脱ハンコを提案してクビになった俺、 電子承認ボタンでハンコ魔王を倒して会社を救う。ハンコでポンの一撃より、マウスでカチの一回

@pepolon

第1話 中央押印窓口と、全印一致の男

数年前、この会社は一度だけ本気で死にかけた。


契約書のハンコが「ひとつ足りなかった」せいで、

取引先に高額の損害賠償を払う寸前までいったのだ。


課長の印はある。部長の印もある。社長印まで押してある。

でも、あるページの右下、ちいさな「確認印」が空いていた。


「誰の責任だ」「誰が押すはずだった」「押したことにしろ」

そうやって責任のなすりつけ合いを一ヶ月やっている間に、相手は弁護士を立てた。


——「ハンコがバラバラだからだ。押す場所をひとつにまとめろ」


それでできたのが、六階契約課の一角、


「中央押印窓口」 だった。


全ての契約書はここを通る。

ここを通った紙だけが「正式」とみなされる。

ここで押された印だけが「本物」とされる。


その椅子に、自ら座りに行った男がいる。


判谷 朱丸(はんや・すまる)——。


 




午前九時ちょうど。

旧本社ビル六階・契約課フロア。


蛍光灯の白は強すぎるくらいで、

その中にぽっかりと穴が空いたみたいに、重い空気の島がある。


そこが中央押印窓口。


腰の高さのカウンター。

その向こうに、朱肉と印鑑と紙の山。

カウンターのこちら側には、すでに十人ほどの列ができていた。


「次——営業三課〜」


のどがよく通る、妙に芝居がかった声が飛ぶ。


ネイビーのスリーピーススーツに、血みたいな赤いネクタイ。

髪はワックスで固めたオールバック。

なぜか指にはシルバーリングが三つ。

胸元の名札にはでかでかと HAN’YA。


判谷 朱丸。

この会社の「中央押印窓口」その人だ。


カウンターの内側には、小さな祭壇みたいな棚。

そこに、同じ「判谷朱丸」の名前が入った印鑑が——108本。


丸、楕円、角。木、牛角、金属。

フォント違い、サイズ違い、苗字だけ、フルネーム、イニシャル。

全部、自分用。


「……“我の分身たち”、今日も良い艶だ」


小声でそう言って、朱肉のふたをそっと開ける。

鉄と油の匂いをひと嗅ぎして、目を細めた。


「営業三課、前へ」


カウンター越しに差し出された稟議書を、

判谷は両手で受け取る。

紙の端をなぞり、ふっと鼻で笑った。


「小さき紙よ、よくぞここまで辿り着いた」


営業三課の若手が、困ったような笑顔を浮かべる。


「えっと……よろしくお願いします」


「まずは初級魔法——部内回覧(ぶない・かいらん)」


一本目の印鑑をつまむ。

朱肉を軽くトン、と叩き、


ポン。


小さな音と一緒に、きれいな丸が紙の左上に咲く。


「次——中級呪文、『課長決裁』」


二本目。フォント違いの「課長用」印。

紙の右上に ポン。


「上級秘術、『部長連署』——ポンポン」


ずらりと並ぶハンコから、今日の「部長」を選び、二連打。

後ろのほうに並んでいる社員たちの肩が、同期するみたいにピクっと揺れる。


「そして……本日のメインディッシュ」


判谷は、棚のいちばん奥から、

持ち手の長い、異様にごつい一本を取り出した。


柄には、焼き印でこう刻まれている。


【全印一致】


「禁印——『象牙ノ白(ぞうげのしろ)』、抜刀」


朱肉に、ゆっくり、深く浸す。

その動きだけで、列の空気が張りつめる。


営業三課の若手が、ごくりと喉を鳴らした。


「……そんな大げさな」


「黙って見てろ、少年。

 これはただのハンコではない。全ての印を束ねる“聖印”だ」


判谷は指を揃え、狙いを定める。


「必殺——全印一致(ぜんいん・いっち)ッ!」


ドンッ。


紙の右下、枠から少しはみ出すくらいの大きな丸が、

朱色の爆発みたいに刻まれた。


「はい、これで“全会一致”」


くるりとペンを回しながら、さらっと言う。


「会議する前から、会議は終わっている。後は読み上げるだけ。楽だろう?」


営業三課の若手は、引きつった笑顔で稟議書を受け取った。


「ありがとうございます……」


 




列のいちばん後ろで、それを見ている男が一人。


俺——白石 湊(しらいし・みなと)。

同じ契約課所属、契約内容のチェック担当だ。


(……またやってる)


