第2話現世
一
向こうの両親は来られないとのことを聞いていたので、両家の顔合わせという形ではなくて私の身内と婚約者を交えて食事するという形になった。場所は祖父母の住んでいる愛知県にある日本料理屋で、こういう時どうするのが普通なのかは知らないが祖父が予約をしてくれた。高いところに微かな明かりが灯る薄暗い階段を登った先、すぐ目の前に色褪せた襖で隔てられた一室があり、そこで懐石料理を食べた。二階は私たちがいる部屋の他にはもう一部屋あるが、予約が入っていないのか廊下は静まり返っている。
一つのお皿に細々と料理がのっていて、それを一つずつ口に運ぶ。笹の葉に包まれた柚子のあんの入った餅がもちもちしていておいしい。意外な美味しさに心の中で感嘆の声を上げた。
祖父は「ついに結婚か」と箸を置き、両手を机の上に乗せながら言った。感慨深いのか、ただ声が大きいだけなのか分からない。祖母はそれに応えるようにふふと八重歯の銀歯を覗かせて笑った。母は雄一くん雄一くんと、くりくりとした目をいつになく見張って、余所行きの笑顔で彼の仕事の話をきいている。
祖父も彼の仕事の話をよく聞いた。彼と祖父は同じ業種に就いていて、祖父は小さいながら自営業を営んでいる。以前も会社の中を彼に案内していた。
食事もほとんど済んだ頃、彼がスマホを片手にちょっと失礼しますと外に出た。
食後のデザートが運ばれてきたが、フルーツを食べ終わっても彼は帰ってこなかった。とりあえずお会計だけ済ましておこうと、私たちは一階に降り、カードを取り出した祖父にお礼を言った。店を出たが、軒先にも彼の姿はなかった。
私たちは祖父母の家に帰宅した。祖父から、母、祖母という順にお風呂に入った。
母は濡れた髪を半ば乾かした状態で、洗面所から戻ってきて、ソファのひじ掛けに体を預けた。冷蔵庫から取り出したヨーグルトを食べながら、テレビを見ている。
兄ももう一つのソファに横になってテレビを見ている。
私も兄の寝転ぶソファの下で横になった。
祖父母はリビングのドアを開けて、おやすみと廊下の暗闇の中に消えていった。
テレビでは母が面白いと話していたドラマが放送されている。コメディ要素のある恋愛ドラマだ。母はテレビの画面に目が釘付けになっている。
私は一本脚のテーブルの太い太い脚を見つめた。天板が天井からの明かりを阻んでいて、陰になっている。暗くて、狭くはない洞窟の壁に向かい合っているようで落ち着いた。明かりの消えた小人の寝室にいるようだとも思った。
突然、兄の唇が私の口元に重なった。一瞬のことだった。いつの間にか私の隣に肘をついて寝っ転がっていた兄は、そうした後、ふいとソファに戻っていった。微かに頬が熱くなる。目に薄い涙の膜がさっとかかる。兄とキスをしたのは初めてだった。
結局、婚約者は戻ってこなかった。祖父は彼が会社の情報を盗んだとひどく怒り、声を荒げた。
二
その日もいつもとなんら変わりのない朝だった。目を覚まし、階下のリビングにいつものように無言で入り、食パンをトースターに入れ、マグカップ注ぎ入れた牛乳を電子レンジで温める。待っている間テレビの前に行き、両手を腰に当て仁王立ちでニュースを見る。
父は隅のスツールに腰掛け食パンを食べていた。
電子レンジの音が鳴ったので台所にちらと目を向けたのだった。そこには、視界の下にはうつ伏せに寝転ぶ母と兄の姿が映った。母と兄はカーペットに肘をついて両の手のひらに顔を乗せ、見つめ合っていた。母の表情だけが見えた。母は恋人に見せるみたいに微笑んでいた。もうどんな表情だったか忘れたが、女の顔になった母を見たのだということは覚えている。
二人の顔の距離は近づいた。くっつくことはなかったが近づいた。
