第3話 焼きそばの記憶、あるいは恋のKPI
社内チャットに「全社コンプラ研修(利益相反)」のお知らせが出た朝、私は自席でフリーズした。よりによって、今週。よりによって、今。よりによって、春巻き。
資料レビューの往復は淡々と進み、文末の「。」の温度でだけ親密さが上下した。アプリは灰色のまま。メールは黒字で規律正しい。そこに、社内の「利益相反チェックシート」が舞い込む。
——社外取引先担当者との個人的関係がある場合、申告のこと。
私はフォームの該当欄を見つめ、「関係」の定義を心の中で国語辞典に相談した。焼きそば二つと青のりで、関係は成立するのか。屋台の蒸気は、法律に引っかかるのか。答えは出ない。大人の国語はいつも曖昧だ。
昼、原牧から件名だけが真面目なメールが来た。
〈件名:進行確認/本文:今晩、短時間で“現場確認”いいですか。駅前の高架下、例の屋台近辺〉
“現場確認”。私の語彙が、彼の辞書に輸入されている。私は打つ。
〈了解。青のり最適化、検討します〉
送信した瞬間、胸のどこかでKPIがピコピコ点滅した。恋のダッシュボードを作れたらいいのに。エンゲージメント率、既読までの平均秒数、心拍の標準偏差。いや、怖い。
黄昏どきの高架下は、会社員の終業宣言で混み合っていた。屋台の鉄板が鳴き、ソースの匂いが空気を茶色く染める。原牧は、スーツのジャケットを腕に掛けて立っていた。週末の人と会議室の人の中間の顔。
「現場、変化なしですね」
「はい。青のりは、相変わらず最強です」
焼きそばを二つ。受け取った瞬間、彼の頬に緑の点がついた。私は反射的に、人差し指で示す。
「ついてます」
「どこに?」
「……KPI上、致命的な場所に」
彼は眉を上げ、慌ててハンカチで拭いた。取れない。私は息を吸って、ティッシュを一枚抜いた。
「失礼します」
頬に触れない距離で、丁寧に拭う。緑は消えた。残ったのは、わずかな沈黙と、焼きそばの湯気と、どう処理していいかわからない体温。
「助かりました」
「青のり、利益相反の象徴ですから」
「そんな法学部、聞いたことない」
二人で笑った。その笑いは高架の隙間から空へ逃げ、夜の最初の星になりかけて、踏切の警報で戻ってきた。
「実は」
原牧が、少し真面目な声になる。
「コンプラ研修、今週ですよね。申告の件、考えてます」
「私もです。フォームの“関係”って、何行で書けばいいんでしょう」
「青のり換算で」
「なら、まだ半袋」
会話の軽さで、不安の重さを少しずつ削る。
「僕、いくつか提案があります」
「コンサルが出た」
「一つ、業務時間内は私語を極力しない。二つ、メールは完全に業務のみ。三つ、会うときは、仕事の進捗がゼロの場所に限定する。公園とか、高架下とか、屋台とか。四つ、どちらかが“危ない”と感じたら即解散」
「五つめは?」
「……五つめは、あなたから」
私は少しだけ考えた。
「五つ、誰にも青のりをつけない」
「平和条約ですね」
「署名しましょう」
私たちは、紙ナプキンに条文を書いた。丸文字と角張った字が、同じ油染みでじわりと滲む。子どもみたいな条約。大人のための、子どもの字。
条約は意外と効いた。翌日から、会議室の私たちは、病的に真面目だった。目が合えば、資料の表に同時に目線を落とす。発言は最短距離、ツッコミは角度浅め。周囲から「急に相性が良くなった」と囁かれ、私は心の中で“条約の効果測定”にチェックを入れた。
夕方、廊下ですれ違っても挨拶だけ。エレベーターでは一台ずらす。休憩室では、自販機の前に線を一本引くみたいに距離を取る。滑稽なほど、ちゃんとしていた。
ただ、人は“ちゃんとしている”ほど、少しだけ可笑しくなる。私たちは可笑しかった。だから、夜の「現場」は続いた。
木曜の夜、現場は代々木公園だった。ベンチに並んで座り、紙コップのホットレモンを持つ。目の前では、ランナーが静かに周回する。息遣いだけが、規律を持って夜を行き来する。
「プロフィールに『趣味:ランニング(通勤ダッシュ)』ってありましたよね」
「見てたの?」
「そりゃあ」
「じゃあ、今日の私は趣味を達成してません」
「しなくていい。今日の趣味は、湯気を眺めること」
湯気は、言葉にしない会話だ。白い線が、上へ上へと消えていく。それを二人で見ていると、時間の速度が変わる。
「水瀬さん」
「ん」
