コインランドリー・コミュニケーション⑤
「行った方がいい、よね?」
家に帰って風呂に入ってすぐ。少しだけ溜まった洗濯籠を見て、思わずそんなことを呟いてしまう。
正直行きたくない。マジで行きたくない。昼間は怒鳴られなかったが、いざコインランドリーに行ったらリンチなんてことも……あぁ、考えたくない。
「……でもバイト先もバレてるんだよなぁ」
せっかく仕事も覚えてきたのだ。辞めたくはない。まあ、コンビニなんて探せばいくらでもあると言えどもだ。
なんかもう考えれば考えるほど疲れて来た。正直明日提出のレポートだってまだ手を付けてないのに、こんなことで悩んでるなんて馬鹿みたいだ。
彼は別に怒っていないと言っていたし、今はそれを信じるしかない。じゃあなんでコインランドリーで待ってるなんて言ったのかは謎だけど。
「あぁ、もう! よし決めた! サッと行っていなかったら帰る。そうする!」
そんな決意を決めて、勢いよく家を飛び出すこと数歩。僕の決意はどんどんしょぼくれていた。
「やっぱ帰ろうかな……いやいや今日行かないと絶対後がめんどくさいよな……いやでも別にいるとは限らないし……」
そんなことをうだうだと考えつつも歩き続けて数分。目の前に、昨日見たばかりの
「……あぁもう本当に着いちゃったじゃないか!」
頭を抱えてその場にうずくまっても、家に飛んで帰れるわけでもなく。ただ、突然頭抱えてうずくまった不審者が一人街に増えただけだ。他にもいるのかは知らないけども。
田嶋と呼ばれていたあの人が本当にいるとは限らないわけで。ちらっと見ていなかったらすぐに帰ればいい。明日なんか言われたとしても、行ったけどいなかったと言えばオッケー。よし。
「まあ、いるわけな……何でいるかな」
チラッとコインランドリー内を覗くと、金色の頭が見えた。どうやら本か何かを読んでいるらしく、こちらに気が付いている様子はない。
このまま帰ってしまえよ。そんな声が聞こえた気がした。
そうだよね。帰ってもいいか。だって、別に僕はここに用事がないんだもの。じゃあそう言うことで。
そっと足を一歩引いたのと、彼が顔を上げたのは同時だった。
「あっ、ども」
その見た目からは考えられないほど、気軽な挨拶だと思った。だから、僕はきっと油断したんだ。そうじゃないと、僕がしたことに説明がつかないから。
「どうも」
「来てくれないと思ってたっす」
そう言って笑う彼の表情は本当に嬉しそうで、僕は気が付けば彼の近くまで歩み寄っていた。
「約束、してたんで」
「約束?」
彼は一瞬きょとんとした顔をしたかと思うと、すぐに得心したのか嬉しそうに頷いた。
「しましたね、約束。でも、マジで来てくれるとは思わなかったっす」
「まあ、普通はそうですよね」
何が普通は、だ。偉そうなこと言うな馬鹿。そんな一人反省会をする暇もなく、田嶋はこっちこっちと誰も座っていないパイプ椅子を叩く。
なんだかさっきまで怖がってたのが嘘みたいな気がして、僕は彼の言うがままそこに腰掛ける。
ただ、腰掛けたはいいが何を話せばいいんだ。ちらっと視線を田嶋の手元に向けると、彼が先程まで読んでいたであろう文庫本が目に入る。駅前にある書店のカバーが掛けられていたから、それが何の本かは分からない。
「何読んでたんですか?」
「これっすか? 舎人慎一って作家の本っす」
「えっ、舎人慎一ってミステリー作家の?」
「あ、知ってます?」
思わずこくこく頷いてしまう。舎人慎一は僕が中学生の頃にどハマりした小説家で、今も新作が出る度に買っている作家だったりする。でも、知名度はそこまであるわけでもなく、知る人ぞ知る作家といった具合だ。
「この人の本って基本暗いじゃないっすか。でも、描写とか綺麗で読んじゃうんすよね」
「なんか分かります。なんか仄暗い中にも希望があるみたいな」
「そうそうそう! うわー! マジかこれ分かってくれるのめちゃくちゃ嬉しいんすけど!」
そう言う田嶋の目はキラキラと輝いていて、彼が本当に舎人慎一が好きなのだと分かる。
「えっ、他には何読んでるんすか? 舎人作品でも他の作家でも」
「あーまあ色々読みますね。最近だと秋田蘭子とか読んでます」
「秋田蘭子読んでんすか!?」
彼は何度も「マジか!」と興奮気味に繰り返すと、グッと力強く拳を握った。
「うわーガチ嬉しいっす!」
「そ、そんなに?」
「はい!」
そんな元気いっぱいに言われても。
僕がドン引きしている様子に気が付いたのか、彼はどんどん朝黒く焼けた顔を青ざめさせてしまう。
「あっ、すんません……俺の周り、誰も本読んでなくてつい……」
「いやいやそんな気にすることないですよ。好きな作家が一緒だったらそうなる気持ちも分かりますし」
「そっすよね!」
先程までのしょぼくれた顔はどこへやら、彼は再び顔をキラキラと輝かせる。何だか子どもと話してるみたいだ。
