値札のついた幸福

TS大好きマン

値札のついた幸福

 商店街の入り口に掛かった古い時計は、今日も午後三時で止まったままだった。


 針は、そこから先へ進もうとする意志をなくしてしまったみたいに、同じ場所でずっと黙り込んでいる。

 錆びた枠の隙間からはツバメの巣の名残が覗いていて、電線の上にはカラスが一羽、退屈そうに羽を膨らませていた。


 壊れた時計が午後三時で止まっている。

 それが彼女の命日だった。


 あの日から、この商店街には近づかないようにしていた。

 遠回りは面倒だったけれど、遠回りをするたびに、胸のどこかが「まだ守れている」と安堵する気がした。

 あの日を、これ以上上書きしないで済んでいる、そんな錯覚。


 それなのに、今日は足が勝手にここまで来ていた。

 きっかけは、一通の手紙だった。


 ポストの中に、白い封筒がひとつ。

 差出人の欄は空白。裏返してみると、そこにはただ一行だけ、乱暴なボールペン字で書かれていた。


 「記憶を売る店」


 似た文字を、昔にも見たことがある気がした。

 けれど、思い出そうとすると、脳の奥の方で何かがざわつき、すぐに霧のように散ってしまう。


 封を切ると、中から小さく折り畳まれた便箋が出てきた。

 便箋の表には何も書かれていなかった。

 裏側をめくると、そこには数字が並んでいる。


 「3-7-15-03」


 手紙の裏に書かれた数字。暗号か、それとも日付か。

 最初にそう思った。

 だが、どの並びも、俺の記憶のどこかを、意地悪く突いてくる。


 三。

 七。

 十五。

 ……三。


 午後三時。

 七月十五日。


 喉の奥が、急に乾いていく。

 あれからちょうど三年だと気づいたのは、その時だった。


 七月十五日。

 午後三時。

 壊れた時計。

 救急車のサイレン。

 誰かが叫ぶ声。


 そこまで思い出したところで、頭の中で、音がぷつりと途切れる。

 それ以上先へ行こうとすると、まるで見えない手が記憶のページを閉じてしまうようだった。


「……ふざけてるのか?」


 誰に向けたわけでもなく、そう呟いた。

 けれど封筒は、答えるように軽く風に揺れただけだった。


 手紙の一番下に、小さな文字で住所が書かれていた。

 見慣れた商店街の名前。

 その端に、俺が知らない番地が添えられている。


 ここまで来てしまったのは、好奇心なんかじゃない。

 たぶん、俺はずっと、こういう何かを待っていたのだと思う。

 「意味のある偶然」に見せかけた、馬鹿げたきっかけを。


 時計の下をくぐり、薄暗くなったアーケードの中へ入る。

 シャッターの閉まった店が増え、昔は人で溢れていた通りは、今では野良猫の通り道になっていた。

 埃っぽい匂いと、古い油の匂いが混じって、夏の湿気に重たく貼りついている。


 手紙に書かれていた番地は、商店街の一番奥、もう店の灯りがほとんど見えなくなる辺りだった。

 そこには一軒の店があった。

 表札も看板もなく、ただ曇ったガラス戸に、白いペンで一行だけ書かれている。


 「メモリーショップ」


 その下に、小さく添えられた文字。


 「記憶、買います/売ります」


 心臓が、一拍分ほど強く打った。


 記憶を売る店。値札のついた幸福。

 誰かが冗談で言い出しそうなフレーズが、そのまま現実にぶら下がっている。


 ガラス越しに中を覗くと、照明はついているのに、人影は見えない。

 奥の方に、棚のような影がいくつも並んでいるのが、ぼんやりと見えるだけだ。


 逃げるなら、今だ。

 そう思った。

 しかし足は、なぜか前に出る。


 戸に手をかけると、ちりん、と小さな鈴が鳴った。

 冷房の冷気ではない、どこか乾いた涼しさが、ひやりと肌を撫でる。

 外の湿った空気と違って、ここは時間ごと真空パックされたみたいに静かだ。