「週末、もしよければ——僕の過去の“焼きそば”の話、聞いてくれますか」
「焼きそばに過去?」
「前職で、無茶なプロジェクトがあって。最終日、チームで外に出て、屋台の焼きそばを食べたんです。みんな徹夜で、味もよくわからなかったのに、あの湯気だけ、やけに覚えてる」
「敗戦処理の湯気」
「はい。たぶん僕、あの日から、湯気を信用してる。熱があるものは、嘘をつかないから」
彼が紙コップを傾ける。私は黙って頷いた。
「あなたは?」
「私の焼きそばは……大学の文化祭。模擬店の鉄板係だったんだけど、手際が悪くて行列が崩壊して、クレームの嵐で。泣きたくて、でも焼きそばは待ってくれなくて、焦げたやつを自分で食べた。しょっぱかった」
「敗戦処理の塩分」
「そう」
「じゃあ、僕らの焼きそばは、だいたい同じ場所にいる」
「同盟が結べるね」
「青のり条約の補足条項、追加しましょうか」
「第六条。過去の湯気に敬意を払う」
ホットレモンの湯気が、私たちのほほえみを柔らかく包んだ。
翌日、社内の「利益相反チェックシート」を私は提出した。該当欄にはこう書いた。
〈利害・影響なし。ただし、現場主義により“屋台付近”で偶発的に遭遇する可能性は否定しません〉
法務からの返信は「理解しました(?)」だった。疑問符付きの了解。大人の世界では、それも合意の一種だ。
週が明ける。午前の定例会で、妙な空気が流れた。役員席の端に、見慣れない男性。取引先の新任部長らしい。彼はスライドを眺め、やがてこちらを見た。
「この“春巻施策”という内部コード、誰が名付けた?」
室内の酸素が一瞬薄くなる。スライド右上、小さく「Spring Roll」とある。原牧が、え、と微かに目を瞬いた。
私だ。メールのドラフトで仮に入れたラベルが、いつの間にか残っていた。
「ネーミングの意図は?」
役員の視線が鋭くなる。私は咳払いをして、声を整えた。
「巻く、というのは“巻き込む”の意味です。関係者を具のようにバラバラにしない。パリッとした外皮で利害を守り、中の温度は高いまま届ける。……比喩です」
沈黙。
次の瞬間、役員席で一人が吹き出し、会議室に笑いが波紋のように広がった。
「うまい。温度は高いまま、ね」
新任部長も、遅れて笑った。原牧は机の下で、こっそり親指を立てた。
私は肝を冷やしながら、心の中のKPIメーターがくるりと跳ねるのを感じた。——生還。
会議後、エレベーター前で原牧が囁く。
「今の、最高でした。外皮で利害を守る」
「たまたまです。口から出たソース」
「ソースの根拠は?」
「現場です」
二人で目を見合わせたとき、扉が開いて同僚の美紅が降りてきた。彼女は私と原牧を交互に見て、にやりと笑う。
「あなたたち、最近息ぴったりじゃない?」
「条約の成果です」
「何それ。今度、詳しく」
彼女は私の耳元で、わざとらしく小声を落とした。
「恋のKPI、どこまで達成?」
「未設定です」
「じゃあ早く設定して。私はレビュー担当」
押し付けられた架空の職務。私は苦笑し、原牧は少しだけ咳払いした。
夜。私は家で、紙ナプキンの条約に追記した。
〈第七条:恋のKPIは、数えない。代わりに、湯気の高さで判断する〉
その下に、そっと書き足す。
〈参考指標:指先が触れそうになった回数、笑いが高架を抜けた回数、青のりの救出成功率〉
ペン先が止まる。
私はスマホを取って、メールを開いた。本文は短く、句読点の位置はいつも通り、整っている。
〈件名:土曜、現場〉
〈本文:新宿の屋台群に“伝説の鉄板”があるそうです。検証、どうですか〉
私はキーボードを打つ。
〈現場主義、賛成。ただし第七条の範囲で〉
送信。数秒後、返信が来る。
〈了解。湯気、最大化〉
笑いながら、私は外を見る。窓の外に、誰かの台所の湯気が白く立ちのぼって、夜に溶けた。
——恋のKPIなんて、きっと一生ダッシュボードに載らない。
だから、湯気を見よう。
湯気は嘘をつかない。
そして、私は気づく。あの夜、高架下で彼の頬についた青のりを拭った瞬間、胸の奥に小さなフラグが立っていたことに。
更新通知よりも早く。
静かに、しかし確実に。
大人の恋愛狂想曲 森の ゆう @yamato5392
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