「俺、こんな見た目だし、勉強もできねーんすけど、昔から本だけは好きなんすよ。まっ、それ言うとインテリぶんなって言われちまうんっすけど」
そう言って笑う田嶋の表情は明るかったが、彼の口調にはどこか寂しさが滲んでいるみたいだった。
その顔ができるようになるまで、きっと彼は何度も同じことを言われて傷付いて来たのだろう。だから、きっと僕が同じ作家を好きだと言って、テンションが上がってしまったんだ。
僕も同じ失敗をしたことがある。だから、彼の気持ちは痛い程よく分かる。
「それ変じゃない?」
「えっ?」
一瞬、場の空気が凍った気がした。田嶋の顔からみるみる笑顔が消えていく様を見て、僕からも血の気がどんどん引いていくのが分かった。
「あ、えとそのっ変な意味じゃなくて! 本が好きなのって別に変じゃないと言うか個人の自由と言うか……いやまあ僕みたいなヤツに言われても嬉しくないとは思うし、お前何様だよって感じだけど、好きなものは人それぞれなんだから、それにとやかく言うのは違うんじゃないかなーって……」
めちゃくちゃ早口だし、声もどんどん尻すぼみになってしまう。いや本当に何を言ってるんだ僕は。田嶋は怒っているのか、俯いてしまっていてこちらを見てくれそうにない。やばい。こんなことならやっぱり来なければよかった。
「……好きなもんは人それぞれ」
「え?」
ポツリと、呟かれたその言葉は震えていたから、思わず反射的に聞き返してしまった。しかし、彼は何も答えてくれることはなく、ただ、肩をプルプルと震わせている。
これは本気で怒らせてしまったかもしれない。何と言えば彼の怒りを収められるか。指でも詰めれば許してもらえるだろうか。
「……俺」
ズッと鼻をすする音が聞こえた。彼はその筋肉質な腕で乱暴に目元を拭うと、再び勢いよく鼻をすすった。
「んなこと言われたの初めてっす。いいっすよね、こんな俺が本好きでも」
「え? あ、うん。それはもちろん」
突然のことに困惑していると、田嶋は真っ赤にさせた目で僕を見た。えっ、泣いてる?
「すんません。なんか、情緒不安定でやばいっすね。ガチすんません」
「いやいや謝ることじゃないといいますか……あの、ティッシュいります?」
「あざます、いただきます」
僕のじゃないけどと思いながら、机の上に置かれていた箱テッシュを手渡す。彼は何度も僕に礼を言いながら、数枚テッシュを取ると、勢いよく鼻をかんだ。そんなに勢いがいいと色々不安になる。
「情けないとこ見せてお恥ずかしいっす。なんか最近もこの見た目で本好きなこと馬鹿にされて悔しかったんで、そう言ってもらえて何か嬉しくなっちゃいました。マジであざます。えっと……すんません、お兄さんの名前なんて言うんすか?」
「あっ、僕? 僕は木戸って言います。お兄さんは田嶋さんですよね?」
「えっ? なんで知ってんすか?」
「あー……そのっ、今日そう呼ばれてたのでそうかなって。違ったらすみません」
田嶋は一瞬目を丸くさせたが、やがてすぐに照れくさそうに笑った。
「あー昼のあれっすよね。なんか木戸さんには恥ずいとこばっか見せてますね」
「いやいやあれは僕も悪いので……と言うか田嶋さんの方が年上じゃないんですか?」
「えっ? 俺まだ十七っすよ」
「へぇ?」
思わず変な声が出た。体躯がしっかりしていたり、既に働いていたりしたからてっきり年上かと思っていた。まさか二つも下だなんて。
「木戸さんはいくつなんすか?」
「僕は今年十九ですけど……」
「じゃあ木戸さんの方が年上っすね。気軽にタメ口でお願いします」
「いやいやそれはさすがに」
「え?」
じろりと睨まれてしまう。田嶋の切れ長の目があまりに怖くて僕は素直に「分かった」と言って頷いてしまう。割れながら情けない。
「ちなみにさんもいらないっすよ。なんか年上の人にさん付けされんの、嫌なんっすよね」
「そう言うもんなの?」
「俺的には?」
田嶋がそう言って笑った時、洗濯が終わったことを告げるアラームがコインランドリー内に鳴り響いた。
「あっ、もう終わりかぁ」
そう言った彼の声は本当に残念そうで、思わず笑ってしまう。何だか最初に抱いた恐怖心はもうすっかり消え去ってしまっていたから、僕はついそんなことを口走ってしまったんだと思う。
「また話そうか」
「えっいいんすか!?」
洗濯物を取り出すのをそっちのけで、心の底から嬉しそうな顔で田嶋が言った。その様子はなんだか祖母の家で飼っている犬に似ていたから思わず笑ってしまう。
「もちろん。どうせ夜はバイトない時以外暇だし、タイミングが会えばここで話そうよ」
「うわーガチっすか。本好き周りにいなかったんで、めちゃくちゃ嬉しいっす!」
「アハハッ僕も似たようなもんだよ」
僕と田嶋の関係は、そこから始まったんだ。
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