カウンター下、半開きになった引き出しから、分厚いバインダーが見える。


背表紙には、太いマジックでこう書いてある。


【奉納帳】


噂では、こうだ。


・全ての押印履歴が、そこに「奉納」されている。

・誰が、いつ、どの案件に、どの順番で押したか、全部朱線でなぞってある。

・奉納帳の朱線に逆らったハンコは「存在を許されない」。


(事故のあと、「二度と押し漏れを出すな」で作った仕組みが……、あんな人に渡った結果がこれ、か)


俺がため息を飲み込んだところで、

隣の席の先輩・佐野が小声でささやいてきた。


「また“儀式ウォッチ”?」


「いえ、“ポン待ち行列”の長さを数えてました」


「それを観察って言うんだよ」


佐野は目の下のクマを揉みながら、列を一緒に眺める。


「九時〇〇に出した書類が、判谷さんのポン待ちで十一時半。そこから承認フローが動き出す。で、“今日中に契約したいんです”が夕方来て、みんな残業。そりゃ働き方改革なんてできるわけないよな」


「だから今日、その話をするんです」


俺はモニターを指さした。


Excelじゃない。スライドだ。


一枚目には、大きな文字で、


『押すのはハンコから、「自分で決裁」へ』


と書いてある。


佐野が、眉をひそめた。


「……危ない匂いしかしない」


「ハンコ自体を否定するつもりはないですよ。“誰がいつOKしたか”が残ればいいだけで、この会社、絶対“全印一致”までは要らないはずなんで」


「全印一致にケンカ売ると、中央押印窓口に消されるぞ」


「消されたら、新しい会社で作ります」


「軽く言うな……」


佐野は苦笑する。


「でもまあ、今日の改善会議、部長も来るし。言うなら今日しかないかもな」


 



午前十時。契約課・会議室B。


長机の真ん中にプロジェクター。

前方に課長と部長、後ろに数名のメンバーが座っている。


そして、一番奥。

窓際の椅子に、脚を組んでふんぞり返っている男。


判谷 朱丸。


いまどき珍しい三つボタンのジャケット。

胸ポケットからは赤いチーフ。

テーブルの上には、なぜか朱肉と印鑑ケースがきちんと並んでいる。


課長が咳払いをする。


「では、業務効率改善の提案会議を始めます。トップバッター、白石くん」


「はい」


俺は前に出て、リモコンを押す。


——スライド1。


『ポン待ち時間:1日平均 3.4時間』


「今の契約フローだと、申請書が中央押印窓口を通るまでに、平均で3.4時間。長いと半日止まっています。誰も手を出せない“ポン待ち”の時間です」


ざわっ、と小さなざわめき。


別のスライドを出す。

契約フロー図。

申請者 → 課長 → 部長 → 中央押印窓口 → 完了。


中央押印のところだけ、赤い枠で囲んだ。


「ここを、“自分で決裁ボタン”に置き換えます。紙に押すんじゃなくて、画面のボタンを押す。ハンコの代わりに、“押した人の名前・時間・場所”が残るようにします」


次のスライドへ。


画面イメージ。

【 自分で決裁 】 ボタン。

その下に、説明文。


ここは “名乗りボタン” です。

押した人の名前・時間・場所が残ります。

ハンコの代わりに。


「“名乗りボタン”。これを押した人だけが責任者になる。このログを、そのまま監査や取引先への説明にも使えます。“誰が押したか分からない全印一致”ではなく——」


「——異議あり」


窓際の椅子が、ギイッとも言わずに引かれた。


判谷が立ち上がる。


ネクタイをすっと直し、朱肉のふたを軽く叩いてから、ゆっくり前に歩いてくる。

足音は静かなのに、会議室の空気だけがズシリと重くなる。


「“名乗りボタン”か。良い名だ。だが、危うい名だ」


部長が慌てて笑顔を作る。


「判谷くん、今は——」


「少しだけ。ハンの守り人として、話をさせてください」


テーブルの端に朱肉をコト、と置く。

その横に印鑑ケースを開き、108本の印影を一瞬だけ見せびらかす。


「我々はなぜ“中央押印窓口”を作ったのか。それは“誰の責任か分からない紙”で、一度死にかけたからだ」


部屋が静まり返る。


「昔、ハンを押し忘れた。“誰が押すはずだったか”も曖昧なまま、契約が出ていった。それで裁判になりかけた。そのとき、この会社はこう決めた。


 ——『ハンは全て、判谷 朱丸が預かる』と」


(自分で言うんだ……)


「それから今日まで、押し漏れはゼロだ。我が奉納帳には、全ての印の軌跡が朱で刻まれている」


奉納帳の背表紙を軽く撫でる。


「君の“名乗りボタン”は、確かに美しい。だが、電子の海に漂う名は、いくらでも書き換えられる。深海には魔王がいる。ログという名の海溝で、名を食うのだ」


「ログは改ざんできないようにします」


俺は即答する。


「押した瞬間の名前・時間・端末情報をセットで記録して、本人側にも控えを残す。奉納帳に近いことを、電子でやるだけです」


「“近いこと”など要らない」


判谷の目が、すっと細くなる。


「紙の丸は、そこに“在った”痕跡だ。燃えれば灰。破れば破片。だが電子の丸は、コピーされ、輸出され、どこかの魔王の胃袋に入る」


「さっきから魔王魔王言ってますけど、何の話してるんですか」


会議室の隅から、誰かがぼそっとつぶやいた。

多分、佐野だ。


判谷は気にしない。


「君は、“名乗った者だけが刺される世界”が好きか?」


「……?」


「名乗りボタンは、一人だけに刃を向ける。全印一致は、全員で刃を持つ。だから優しい。だから、守ってきた」


(優しい……?)


俺はスライドの「自分で決裁」の文字を見てから、判谷の奉納帳を見た。


言葉を選ばずに言えば、「誰が何をしたか分からなくする優しさ」だ。


だからこそ、事故の真犯人も決められなかったのでは、と思う。


「……全員で持つって言いますけど」


俺ははっきりと言った。


「実際には“誰も刺されない”だけですよね。“誰が押したか分からないから、誰も責任を取らない”っていう」


空気が、もう一段重くなる。


部長が「まあまあ」と手を上げる。が、止まらない。


「だったら、“押した本人の名前が残る”ほうがまだマシです。“全印一致”で守られているのは、誰ですか?」


判谷は、じっと俺を見る。


目は笑っていない。口元だけが笑っている判谷は、じっと俺を見た。

目は笑っていない。口元だけが笑っている。


「……君、“一人で名乗る”覚悟はあるのか?」


「覚悟ってほどのものでもないと思いますけど。自分の押したものに、自分の名前が付くだけです」


「フッ。甘いな」


判谷はわざとらしく鼻で笑い、朱肉のふたを指先でくるりと回した。


「契約とは、本来“孤立した名乗り”ではない。多くの印が重なり、責任を薄め合うための儀式だ。その究極が——全印一致」


「責任を薄め合うって、自分で言いましたね」


会議室の端で、誰かが小さくむせた。

佐野だ。たぶん。


判谷は肩をすくめる。


「刃を一人で受ける勇者など、現実には長く生きられん。だから我は、印を束ねて矢面をぼかす魔法陣を敷いてきた。君の“名乗りボタン”は、その魔法陣を壊す」


「“矢面をぼかす”のをやめたいから、ボタンにしたいんです」


彼は印鑑ケースをパタンと閉じた。


「中央押印窓口として、反対だ。この会社は、ハンを重ねてきた会社だ。紙から始まった会社は、紙で守る」


課長が曖昧な笑顔で俺を見る。


「……と、いう意見もある、ということで。白石くんの案はいったん資料として預かって——」


「預からなくて結構です」


俺は言った。


案外すっきりした声で。


「ここでは、マウスの音は鳴らせないみたいなので」


部長が目を丸くする。


「白石くん?」


「“名乗りボタン”は、この会社では魔王扱いらしいので。だったら——他で押してもらいます」


 




その日の夕方。

俺は課長と人事に呼ばれ、例の「希望退職案内」の封筒を渡された。


中身を見て、条件は悪くないと判断した。

この会社に未練がないことも、その瞬間よく分かった。


(ハンコでポンを待って一生終わる人生よりは、マシだ)


帰りのエレベーター。

六階のランプが遠ざかる。

中央押印窓口のほうから、微かに「全印一致ーっ!」という叫びと、

ポンという音が聞こえた気がした。


ビルの外に出ると、風が思ったよりあたたかい。


スマホを取り出して、

「ワークフロー 電子承認」「業務改善チーム」「SaaS」とかで、手当たり次第に求人を検索する。


そこに、一件。


【業務フロー改善チーム/メンバー募集】

「紙のハンコ文化から、“自分で決裁”の仕組みへ移行したい方歓迎」


(……いるじゃん、同じこと考えてるやつ)


俺は迷わず「応募」ボタンをタップした。

画面の中で、小さなカチという音が聞こえた気がした。


——ポンの外に出た。

次は、このカチを、ちゃんと誰かに届ける番だ。

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