第2話「ゼロからの船出」

 起業から一週間。現実は、想像以上に厳しかった。

「マジで金ないな」

 リドラが、通帳を見ながら呟いた。会社登記、システム開発用のサーバー代、最低限の備品購入で、五十万ニールはあっという間に三十万ニールを切っていた。

「今月中に顧客を獲得できなければ、来月の家賃も払えない」

 ショーンが電卓を叩きながら、淡々と現実を告げる。

「プレッシャーかけんなよ」

「事実を言ってるだけだよ」

 アダムは黙々とコードを書き続けていた。プロトタイプの改良。バグの修正。UI/UXの最適化。やることは山積みだ。

「アダム、進捗は?」

「あと三日。デモができる状態にする」

「三日か……よし、その間に俺がアポを取る。ショーン、この地域の運送会社リストアップしてくれ。売上規模順で」

「もうやってある」

 ショーンがノートパソコンの画面を見せた。そこには、市内の運送会社五十社のリストと、各社の基本情報が整理されていた。

「仕事、早いな」

「時間がないから」

 ショーンの表情は真剣だった。母親から借りた金だ。絶対に無駄にはできない。

「よし、じゃあ上から順に電話かけていく。アダム、三日後には完璧な状態にしろよ」

「……やる」

 その日から、地獄の三日間が始まった。

 アダムは一日十八時間、コードと向き合った。目が霞み、指が震える。それでも、手を止めるわけにはいかなかった。

 リドラは電話をかけ続けた。五十社のうち、話を聞いてくれたのはわずか五社。そのうちアポが取れたのは二社だけ。断られる度に、父親の顔が浮かんだ。『失敗したら二度と顔を見せるな』。

 ショーンは二人のサポートに徹した。食事の手配、スケジュール管理、資金繰りの計算。そして、時折見せる二人の疲弊した表情に、胸が締め付けられた。

「なあ、ショーン」

 二日目の深夜、アダムが珍しく話しかけてきた。

「ん?」

「俺たち、本当にやれるのかな」

 ショーンは手を止めた。アダムが弱音を吐くのは、初めてだった。

「……不安?」

「ああ。技術には自信がある。でも、それで食っていけるかは別だ」

 ショーンは、コーヒーを二つ淹れて、一つをアダムに差し出した。

「僕も不安だよ。毎日、数字とにらめっこしてる。『あと何日持つか』『どこまで削れるか』って」

「掟、覚えてるか?」

「うん。苦しいときは共有しあう、だよね」

「じゃあ、今がそうだ」

 アダムが、初めて自分の不安を口にした。技術が完成しても、売れなければ意味がない。自分は営業ができない。プレゼンも苦手だ。すべてをリドラに任せるしかない。その不甲斐なさ。

