は、以前より少し明るい色のスーツを着て立っていた。
胸ポケットには、あいかわらず細い朱色のペン。
ただし、印鑑ケースは持っていない。
「遠いところ、ようこそ」
「呼ばれたのだ。我は来る」
軽く笑いが起きる。
この口調にも、もう誰も本気でツッコまなくなってきた。
テーブルに座ってもらい、
ゆいがタブレットをくるっと回す。
「今日の打合せログ、残しておきます。……判谷さん、今日はどっちの名前で名乗ります?」
画面の上には、もうお馴染みの表示。
[ゲスト: 判谷 朱丸(法名:半谷 修)]
判谷は、それを見て少しだけ笑った。
「社外だからな。“判谷”でいい。……でも、“半谷”が消えてないのは悪くない」
ことねが茶を置いて、おずおずと聞く。
「通称と、本名。ご家族とか、どうされたんですか?」
「戸籍は“半谷 修”のままだ」
判谷は、胸ポケットにそっと触れた。
「旧姓に戻したというより、“最初から”そこだった、ということだな。親父にも、“やっと思い出したか”と笑われた」
紗良が安堵の息をつく。
「良かったです……」
「会社では?」
俺が聞く。
判谷は肩をすくめる。
「今までどおり、“判谷さん”と呼ばれている。システムと人事が“同一人物”と紐づけてくれたおかげで、どちらで呼ばれても、迷子にならずにすむ。」
胸ポケットから、一枚のカードを取り出す。
昔の名刺——ではない。
新しい、名乗りボタン付きの社内カード。
〈判谷 朱丸/半谷 修〉
両方の名前が、横に並んで印刷されていた。
「紙にしかいない名前、やっと卒業だな」
⸻
ひととおり確認が終わったところで、
ゆいが前から気になっていたことを、そっと口にした。
「……あの、ひとつ聞いてもいいですか」
「なんだ」
「その、“我”って話し方とか……、必殺技みたいな言い回しって、昔からなんですか?」
ことねが「聞いた!」って顔でこちらを見る。
紗良も、ペンを止めてそっと耳を傾ける。
判谷は一瞬、ぽかんとした顔をして——、ふっと笑った。
「昔から、ではないな」
「えっ、そうなんですか」
「事故の前の俺は、もっと普通だったらしい。一人称は僕で、“です・ます”で、ハンコの話をしていたそうだ」
紗良がメモを見ながら頷く。
「新聞記事のコメントも、“半谷さん”の頃は普通の口調でした」
「じゃあ、なんで今みたいに?」
ことねが首をかしげる。
判谷は、少しだけ視線を落とした。
「……記憶が抜けてからだ」
部屋の空気が、ほんの少しだけ静かになる。
「自分でも覚えている。ある日、目を覚ましたら、“半谷 修”の記憶が穴だらけで、代わりに“判谷 朱丸”という名前だけが、鮮やかに残っていた」
胸ポケットを軽く叩く。
「祖母の店の名刺を、ずっと大事にしていたらしい。事故のあと、それを見て——、“ああ、自分は朱丸なんだな”と、勝手に決めた」
ゆいが息をのむ。
「じゃあ、“半谷”だった自分のことは……?」
「ところどころ、霧の中だ。“二人分の自分”が、頭の中で場所取りしている感じが、ずっとあった」
判谷は、わざとらしく肩をすくめてみせる。
「だから“我”と言った。“俺”でも“僕”でもなく、“我”。どっちの自分か分からないときに、便利だろう?」
ことねが小さく「あ……」と漏らす。
「“二人いる”って感覚を、そのまま口調に逃がしてたんですね」
「そういうことだ」
判谷は、自分で自分に苦笑いする。
「本当は怖かっただけだ。“半谷”としての記憶が戻ったら、“判谷”が嘘になる気がしてな。だから、わざと大げさに振る舞って、冗談みたいにした」
紗良が問う。
「今は、怖くないですか?」
「……前ほどではない」
胸ポケットのカードを指で弾く。
「どっちの名前で名乗っても、ログの上では“一人分の俺”として繋がると分かったからな。“二人分の自分”を無理やり演じなくてもいい」
ゆいが笑って言う。
「じゃあ、これからも“我”って言っていいですよ。でも、“二人いる我”じゃなくて、“少し盛る我”くらいで」
「ふっ。では、“やや盛り我”として生きていこう」
部屋に、ささやかな笑いが戻った。
⸻
打合せの本題は、旧会社での運用状況の共有だった。
紗良がノートPCを開き、ダッシュボードを映す。
「社内稟議の名乗りボタン利用率、先月時点で“95%”を超えました」
「残り5%は?」
「旧式の紙フォーマットだけ残っている部署です。逐次変換中で、来月にはゼロになる見込みです」
山内(今日はリモート参加)の小さなウィンドウが端に開いている。
『判谷さんのところだけ、“ポン”併用ですけどね』
判谷が苦笑する。
「対外契約の印を、いきなり全部やめるわけにもいかんからな。相手が不安になる」
「でも、紙に押す前に——」
俺が言葉を継ぐ。
「必ず先に名乗りログを残す。“誰がいつどこで確認したか”を、ハンコより前の順番にした」
ことねが付け足す。
「紙だけ渡されて“誰の印か分からない”書類が、今はもう無くなっています」
ゆいがニコッと笑う。
「“紙が聖域で、人は添え物”だったのが、
“人が主役で、紙はオプション”になりましたね」
判谷は、その言い方に小さく頷いた。
「……ハンコ自体は、まだ“こっち側の文化”として残っている。
だが、それを守るために、誰かの名前を隠す必要はなくなった」
⸻
打合せが終わったあと、
俺たちは少し遠回りをして帰ることにした。
商店街のはずれ。
シャッター商店がいくつか並ぶ中で、
ひとつだけ、古い木の看板が残っている。
〈朱丸印房〉
墨の色は薄れ、看板の角は丸く削れていた。
「ここが……」
ことねが小さく声を漏らす。
紗良が、看板の下にある小さなプレートを指さす。
〈閉店のお知らせ 〇年〇月〉
〈店主 朱丸 より〉
ゆいがスマホで写真を撮り、「位置情報OFF」を確認してからしまった。
少し遅れて、判谷がやってきた。
「案内しておいて、自分が最後に着くとはな」
看板を見上げ、静かに息を吸う。
「ここで、最初のハンコを押した。
“半谷 修”として。」
木枠のガラス戸には、
昔の営業時間の紙がまだテープで貼られている。
判谷は胸ポケットから、
よく使い込まれた古い名刺を取り出した。
〈朱丸印房/半谷 修〉
「事故のあと、ここだけが“昔の自分”だった。
だが、その記憶が丸ごと抜け落ちて……
名前と店のどっちが自分なのか、分からなくなった」
ことねが、そっと口を開く。
「だから、“判谷 朱丸”として生きることで、
全部を守ろうとしてたんですね」
「……そうかもしれん」
判谷は名刺を見つめて、
上の“朱丸”の文字を指でなぞった。
「だが今は、“半谷 修”に戻っても、“朱丸”が消えるわけじゃないと分かった」
紗良が問う。
「どういうことですか?」
「名前がどうあれ、俺が押した印と、書いた字と、決裁したログは、全部“俺のもの”として残る。」
判谷は、新しい社内カードを取り出し、
古い名刺とそっと重ねた。
「だから——もう、どっちかを守るために嘘をつく必要はない」
ゆいが笑って言う。
「“名刺の朱丸は店の名前、判を押す半谷が人の名前”ですね」
「……うまいことを言う」
判谷は、看板に向かって小さく一礼した。
「店は閉まった。だが、“ここで覚えた仕事”は、まだどこかで続いてると思ってくれ」
⸻
帰り道。
駅へ向かう途中、判谷がぽつりと口を開いた。