「いらっしゃい」


 声がした。

 カウンターの影から、白髪の女が姿を現した。

 年齢は、六十代くらいだろうか。

 ギラつきのない目をしていて、だがその奥に、無数の映像が折り畳まれているような奇妙な気配がある。


「……ここ、なんの店ですか」


 俺は、聞かずにはいられなかった。


「書いてある通りさ」


 女は、ガラス戸を顎で指し示す。


「記憶を買って、記憶を売る。あんたが思っているほど、珍しい商売じゃないよ」


「珍しいと思いますけど」


「じゃあ質問を変えようか」


 女は、カウンターの上に肘をついて、まっすぐこちらを見た。


「忘れたいことはあるかい?」


 喉が、また乾く。

 思わず、目を逸らした。


「……まあ、誰だって、一つや二つは」


「そうだね。じゃあ逆に、忘れてしまったものを、もう一度見たいと思ったことは?」


 言葉が、喉の途中で引っかかる。

 それは、ここへ来るまで、ずっと考えないようにしていた問いだった。


 彼女が最後に何を言ったのか。

 あの日、どこから来て、どこへ行こうとしていたのか。

 あの時、俺は何をしていたのか。


 事故の瞬間を思い出そうとすると、頭の中で白いノイズが鳴り、世界が一瞬真っ白になる。

 脳が、そこだけ慎重に塗りつぶしてあるみたいに、何も出てこない。


「……あります」


 ようやく絞り出すと、女は満足そうに頷いた。


「そういう顔で入ってくる客は、だいたい二度目なんだよ」


「二度目?」


「前にも来てるってことさ」


 女はさらりと言った。

 冗談に聞こえないのは、その言い方に、からかいの響きが一切なかったからだ。


「信じなくていいよ。うちは記憶を扱うけど、こっちのことを全部教える義務はないからね。あんたは、あんたの用事だけ済ませればいい」


 そう言うと、女はカウンターの下から古びたカードケースを取り出した。

 名刺大のカードが何十枚も差し込まれている。


「封筒を持って来たんだろう?」


 驚いて、ポケットを探る。

 封筒は、確かにそこにあった。

 女は、もう知っているというふうに頷く。


「裏を見な」


 言われるまま、便箋の数字を見る。


 3-7-15-03


「この数字はね、棚と段と列と、時間さ」


 女は、カードケースから一枚のカードを抜き取り、さらさらとそこに何かを書き始めた。


「三番棚、七段目、十五番目。午後三時。――あんたに用意されてる記憶の座標だよ」


「俺に用意……?」


「そういう仕組みなんだよ。ここは」


 女は、書き終えたカードを俺に差し出す。

 そこには俺の名前と生年月日、そして数字と同じ配列が記されていた。

 なぜ俺の名前を知っているのか、問う気力が喉の途中で萎える。


「こっちへおいで」


 店の奥へと案内される。

 歩くたびに、床板が小さく鳴った。

 何かの薬品と、古い紙の匂いが混ざり合っている。


 奥には、天井まで届く高さの棚がいくつも並んでいた。

 図書館の本棚に似ているが、そこに収められているのは本ではない。

 ガラスの小瓶だった。


 一つ一つの小瓶に、紙のラベルが貼られている。

 名前。

 日付。

 短いメモ。

 そして、値段。


 女は、慣れた様子で棚を数え、三番目の通路に入っていく。

 七段目まで脚立を登り、十五番目の小瓶を指先でつまみ上げた。


「これだよ」


 彼女は、俺の目の前に、その小瓶をそっと掲げる。


 瓶の中には、淡く黄色がかった液体が半分ほど満たされていた。

 液体の中には、細かい光の粒が浮かんでいる。

 光はゆっくりと渦を巻き、時折、何かの輪郭を結びかけては、すぐにほどけていく。


 ラベルには、見慣れた名前が書かれていた。


 ――彼女の名前だ。


 その下に、日付。

