猫のいる暮らし

葉山弘士

猫のいる暮らし

 僕は十歳下の妻と、約十歳になるキジトラの雄猫と暮らしている。

 二人と一匹の暮らしの筈なのだが、もう一匹なのか、一人なのか、一体なのか、或いはもっとたくさんなのか……、よく判らないモノが、暮らしの中に紛れ込んでいるらしい。



        ◇



 キジトラには「まる」という名がある。


 ネットサービスの「売ります、買います」みたいなサイトで妻が見つけた保護猫だ。


 サイトにはその猫に対するコメントと、何枚かの写真が添えられていた。

「雄猫。ジョージ。生後三ヶ月。臆病な子です」

 驚いたように見開いた丸い眼が印象深い。


「ジョージ? 猫っぽないね?」

「おさる、やね」

「名前は変える……やろ?」

「そらそうでしょ。保護家の人が仮でつけた名前やろし」


 我が家に越してきた際に妻が連れてきた二匹の猫達が老衰によるものか、相次いで生涯を終えて、割と直後。僕自身も猫ロスになりつつあったこともあって、もう既に、そのジョージをお迎えする空気になっていた。

 一も二もなく、その週末には逢いに行こうということになった。



 大阪の割と有名なベッドタウンにある住宅街。その横を南北に走る幹線道路は二十代の頃から頻繁に通ることがあったが、その幹線道路から外れて住宅街に入るのは初めてのことだった。

 知らない町――。その中に「動物病院」の看板を掲げた、しかしどこをどう見ても普通の民家にしか見えない建物があった。


 サイトを通じて、訪問させてもらう旨と大凡の訪問時刻については連絡を入れておいたので、まったく問題はないと思われたが、町の明るさに反して薄暗い玄関に気圧されて、呼び鈴を鳴らすことは躊躇われた。

 扉には美しいとは言い難い紅い筆文字で「開けたらすぐ閉めること」と大きく書かれていた。

 中にいる猫や犬が外に飛び出していってしまうことを予防するための注意書きだろう。その意味では、至極納得できる張り紙ではあった。

 ただ、玄関の陰湿さも相俟って、来訪者の侵入を拒む空気を増幅させるのに、それは十分な役割を担っていた。



「どうする?」

 薄らと鳥肌が立つのを自覚しながら、僕は小さく言った。

「どうするも何も。ここまで来たんやし逢うでしょ?」

 妻はいつも強く、正しい。

 僕は爪の先で呼び鈴を押した。



 中に入って暫く、僕は息をすることができなかった。

 扉のすぐ内側には三畳程、奥に六畳程の部屋。見える範囲はそれだけ。その僅かなスーペスに、二十は優に超える扉が開け放たれたケージと、三十匹以上はいるであろう猫達――。

 まるで多頭飼育崩壊現場かと思えるそこは、薄暗く湿っぽい空気に覆われていた。

 恐らく、一匹ごとにひとつのケージが用意されているわけではなさそうで、ジョージと呼ばれるその猫は、他の二匹と一緒にひとつのケージの中で震えていた。

「シャー」とも言わず、逃げ回ることもせず、まるで何かを諦めるように。


 獣医と名乗る初老の女は、ジョージをひょいとケージから摘まみ上げ、妻に渡しながら、「ほんで、どないしはる?」といきなり訊いた。

 猫の健康状態の説明も何もない。猫をじっくりと観察する暇も与えない。辛うじて、左耳が桜耳になっていることと、短い鍵尻尾だけは確認できた。

 ジョージは妻の膝の上で何もできず、ただ丸く震えていた。

「去勢は……」

「済ませてます」

 女はこちらの質問に被せるように冷たく答える。

「他には?」

 質問を受け付ける風を装いながらも、実際にはさっさと話を終わらせたい空気が前面に出ていた。


 妻が僕のパンツの裾を小さく引っ張った。

「この子の歯、ボロボロ……」

 見れば、歯が所々抜けている。歯茎も紫に腫れている。仄かに生ゴミのような匂いが口から漏れている。

(歯槽膿漏?)

