第2話 名乗りボタンと、カチの音
月曜の朝。新しい会社のフロアは、まず音が違った。
旧本社みたいな蛍光灯の唸りも、朱肉の匂いもしない。
聞こえるのは、キーボードのカチカチと、たまに湧く笑い声と、どこかでミル挽いてるコーヒーの音。
ガラス張りの会議室の扉には、マスキングテープでこう書いてある。
業務フロー改善チーム
(紙ハンコからの卒業担当)
俺——白石 湊(しらいし・みなと)は、紙コップを片手にドアをノックした。
「失礼します。今日からお世話になります、白石です」
「どーぞー!」
中から、明るい声が三つ重なる。
中は、六人入ればぎゅうぎゅうの小部屋。
壁一面がホワイトボードで、カラフルなペンと付箋がぎっしり。
その前に、三人の女の子がいた。
◆
一人目。
前髪きっちり、襟元もきっちり、首から社員証とちっさい六法全書ぶら下げてる子。
「労務担当の 琴音(ことね) です。ことねでいいです。法定休暇とか、就業規則とか、細かいとこ見る係やってます」
机の上には、条文プリントに付箋が雪崩を起こしかけている。
二人目。
ボブカットに黒縁メガネ、モニターにはガントチャートとタスクボード。
「システム側の調整やってる 紗良(さら) です。“これできる?”って言われたときに、“できます”か“やめたほうがいいです”って返す役」
ノートには「要件」「仕様」「誰が押すか」の文字が並んでいる。
三人目。
ピンクベージュの髪をひとつにまとめて、パーカー姿でタブレットにUIを描いている子。
「UI担当の ゆい です。画面とかボタンとか“押したくなるかどうか”を見る人です」
タブレットには、色違いのボタンが二十個くらい並んでいた。
(そんなにボタン使うのか?)
琴音がホワイトボードの前に立つ。
「では、新メンバー歓迎ミニキックオフです。白石さん、まずは前の会社の“押印事情”を、分かりやすく教えてください」
◆
マーカーを渡され、俺は一番上にこう書いた。
【ポン待ち 3.4時間】
「前の会社は、契約書が全部中央押印窓口ってところを通ってました。押す人は一人だけ。判谷 朱丸さんっていう人です」
「108本自分のハンコ持ってる人ですね?」
琴音が即答する。
「……もう噂になってるんですか」
「“全印一致の人”として有名です」
「その人のところに行列ができてて、申請出してからハンコが押されるまでの平均が、だいたい3.4時間でした。長いと半日。その間、その書類には誰も触れない」
俺はシンプルな図を描く。
申請 → (ポン待ち)→ 承認 → 契約。
「この“ポン待ち”の時間をゼロにしたい。そのために、“自分で決裁”ボタンを使いたい、ってのが僕の希望です」
紗良が腕を組む。
「“自分で決裁”……クリックした瞬間、何が起きる想定です?」
「押した人の名前と、時間と、場所(端末)がセットでログに残る。“誰がいつOKしたか”が見えればいいので、ハンコの代わりにそれを使いたい」
琴音がホワイトボードに三行書き足す。
1. 本人が押す
2. 押した人が分かる
3. 見に行かなくても分かる
「この三つが守られれば、紙でも電子でもいい……と」
「はい。ただ、前の会社だと“全員のハンコ”でごまかせてた責任が、ちゃんと“押した人に返ってくる”ようにしたい」
ゆいがタブレットをくるっと回して見せる。
「ボタン名なんですけど、“自分で決裁”の他に“わたしが責任を持つ”っていう案も考えてきました」
画面には、
[ 自分で決裁 ]
[ 私が責任を持つ ]
[ 承認する ]
[ オッケーです ] などのボタンが並ぶ。
「“オッケーです”は軽すぎますね」
紗良。
「“私が責任を持つ”は、ちょっと重いかもしれません」
琴音。
「じゃあ、さっき白石さんが言ったやつにします?」
琴音がマーカーで丸をつける。
ここは “名乗りボタン” です。
押した人の名前・時間・場所が残ります。
ハンコの代わりに。
「“名乗る”っていい言葉ですね。『誰が言ったか分からない決定』をやめるって意味にも取れるので」
「じゃあボタンにマウス乗せたときの説明文も、そのまま使いましょう」
ゆいがカタカタ入力する。
◆
午前中は、ひたすら紙フローの分解だった。
ホワイトボードには、旧会社のフローがどんどん分解されていく。
琴音「ここ、課長と部長と中央押印で、ハンコ三つですよね」
白石「はい。誰が“本当に中身を見たか”は、最後まで不明です」