「最近、一日中ハンコに触らない日が、ときどきある」
「えっ」
ことねが目を丸くする。
「そんな日、あったんですか」
「あった。決裁の多くが“名乗りボタン”経由になったからな」
判谷は指先を見つめる。
「最初は、落ち着かなかった。朱肉の匂いがしない日があると、“今日の自分は本当にここにいたのか?”と不安になった」
紗良が、静かに聞く。
「今は?」
「今は——」
判谷は、胸ポケットから小さなICカードを出した。
そこには、今日の出勤ログ。
朝の入館、昼の会議、さっきの打合せ。
全部がタイムスタンプで残っている。
「“ポン”がなくても、“カチ”が今日の俺を繋いでくれると、さすがに分かってきた」
ゆいが、ポケットからスタンプを取り出す。
「じゃあ、たまにだけ“ポン”で残しません?」
それは、プラスチック製の小さいハンコ。
朱肉いらずの、ポンと押すだけのやつだ。
柄のところには、
小さくこう書いてあった。
〈名乗りました〉
「書類じゃなくて、ノートに押す用です」
ことねが補足する。
「“今日も名乗った”って、自分のために残しておくスタンプ」
判谷は、それを受け取って笑った。
「……悪くない。俺が、これで今日を覚えていてもいいのか?」
「いいです」
俺ははっきり言った。
「それは“誰かをごまかすためのハンコ”じゃないから。“自分はここにいた”って、自分に言うための印だから」
判谷は、手のひらの上でスタンプを転がし、
ゆっくりと胸ポケットにしまった。
「では——今日は帰ったら、“半谷”のノートに一つ押してみよう」
⸻
駅前で別れるとき、
判谷は少しだけ真面目な顔になった。
「白石」
「はい」
「お前たちの“名乗りボタン”は、ハンコを殺したんじゃなく、“名前を隠すためだけのハンコ”を終わらせた。」
「……そうなっていたら、嬉しいです」
「なっている」
ほんの少し、誇らしそうに言う。
「我も、ようやく——、“名前で鎧を着る”のをやめて、“名前を名乗る”側に立てた気がする」
ことねが笑う。
「鎧、脱いだんですね」
「全部は脱げん。だが、今は軽い鎧だ」
判谷は、右手を軽く上げた。
「また会おう。次の稟議のときは、“半谷”として名乗ってみるかもしれん」
「楽しみにしてます」
俺たちは頭を下げる。
人混みに紛れていく背中。
その胸ポケットには、小さなスタンプと、新しいカード。
——名を押すかわりに、名乗るだけ。
それだけで、
誰が何をしたか、ちゃんと残る世界になりつつある。
駅の階段を上がる途中、
ゆいがぽそっと言った。
「ハンコ、小さい頃は“偉い人のもの”ってイメージでしたけど」
「うん」
「今日のは、なんか……、“自分にも押していい”印に見えました」
俺は笑ってうなずく。
「本当は、最初からそうだったのかもしれない。“名前の横に押すもの”じゃなくて、“自分はここにいる”って、静かに残すための道具だったのかも」
ことねが、改札を抜けながら言う。
「じゃあ、私たちは“名乗りボタン”と“名乗りましたスタンプ”で、ちゃんと続きやっていけばいいんですね」
「そういうこと」
紗良が空を見上げる。
夕暮れ前の、薄い青。
もう、どの色もちゃんと“違って見える”。
——名を押さなくても、名乗ればいい。
——名を隠すためじゃなく、名を渡すために。
そんな当たり前のことを、
ようやく“仕組み”として書けた物語だった。
脱ハンコを提案してクビになった俺、 電子承認ボタンでハンコ魔王を倒して会社を救う。ハンコでポンの一撃より、マウスでカチの一回 @pepolon
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