 相当に酷い状況に置かれているように思えた。

(話にならんな……)

 この譲渡は乗るべきではないと思った。


「サイトには三ヶ月って書いてましたけど、かなり大きいですね?」

 断るための理由のつもりで言った。

「はあ? 掲載した写真は三ヶ月のときのんやけど、今はもう生後六ヶ月ぐらいにはなってますわ」

 悪びれる風もない。

「ほんで、どないしはる?」

 女は容赦なく決断を促す。

「残念ながら……」

 僕がそう言い掛けたところで、妻がまたパンツの裾を引っ張った。

「この子、連れて帰る」

 僕にしか聞こえない声で、小さく呟く。

「え、でも……」

 僕に発言の機会を与えず、妻は僕のパンツの裾をギュッと握った。

「ほなら、決まりでよろしいね?」

 妻の様子でこちらの意図を悟ったのか、間髪を容れず、女が結論づけた。


「半年間は、月に一回何枚でもええんで猫の写真をメールで送って。初回のワクチン代はサービスやけど、去勢手術代の一万円だけ払ってね」

 至極事務的な説明を受け取る。

 そこには猫に対する愛情などというものは微塵も感じられない。保護猫一匹に、都度都度愛情を注いでなどいられないのかも知れないが、半ば厄介払いのようにも思えた。

 書類に必要事項を記入し、一万円を渡して、僕たちは持参してきたバスケットにジョージを入れ、自称動物病院を後にした。


 車を走らせ、幹線道路に戻る頃には、もう既に「名前はまるにしよう」と二人で決めていた。



        ◇



 まるは、我が家に来て早々に、テレビ台の一角を占拠し、我々夫婦を含め、近づく者に「シャーシャー」と歯を剥いた。

 が、その抵抗も、激しかったのは二週間足らず。徐々に我が家の空気にも慣れ始めたのか、或いは「こいつらに歯向かうのは得策ではない」と感じたのか、緩やかに丸い性格になっていった。



 一ヶ月を過ぎた頃に、一回目の写真を指定されたアドレスにメールした。

「送信先アドレスは存在しない」旨の英語のエラーメッセージがサーバから届く。

「打ち間違えてない?」

 僕が試し、妻が再度試し……と、何度かトライするも、悉くエラーとなった。

 確認のために譲渡のサイトを開こうとすると、「404 Not Found」の文字。

 教えてもらった電話番号も「現在使われておりません」と温もりがまったくない電子音声を聞くのみの結果となった。

「連絡とれんな」

「しょうがないね。やることやってあかんかってんし、もうええんちゃう?」

 僕たちは、月一度写真メールを送ることを諦めた。




 三ヶ月も経つ頃には、僕がベッドに入ると、同じようにベッドに上がってくるまでになっていた。


 寝室は六畳間にシングルベッドがふたつ並んで置かれている。実際にはベッドというよりも厚めのマットレスをふたつ並べただけに近い。

 クッションは、僕が腰痛持ちということもあって、やや硬め。まるがベッドに上がると、如何に忍び足が得意な猫であっても、足を置いた箇所が、点で浅く「ぐい」と沈む。


 僕の足元から「ぐい……、ぐい……、ぐい……」とゆっくりと、時間をかけて、枕元に近づく。

 幾ら我が家に慣れてきたとは言え、元は保護猫。恐らく警戒心があるのだろう。僕や妻が突然起き上がったりするかも知れないと、考えているのかも知れない。


 足元で「ぐい」と感じてから、次の「ぐい」が来るまで十秒から数十秒。

 灯りの落ちた寝室、眼を閉じた状態の中、その間延びした歩みと、緩やかなマットの沈み込みが、僕を眠りへと誘う。

 漸く枕元に辿り着くと、僕の顔のあちらこちらを「ふんふん」と匂った上で、酷い口臭を撒き散らしながら、小さく細く高い声で「ひゃあ」と鳴く。

 その匂いと声で、墜ちかけていた僕の意識は引き戻され、猫の頭を「ぽんぽん」と軽く叩く。

 それで満足するのだろう。尻を枕のほうへ向け、僕の脇下辺りで香箱座りを決め、ぐるぐると唸る。


 いつの間にか、それが、僕とまるの夜のルーチンとなっていった。



        ◇



 それは、まるが我が家の一員になってから一年になるかならないかの頃だった――。


 いつものように日付が変わる頃に僕はベッドに潜り込んだ。妻は疲れが溜まっていたのか、その日は先に床に就き、軽く寝息を立てていた。


 僕は仰向けになり、眼を瞑る。

 ついさっきまでモニタと対峙していたこともあり、瞼の裏にチカチカと小さな光が幾つも点滅する。

(これは眠れないな……)