紗良「じゃあ、中身を見る人は一人にして、名乗りボタンを押すのもその人だけにする」
ゆい「“見てない人のハンコ”は、そもそも押させない」
A4用紙に、旧フローと新フローを並べていく。
矢印の本数が、目に見えて減っていく。
「“ハンコ増やしたら安全”って、もう時代じゃないですよね」
琴音がぼそっと言う。
「ハンコ増やしたら、“責任の所在”が分からなくなるだけですから」
「ですね」
◆
午後。 最初のテスト申請をやってみることになった。
題材は「椅子を4脚買いたい」。
「こういう小さい申請が一番多いので、ここからやりましょう」
紗良。
画面には簡単なフォームが出ている。
・目的:椅子が壊れたので入れ替え
・金額:2万円以内
・申請者:白石 湊
下には、ボタンが二つ。
[ 名乗って決裁する ]
[ 下書き保存する ]
「“名乗って決裁する”って、ちょっと照れますね……」
俺がつぶやくと、
「照れたら一回読み返すって意味で、ちょうどいいと思います」
琴音が真顔で返してくる。
「名乗りボタン押したあとに、“あれ目的ズレてない?”って気づいても遅いですから。照れは安全装置です」
「じゃあ押します」
Enterキーを押す代わりに、クリックパッドをタップする。
カチ。
小さな音と同時に、画面右側にログが出た。
[決裁] 白石 湊/202X-XX-XX 14:23/端末:会議室B-PC1
「これで、誰が、いつ、どこで決裁したかが残りました。この行を見れば“責任者誰ですか?”って聞かれても困らない」
紗良が頷く。
「このログをそのままPDFで吐き出して、契約書の裏につけてもいいですね」
ゆいが手を挙げる。
「……あの。ボタン押したときの音なんですけど」
「はい」
「“カチ”でいいですか? “ポン”にしません?」
「やめてください」
即答した。
「なんでですか〜。“ポン”にしたら、移行期の人も安心するかなって……」
「トラウマなんで」
「じゃあ、“シュッ”とかどうです?」
「なんで空気砲みたいにするんですか」
そんなやり取りをしながら、
“名乗りボタン”の位置、色、サイズを微調整していく。
・色は目立つけど、毎日見てても疲れない青系
・押す前に、内容がもう一回目に入る位置
・スマホでも押しやすい大きさ
「“押したくなるけど、軽くない”バランスが大事ですね」
ゆい。
「軽く押されては困るけど、押すのに勇気が要りすぎても困るからな」
俺は画面のボタンをしばらく眺めた。
——ポンじゃない。
——ここからは、カチの世界だ。
◆
夕方。ひと通りテストが終わったころ。
俺のスマホが震えた。
画面には、旧会社の同期からのメッセージ。
【見て。今日の全印一致】
画像を開く。
会議室。
例の中央押印窓口一式をわざわざ持ち込んで、判谷が立っている。
長机の上に、分厚い契約書。
その右下に、 ドンッ と押された巨大な丸。
朱で塗りつぶされたそれに、
同期が手描きでコメントを添えている。
〈今日も全員“一致したことにされました”〉
俺は思わず笑ってしまった。
隣でゆいが覗き込む。
「なにそれ。……スタンプラリーですか?」
「前の会社の必殺技です」
琴音がのぞく。
「これ、誰が押したか、分かるんですか?」
「分かりますよ。“判谷 朱丸”です」
俺は自分のPCに向き直る。
画面には、さっきテストしたログが並んでいる。
[決裁] 白石 湊/14:23/椅子4脚
[決裁] 誰々/15:10/備品購入
カチと残った名前が、静かに並んでいる。
(ポンで全部混ぜるんじゃなくて、
一個一個のカチでいい)
旧会社の画像を一度閉じて、同期に一行だけ返した。
そっちはそっちで頑張れ。
こっちは“自分で名乗る世界”を作る
送信ボタンを押すとき、
マウスのクリック音が、ハンコの音よりずっとあっさりしていることに、
少しだけ安心した。
——中央押印窓口から一週間。
今度は、カチの仕組みで戦う番だ。
(判谷さん、“名乗りボタン”の音、いつか聞かせてやりますよ)
心の中でだけ、そうつぶやいて、
俺は最後のスライドにタイトルを書き足した。
『全印一致じゃなくても、会社は回る』
次の会議で、これを出す予定だ。
今度の相手は、判谷じゃない。
「紙から卒業したい」と自分で言ってきた、この会社の人たちだ。
ポンの世界を抜けたからこそ、
ちゃんと伝えないといけない。
カチ、の意味を。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます