短編小説 風が抜ける音だけが残る

仰波進

短編小説

夜の病室。


点滴の滴る音は、時計よりも正確に、秒を刻んでいる。


彼は胸の奥が苦しい。


呼吸が深く入らない。


「まだ終わりたくない」


その気持ちは、火の芯みたいに赤かった。


窓から吹いた初夏の風が、カーテンをふわ、と膨らませた。


その一瞬だった。


風が、肌に触れ、


その温度と匂いが、ゆっくり胸をすり抜けた。


そのとき、彼は自分の心が “未来へ掴みつこうとする力” を


ちいさな音もなく、手放したのを感じた。


それは敗北じゃなかった。


何かを諦めたのでもない。


ただ、


掴んでいた指を、そっと離しただけ。


世界はそのまま動いていた。


誰かは退院し、誰かは生まれ、誰かは笑う。


自分が行こうが行くまいが、


空は普通に明るくなり、風は窓をすり抜ける。


「——ああ、世界は、ただ流れてるだけなんだな。」


その理解が、ふっと胸の中に落ちた。


それだけで、


“終わりたくない” が、音もなく、霧のように消えていった。


機械の音はいつも通り響き、


涙は出なかった。


ただ、


まるで “風の通り道” になったみたいに、


彼の心は広かった。


執着は、闘って砕くものじゃなく、


気づいたら、ふっと溶けているものだった。

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短編小説 風が抜ける音だけが残る 仰波進 @aobasin

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