第4話 青の光と、君の影
六月の柔らかな光が、アトリエの白い壁を照らしていた。
蝉の声が遠くで響き、夏の気配を運ぶ。
梨乃はいつも通り、穏やかな笑顔で絵を描いている。
記憶はまだ戻らない。
けれどその無垢な日々の中で、彼女は安心した空気を纏っていた。
キャンバスの上に鮮やかな青を伸ばす手は、以前の不安定さを失い、迷いなく筆を走らせる。
蓮はそれを見て、胸の奥に微かな違和感を覚えた。
(あの頃の彼女は、もっと脆く、もっと俺の目を必要としていた……)
「今日はどんな色を使うの?」
蓮は少し戸惑いながら、画材の前に座る梨乃を見つめる。
あの頃とは違う、柔らかく澄んだ目。
彼女の中の“自分”は、過去の痛みを忘れて、今を生きているようだった。
──蓮の胸に、静かな焦燥が芽生えた。
(俺は……もう一度、彼女に好きになってもらえるのだろうか)
アトリエの扉が静かに開き、結香が入ってきた。
長い黒髪を後ろでまとめ、柔らかな微笑を浮かべる。
その笑顔には、強さと優しさが同居していた。
「梨乃、今日の作業はここまでにして、一休みしましょう。」
梨乃は無意識に結香の声に反応して頷いた。
──その瞬間、蓮は気づいてしまった。
梨乃の中に、結香の存在が深く根付いていることを。
結香は、過去に梨乃を救った女性だった。
あの日、梨乃は事故で記憶を失い、心も深く傷ついていた。
結香は、その痛みを知りながら、そっと手を差し伸べたのだ。
「……結香さん、あのとき、本当に助けてくれたんですね」
蓮の声は静かだった。
結香は微笑んで頷く。
「ええ。誰かが必要だったの。梨乃が、自分を見失わないように」
その言葉に、蓮の胸が痛む。
──梨乃の心の一部は、もう俺のものではない。
しかし蓮は、決意を新たにする。
(俺は、もう一度、好きになってもらう――たとえ今の彼女の心が誰かに預けられていたとしても)
午後の光が差し込むアトリエ。
蓮は梨乃の隣に腰を下ろし、無言でその背中を見つめる。
「朝倉さん……?」
梨乃の小さな声に、蓮は我に返る。
「……あ、いや、何でもない」
蓮は軽く笑って見せた。
その笑顔の裏で、胸の奥がざわつくのを感じる。
梨乃は絵を描く手を止め、振り向く。
「今日は久しぶりに青空の下で描くんですね」
「そうだね……外の光を取り込むのもいいかもしれない」
蓮は少し照れくさそうに応えた。
彼女の目には、以前の痛みや迷いはなく、ただ好奇心と穏やかさが宿っている。
──こんな彼女に、俺はどう接するべきなのか。
胸の奥で、戸惑いと焦りが渦巻く。
その時、結香が静かに口を開いた。
「梨乃、今日は私も少し手伝うわね」
梨乃はにっこり笑い、うなずく。
「お願いします、結香さん」
二人のやり取りを見ながら、蓮は改めて心に決める。
(俺は……焦らない。でも、諦めない。必ず、もう一度、梨乃に好きになってもらうんだ)
外では蝉の声が一層強くなり、夏の光がアトリエを満たしていた。
その光の中で、蓮は梨乃の新しい日々に触れつつも、自分の気持ちの置き場所を探し続けていた。
夜になり、アトリエの灯りがともる。
梨乃は描きかけの絵を片付け、結香と一緒に窓際に立つ。
外では雨が静かに降り始め、夏の夜空に淡い光が揺れる。
「雨……好きですか?」
梨乃の問いに、蓮は少し戸惑った。
「そうだね……嫌いじゃない」
蓮の声は柔らかく、雨音に溶ける。
梨乃は微笑んで、窓の外を見つめる。
「雨の日って、なんだか心も洗われる気がするんです」
その言葉に、蓮は心の奥で小さくうなずく。
──今はまだ、過去の影に縛られているけれど、いつか必ず彼女の心に触れる日が来る。
結香もまた、二人の間を静かに見守る。
その視線の先にあるのは、穏やかで柔らかな日常。
だが、その日常には、蓮の心に微かな嵐を呼ぶ種も潜んでいた。
夜が更け、アトリエに静寂が訪れる。
蓮は深呼吸をして、自分に言い聞かせる。
──俺は、諦めない。必ず、もう一度、梨乃に好きになってもらう――
外では雨が音を立て、蝉の声は遠くで止んだ。
夏の夜は、まだ長く、そして儚い。
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