 頭ではそう思うが、疲労もあったのだろう、躰も瞼も固まったように動かない。ずんとマットに押しつけられたように沈む。


 こういう状態を所謂「金縛り」というのだろうな……と、ぼんやりと感じていた。恐怖や不安はまったくない。

 そもそも僕には霊感というものはない。何となく薄気味悪いなと感じることもあるにはあるが、そこまでだ。

 それを霊感と言うならば、頻繁に金縛りにあったり、見えちゃいけないモノが見えてしまったりするらしい妻に申し訳が立たない。

 眼の疲れが退けば、そのまま泥のように眠ってしまうのだろう、と確信していた。



「ひゃあ」

 ベッドの足元で軽く掠れた声がした。

「今から傍に行きますよ」という挨拶なのだろう。これはまあ、彼にはよくある行動だ。

 ワンテンポ遅れて、足元に一歩目の「ぐい」が来た。

 彼の足が着いているであろう点を中心に、半径約三センチが軽く下に引っ張られる。

 僕の足からは五センチは離れているのだろうが、僕の右足にはその緩やかな沈み込みがしっかりと伝わる。

 その感触がなんとも心地よい。


「ぐい」

 数秒遅れて、次の感触がやってくる。僕の膝下辺りだ。

 彼が枕元に辿り着きやすいように、少し脇を開けようとするが、僕の躰は依然として動かない。

 なるほど、こんな状態でも感覚だけはあるのだな、と、僕は呑気に新たな発見を得る。


「ぐい」

 太股から三センチ離れたところ。いつもより少しテンポが速い。

(こちらの様子がいつもと違うから、心配してくれてるのかもね)

 不安げなまるの顔を思い浮かべ、僕は心でにやつく。


「ぐい……ぐい」

 明らかに速い歩みがあって、もう既に脇の下辺り。仄かに腐敗臭が届く。いつもの歯周病の匂いにしては、少し違和感があった。

(歯周病、酷くなってるかな。病院連れて行かな……)

 普段は口許を触られることを極端に嫌がるため、歯磨きもさせてくれない。化膿している箇所もあるらしく、痛がっているのだと妻は言う。


「ぐん!」

 僕の右頬のすぐ横でマットが、やや深く沈んだ。

 間髪容れず、「ぐるぐる」と喉が鳴る。

 長い尻尾がふわりと僕の顔を撫でる。

「ふんふん」と鼻を鳴らす音が近い。

 口臭が酷い。

 僕は眼を瞑りながら、眉を顰めるが、そもそも躰が動かないので、実際に眉が動いているのかどうかは判らない。

 ただ、僅かにでもぴくりと動いたのだろう。鼻を鳴らす音がピタリと止まった。


「ひゃあ」

 足元、ベッドの向こうで、まるの声がした。

 刹那、僕の顔の横で沈んでいたマットが重力から解放され、同時に僕の躰は動くことを赦された。


 ベッドの上で上体を起こすと、まるはベッドに右前足を掛けた状態で、まん丸の眼で僕の様子を伺っていた。



        ◇



 あれが何だったのかは判らない。

 実のところ、同じようなことはその後何度かあって、その度に、この眼で正体を見てやろうとはするのだが、残念ながら僕は眼を開けることができず、未だにそれ・・の姿を見届けることができずにいる。

 或いは、何かとんでもないモノが眼の前にいたとしたら……という恐怖心が、瞼を閉ざしているのかも知れないが……。




 妻は事もなげに言う。

「知らんかった? 前の子もいるし、この子を連れて来たときから、あそこにいた他の子もみんないるよ」


 妻はいつも強く、そして正しい。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

猫のいる暮らし 葉山弘士 @jim1999

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