 七月十五日。


 そして、時間。

 午後三時。


 花火の前触れみたいに、胸の中で鼓動が高鳴る。

 女は、俺の顔をじっと見つめた。


「これが、あんたの欲しがっていた記憶だよ」


「……いくら、ですか」


 声が、かすれてしまう。


「金の額でいえば、大したことないさ」


 女は、ラベルの隅を指で弾く。

 そこには、確かに金額が書かれていた。

 俺の財布の中身でも、ぎりぎり払えそうな数字。

 しかし女は、首を振る。


「ただし、うちは現金だけの店じゃない」


「……どういう意味です?」


「支払いは半分が金、半分が記憶だ」


 女はふっと笑う。


「簡単に言えば、その子の記憶を買う代わりに、あんたの記憶を少し売ってもらうのさ。等価交換ってやつ」


「俺の、記憶を?」


「そう。たいていの客はね、『どうでもいい記憶を持っていけ』って言う。

 でも、どうでもいい記憶なんて、誰にもいらない。

 美味い飯の味とか、初めて買ったゲームの起動画面とか、そういう、ちょっとした幸福が、高く売れる」


 女は、棚の別の瓶を指さす。

 そこに貼られたラベルには、「初めてのキス」「父の肩車」「夏祭りの金魚」などと書かれていた。

 そして、それぞれに値札。


 値札のついた幸福。

 それらは全て、誰かの胸の中から抜き取られた断片なのだろう。


「……もし、支払いきれなかったら?」


「簡単な話さ。足りない分は、名前だとか、顔だとか、声だとか、そういう“輪郭”から削られていく」


 女は、小瓶をくるりと回した。

 中の光が、ほのかに瞬く。


「この子のことを、もっとはっきり思い出す代わりに、この子を“思い出すあんた自身”が、少し曖昧になる。

 ……それでも、買うかい?」


 愚問だった。

 俺はうなずいていた。


 支払いは、拍子抜けするほどあっさりと終わった。

 財布から出した現金と、女の手の中に重ねられた、小さな金属の器具。


「指を、ここに」


 女に言われるまま、器具の先端に右手の人差し指を乗せる。

 冷たい金属の感触。

 次の瞬間、ピリ、と静電気のような痛みが走った。


 指先から何かが抜き取られていく感覚がした。

 血でもなく、熱でもなく、もっと曖昧で、つかみどころのない何か。


 目を閉じると、夕暮れの公園が見えた。

 ブランコのきしむ音。

 ベンチに座る二人分の影。

 あの時、彼女が笑いながら言いかけた言葉。


 それらが、フィルムを巻き戻すように遠ざかっていく。

 掴もうとした指先から、するりと滑り落ちる。


「……ちょっと、待っ――」


 言い終える前に、映像はぷつりと切れた。

 目を開けると、女はもう器具を引っ込めている。


「はい、お支払い完了。いい取引だったよ」


 軽い口調とは裏腹に、その目はどこか疲れていた。


「取られたのは、何の記憶ですか」


「教えられない決まりだよ」


 女は肩をすくめる。


「大事だったかもしれないし、そうでもなかったかもしれない。でも、あんたが今ここに立ってるってことは、“それでもいい”ってどこかで思ってるってことだ」


 言い返せなかった。

 女は、小瓶をカウンターに置く。


「さあ、本番だ。

 テーブルに座りな。こぼすと大変だから、気をつけて飲みなよ。――これは、あの子の“最後の一時間”だからね」


「最後の……」


「あんたが知らないまま、時間からこぼれ落ちた、一時間」


 女は、静かに微笑んだ。


「見たいんだろ?」


 俺は、喉の奥で何かが鳴るのを感じながら、頷いた。


 小瓶の蓋を開けると、ほとんど匂いはしなかった。

 ただ、ほんの微かに、シャンプーのような甘い香りが鼻をかすめる。

 彼女の髪の匂いと、似ている気がした。


 液体を口に含む。

 味はなかった。

 冷たさだけが舌をなぞり、そのまま喉の奥へと落ちていく。


