第2話 名乗りボタンと、カチの音


月曜の朝。新しい会社のフロアは、まず音が違った。


旧本社みたいな蛍光灯の唸りも、朱肉の匂いもしない。

聞こえるのは、キーボードのカチカチと、たまに湧く笑い声と、どこかでミル挽いてるコーヒーの音。


ガラス張りの会議室の扉には、マスキングテープでこう書いてある。


業務フロー改善チーム

(紙ハンコからの卒業担当)


俺——白石 湊(しらいし・みなと)は、紙コップを片手にドアをノックした。


「失礼します。今日からお世話になります、白石です」


「どーぞー!」


中から、明るい声が三つ重なる。


中は、六人入ればぎゅうぎゅうの小部屋。

壁一面がホワイトボードで、カラフルなペンと付箋がぎっしり。


その前に、三人の女の子がいた。


 



一人目。

前髪きっちり、襟元もきっちり、首から社員証とちっさい六法全書ぶら下げてる子。


「労務担当の 琴音(ことね) です。ことねでいいです。法定休暇とか、就業規則とか、細かいとこ見る係やってます」


机の上には、条文プリントに付箋が雪崩を起こしかけている。


二人目。

ボブカットに黒縁メガネ、モニターにはガントチャートとタスクボード。


「システム側の調整やってる 紗良(さら) です。“これできる?”って言われたときに、“できます”か“やめたほうがいいです”って返す役」


ノートには「要件」「仕様」「誰が押すか」の文字が並んでいる。


三人目。

ピンクベージュの髪をひとつにまとめて、パーカー姿でタブレットにUIを描いている子。


「UI担当の ゆい です。画面とかボタンとか“押したくなるかどうか”を見る人です」


タブレットには、色違いのボタンが二十個くらい並んでいた。

(そんなにボタン使うのか?)


琴音がホワイトボードの前に立つ。


「では、新メンバー歓迎ミニキックオフです。白石さん、まずは前の会社の“押印事情”を、分かりやすく教えてください」


 




マーカーを渡され、俺は一番上にこう書いた。


【ポン待ち 3.4時間】


「前の会社は、契約書が全部中央押印窓口ってところを通ってました。押す人は一人だけ。判谷 朱丸さんっていう人です」


「108本自分のハンコ持ってる人ですね?」

琴音が即答する。


「……もう噂になってるんですか」


「“全印一致の人”として有名です」


「その人のところに行列ができてて、申請出してからハンコが押されるまでの平均が、だいたい3.4時間でした。長いと半日。その間、その書類には誰も触れない」


俺はシンプルな図を描く。


申請 → (ポン待ち)→ 承認 → 契約。


「この“ポン待ち”の時間をゼロにしたい。そのために、“自分で決裁”ボタンを使いたい、ってのが僕の希望です」


紗良が腕を組む。


「“自分で決裁”……クリックした瞬間、何が起きる想定です?」


「押した人の名前と、時間と、場所(端末)がセットでログに残る。“誰がいつOKしたか”が見えればいいので、ハンコの代わりにそれを使いたい」


琴音がホワイトボードに三行書き足す。

1. 本人が押す

2. 押した人が分かる

3. 見に行かなくても分かる


「この三つが守られれば、紙でも電子でもいい……と」


「はい。ただ、前の会社だと“全員のハンコ”でごまかせてた責任が、ちゃんと“押した人に返ってくる”ようにしたい」


ゆいがタブレットをくるっと回して見せる。


「ボタン名なんですけど、“自分で決裁”の他に“わたしが責任を持つ”っていう案も考えてきました」


画面には、


[ 自分で決裁 ]

[ 私が責任を持つ ]

[ 承認する ]

[ オッケーです ] などのボタンが並ぶ。


「“オッケーです”は軽すぎますね」

紗良。


「“私が責任を持つ”は、ちょっと重いかもしれません」

琴音。


「じゃあ、さっき白石さんが言ったやつにします?」


琴音がマーカーで丸をつける。


ここは “名乗りボタン” です。

押した人の名前・時間・場所が残ります。

ハンコの代わりに。


「“名乗る”っていい言葉ですね。『誰が言ったか分からない決定』をやめるって意味にも取れるので」


「じゃあボタンにマウス乗せたときの説明文も、そのまま使いましょう」

ゆいがカタカタ入力する。


 