 ショーンも、自分の不安を語った。母親への罪悪感。二人を支えきれるか分からない恐怖。失敗したら、すべてが終わる重圧。

「でも、一人じゃないから」

「ああ」

「リドラも、きっと不安なんだと思う」

「……そうかもな」

 二人は、リドラが電話をかけている隣の部屋を見た。今日だけで三十件以上断られている。それでも、彼は諦めない。

「明日、掟の確認しようか」

「ああ。三人で」

 翌朝。三日目の朝食時、ショーンが切り出した。

「ねえ、二人とも。掟のこと、覚えてる?」

「当たり前だろ」

 リドラが、トーストを齧りながら答えた。

「じゃあ、今、苦しいこと、共有しよう。僕から言うね」

 ショーンは、資金繰りの厳しさと、母親への罪悪感を語った。アダムは、技術以外の無力感を。そして、リドラは——。

「……俺は、お前らに迷惑かけてるんじゃないかって思ってる」

 二人が顔を上げた。

「俺が起業しようって言い出した。お前らを巻き込んだ。でも、まだ一社も契約取れてない。このまま失敗したら……」

「リドラ」

 アダムが遮った。

「俺たちは、自分で決めてここにいる。お前のせいじゃない」

「そうだよ。僕たちは、仲間でしょ」

 ショーンが優しく微笑んだ。

 リドラは、一瞬だけ目を伏せた。そして、顔を上げて笑った。

「……サンキュ。よし、じゃあ今日も頑張るぞ。アダム、システムは?」

「今夜には完成する」

「完璧だ。明日、最初のプレゼンだ。絶対に決めてやる」

 三人は再び、拳を合わせた。

 そして、運命の三日目の夜。アダムはついに、システムを完成させた。

「できた……」

 彼は、疲れ果てた体で椅子に倒れ込んだ。

「見せてくれ」

 リドラとショーンが、画面を覗き込む。

 そこには、美しいインターフェースと、精緻なAIアルゴリズムが動いていた。配送ルートの最適化、リアルタイムの交通情報連携、ドライバーの勤務時間管理——すべてが、シームレスに機能している。

「……すげえ」

 リドラが、感嘆の声を漏らした。

「これなら、絶対に売れる」

「本当に?」

「ああ。お前は天才だ、アダム」

 アダムは、その言葉に救われた気がした。三日間の徹夜が、報われた瞬間だった。

「じゃあ、明日、頼むな」

「任せろ。必ず契約を取ってくる」

 その夜、三人は久しぶりにゆっくりと眠った。

 明日が、彼らの本当の戦いの始まりになることを、まだ知らずに。

 翌朝。三人は市内の中堅運送会社「ハマダ運輸」に向かった。創業三十年、従業員五十名規模の、地域に根ざした会社だ。

「緊張するな」

 ショーンが呟いた。

「大丈夫。俺たちのシステムは本物だ。自信を持て」

 リドラが、いつもの自信に満ちた笑顔で答えた。だが、その手は微かに震えていた。

 応接室に通されると、社長の濱田と、物流部長の岡本が待っていた。

「で、君たちのシステムとやらを見せてもらおうか」

 濱田の表情は、懐疑的だった。大学を出たばかりの若造が、何を言い出すのか。その程度の認識だろう。

「ありがとうございます。では、ご説明させていただきます」

 リドラがプレゼンを始めた。市場分析、競合優位性、導入効果の試算——完璧な構成だった。

 だが、途中でアダムが口を挟んだ。

「あの、技術的な説明を補足させてください」

「アダム、後で——」

「いえ、今説明しないと、誤解を招きます」

 アダムは、システムのアーキテクチャを詳細に説明し始めた。API連携、機械学習モデル、データベース設計——専門用語が次々と飛び出す。

 濱田と岡本の表情が、徐々に曇っていく。

「あの……もう少し、分かりやすく説明していただけますか?」

 岡本が、困惑した様子で尋ねた。

「え? でも、これは重要な技術的特徴で——」

「アダム!」

 リドラが遮った。だが、もう遅かった。

「すみません、ちょっと社内で検討させてください」

 濱田が立ち上がった。明らかに、興味を失っている。

「お待ちください。もう一度、分かりやすく——」

「結構です。また、こちらから連絡します」

 三人は、応接室を追い出された。

 社外に出た瞬間、リドラが爆発した。

「何やってんだ、アダム! せっかくのチャンスを台無しにしやがって!」

「でも、技術的な正確性は——」

「そんなもん、後でいいんだよ! まずは興味を持ってもらうことが先だろ!」

「お前の説明が不正確だったから、補足しただけだ!」

「はあ? お前、営業の何が分かるんだよ!」

 二人の声が、路上に響いた。

「やめて、二人とも!」

 ショーンが間に入った。

「今は、反省して次に活かすことを考えよう。お互いを責めても、何も生まれない」

「ショーンは黙ってろ!」

「……っ」

 リドラの言葉に、ショーンが息を呑んだ。

 気まずい沈黙が流れた。

 リドラは、自分の言葉に後悔した。だが、もう口にしてしまった。

「……悪い。言い過ぎた」

「僕も、ごめん」

 アダムが小さく謝った。

「……帰ろう。次の手を考えないと」

 三人は、無言でアパートへの道を歩いた。

 最初の顧客獲得は、失敗に終わった。

 だが、これが本当の試練の始まりだった。

(第2話終わり)

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