振り返ると、父は目を見開いてぎょっとしていたが、何も言わなかった。
心の中で悲鳴をあげて、そこから駆け出した。振り返りもせず、気持ち悪い気持ち悪いと呪うみたいに呟いた。どこを見ているのか分からないまま、ぼそぼそと呟く私も呪われて動けなくなった粘土細工みたいだったなと、思う。
三
上空に残る青い空も視線の先の白い空も澄んでいて、秋の雲がゆっくりと動いていくのが分かった。後ろを顧みると東の山に薄暗い雲が大群をなしてかかっており、迫ってくるように見えた。
兄に誘われたので手を繋ぎながら飲み屋が数店舗ある隣の町内に行き、人のいない道路を歩いた。兄の手は私より大きくて、私と同じ温度を持っていた。小さい子どもだったらつないだ手をぶらぶらと振り上げては振り下ろすかもしれないが、私たちはもうそれなりの年だったのでそんなことはしない。ただ、空いた右手を兄の腕に添えて私の全身全霊を静かにかけているだけだ。
背後の薄暗い雲から目をそむければ、私たちの眼の前に広がるのは本当に美しい空だけだ。目が乾くほどじっと見上げ、今一緒にいるのが兄でうれしいと思う。
学校からの帰り道、夕焼けが眼の前いっぱいに広がるのを見るたびに、ああ今一緒にこの景色を見たい、一緒に歩きたいと願う人が特別なんだなと思った。そんな時はいつも隣に兄の幻影を見た。そして空に向かって私の手を差し出した。空の色と同じ、パステルカラーに透けている兄に名前を呼びかけた。心の中で二度呼んで、それから沈黙した。隣には誰もいないみじめさに、すぐ美しい景色からは目を背けた。
向こうから自転車が走ってくる。小さい姿だったのが、すぐに顔が分かるくらいまでに近づいた。パート終わりの母だった。
急いで手を解いて、兄の腕をつかみ上に引き上げた。母が口を開く前に、兄が足を怪我したみたいだと咄嗟に言い訳をした。ばればれの嘘だ。もしこれを言ったのが自分ではなかったら散々に罵るくらいひどい嘘で、自分の対応力の無さにうんざりして心の中で泣き出した。母はへえとも、はあともつかないことを言った。
折よく、妹の彼氏が向かいから歩いてきた。手招きして、そばに来た彼氏の耳元に口を寄せて兄が何か言った。私たちと一緒に取り繕ってくれるように頼んだのだろう。でも彼氏は怪訝な顔をして去って行った。私たちも寄るところがあるからと、帰途につく母とは別れた。
あたりが闇になるまで二人で歩いた。駅近くの繁華街。キャバクラの入っているビルに向かう父を見つけた。父に見つからないようそばの古ぼけたアパートに身を寄せた。兄はここに私を待たせたままどこかに何かを探しに行った。
階段下は人目が気になるので、数段登って踊り場に出る。
そこには先客がいた。三十代くらいの女の人がスマホを片手に立っている。膝上のスカートに中学生が履くような黒いタイツ。ちらっと横目で窺っていたら目が合った。微笑んだ顔がかわいかった。女の人は男に振られた後のようにも、今スマホで代わりの男を探しているようにも見えた。
そのとき、駅の方から金属と金属が擦れるような甲高くいやな音が聞えた。ざわざわと人の話す声の波も届きはじめ、事故か何かが起こったのだということが分かった。
考える間もなく、走ってアパートを飛び出し駅のそばを離れた。
体が軽い。地面に足を打ちつける、その感触も軽い。信号のない横断歩道も脇目もふらず駆け抜けた。家に辿り着いてやっと止まったら喉が痛んだ。
翌朝起きてリビングに行くと、両親が口数少なく朝ごはんのパンを食べていた。妹はまだ帰ってきていなかった。これから事故現場に行って確認してくるのだろうか?
赤ずきんと兄 北出たき @kitadetaki
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