午前中は、ひたすら紙フローの分解だった。


ホワイトボードには、旧会社のフローがどんどん分解されていく。


琴音「ここ、課長と部長と中央押印で、ハンコ三つですよね」


白石「はい。誰が“本当に中身を見たか”は、最後まで不明です」


紗良「じゃあ、中身を見る人は一人にして、名乗りボタンを押すのもその人だけにする」


ゆい「“見てない人のハンコ”は、そもそも押させない」


A4用紙に、旧フローと新フローを並べていく。

矢印の本数が、目に見えて減っていく。


「“ハンコ増やしたら安全”って、もう時代じゃないですよね」


琴音がぼそっと言う。


「ハンコ増やしたら、“責任の所在”が分からなくなるだけですから」


「ですね」


 



午後。 最初のテスト申請をやってみることになった。


題材は「椅子を4脚買いたい」。


「こういう小さい申請が一番多いので、ここからやりましょう」

紗良。


画面には簡単なフォームが出ている。


・目的:椅子が壊れたので入れ替え

・金額:2万円以内

・申請者:白石 湊


下には、ボタンが二つ。


[ 名乗って決裁する ]

[ 下書き保存する ]


「“名乗って決裁する”って、ちょっと照れますね……」

俺がつぶやくと、


「照れたら一回読み返すって意味で、ちょうどいいと思います」

琴音が真顔で返してくる。


「名乗りボタン押したあとに、“あれ目的ズレてない?”って気づいても遅いですから。照れは安全装置です」


「じゃあ押します」


Enterキーを押す代わりに、クリックパッドをタップする。


カチ。


小さな音と同時に、画面右側にログが出た。


[決裁] 白石 湊/202X-XX-XX 14:23/端末:会議室B-PC1


「これで、誰が、いつ、どこで決裁したかが残りました。この行を見れば“責任者誰ですか?”って聞かれても困らない」


紗良が頷く。


「このログをそのままPDFで吐き出して、契約書の裏につけてもいいですね」


ゆいが手を挙げる。


「……あの。ボタン押したときの音なんですけど」


「はい」


「“カチ”でいいですか? “ポン”にしません?」


「やめてください」


即答した。


「なんでですか〜。“ポン”にしたら、移行期の人も安心するかなって……」


「トラウマなんで」


「じゃあ、“シュッ”とかどうです?」


「なんで空気砲みたいにするんですか」


そんなやり取りをしながら、

“名乗りボタン”の位置、色、サイズを微調整していく。


・色は目立つけど、毎日見てても疲れない青系

・押す前に、内容がもう一回目に入る位置

・スマホでも押しやすい大きさ


「“押したくなるけど、軽くない”バランスが大事ですね」

ゆい。


「軽く押されては困るけど、押すのに勇気が要りすぎても困るからな」


俺は画面のボタンをしばらく眺めた。


——ポンじゃない。

——ここからは、カチの世界だ。


 



夕方。ひと通りテストが終わったころ。


俺のスマホが震えた。

画面には、旧会社の同期からのメッセージ。


【見て。今日の全印一致】


画像を開く。


会議室。

例の中央押印窓口一式をわざわざ持ち込んで、判谷が立っている。


長机の上に、分厚い契約書。

その右下に、 ドンッ と押された巨大な丸。


朱で塗りつぶされたそれに、

同期が手描きでコメントを添えている。


〈今日も全員“一致したことにされました”〉


俺は思わず笑ってしまった。


隣でゆいが覗き込む。


「なにそれ。……スタンプラリーですか?」


「前の会社の必殺技です」


琴音がのぞく。


「これ、誰が押したか、分かるんですか?」


「分かりますよ。“判谷 朱丸”です」


俺は自分のPCに向き直る。


画面には、さっきテストしたログが並んでいる。


[決裁] 白石 湊/14:23/椅子4脚

[決裁] 誰々/15:10/備品購入


カチと残った名前が、静かに並んでいる。


(ポンで全部混ぜるんじゃなくて、

 一個一個のカチでいい)


旧会社の画像を一度閉じて、同期に一行だけ返した。


そっちはそっちで頑張れ。

こっちは“自分で名乗る世界”を作る


送信ボタンを押すとき、

マウスのクリック音が、ハンコの音よりずっとあっさりしていることに、

少しだけ安心した。


——中央押印窓口から一週間。

 今度は、カチの仕組みで戦う番だ。


(判谷さん、“名乗りボタン”の音、いつか聞かせてやりますよ)


心の中でだけ、そうつぶやいて、

俺は最後のスライドにタイトルを書き足した。


『全印一致じゃなくても、会社は回る』


次の会議で、これを出す予定だ。

今度の相手は、判谷じゃない。

「紙から卒業したい」と自分で言ってきた、この会社の人たちだ。


ポンの世界を抜けたからこそ、

ちゃんと伝えないといけない。


カチ、の意味を。

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