 世界が、一度、真っ黒になる。


 次の瞬間、まぶしい光が瞼の裏を焼いた。


 目を開けると、そこは見慣れた部屋だった。

 だが、俺の部屋ではない。


 窓際に観葉植物。

 本棚には、俺が貸した本も混ざっている。

 ベッドの上には、ぬいぐるみが一つ。

 全部、知っている。


 ここは、彼女の部屋だ。


 ……いや、「彼女の目」を通して見ているのだと気づくまで、少し時間がかかった。


 手を動かそうとすると、視界の端に細い腕が動く。

 スマホの画面が覗き込まれる。

 そこに映っている時間は、午後二時ちょうど。


『――よし』


 声が喉から漏れた。

 それは、俺の声ではない。

 彼女の声だ。


 胸の奥がずきりと疼く。

 しばらくの間、俺は、彼女の身体の中に閉じ込められたもう一人の同乗者みたいに、ただその行動を見ているしかなかった。


 彼女は鏡の前に立ち、髪を結び直す。

 何度も角度を変え、前髪を整える。

 微妙な色のリップを塗り、笑顔の練習をする。


『こんなの、別に……意識してないし』


 そう言って、自分にツッコミを入れて笑う。

 笑い声は、少し震えている。


 ベッドの上には、包み紙に入った箱が置かれていた。

 水色のリボン。

 包装紙には、小さな星の模様。


『渡さなきゃ』


 箱の上に、手紙を一通置く。

 封筒には、俺の名前が書かれている。

 裏面を、彼女の指が撫でる。


『……これでいいかな』


 裏には、短いメッセージ。

 そして、その下に日付と時間。


 七月十五日

 十五時


『ちゃんと、言えるといいな』


 彼女は封筒を抱きしめ、一度だけ深呼吸をした。

 心臓の鼓動が、彼女の胸の奥で跳ねるのが、こちらまで伝わってくる。


 それから、彼女は部屋を出た。


 階段を降りる音。

 玄関の靴。

 外の熱気。

 蝉の鳴き声。


 全てが、生々しい。

 俺が三年前に失った感覚が、今、この身体の中で蘇っている。


 商店街へ向かう道。

 彼女は何度もスマホを見ては、時間を気にしている。

 午後二時三十分。

 約束の時間まで、まだ少しある。


『あいつ、来るかな』


 小さく呟く。

 あいつ。

 それは、俺のことだ。


 あの日、彼女は、俺と会う約束をしていた。

 だが、俺は仕事が長引き、連絡もできず、結局遅れてしまった。


 ……はずだった。

 そこから先の記憶が、俺にはない。

 事故のことも、彼女の最後も、全部、ぼやけている。


『ちゃんと、言わなきゃ』


 彼女は、歩きながら封筒の角を指でいじっている。

 何度も、何度も。


『好きでした、って、過去形にしないように』


 小さく笑う。

 笑い声の奥に、泣きそうな気配が混じっているのを、俺は知っている。

 だけど、その時の俺は知らなかった。

 あの日の俺は、きっと、別の場所で、仕事の愚痴に小さなため息でもついていたのだろう。


 商店街の入り口が見えてくる。

 あの壊れた時計が、まだ動いている頃の姿で、そこに掛かっている。

 針は二時五十二分を指していた。


『……あとちょっと』


 彼女は、時計を見上げて微笑む。

 その瞬間、遠くからサイレンのような音が聞こえた。

 いや、それはサイレンではなく、風を切るトラックのエンジン音だったのかもしれない。


 目の前の信号が点滅し始める。

 彼女は足を早める。


 封筒を持つ手に、汗が滲む。


『あいつ、ちゃんと覚えてるかな、今日』


 信号が青に変わる。

 彼女は一歩、踏み出す。


 そして世界が、音を失った。


 白い光。

 吹き飛ばされる視界。

 宙に浮く感覚。

 誰かの悲鳴。


 彼女は何も理解できないまま、空へ放り出される。

 そのほんの一瞬だけ、時計の文字盤が見えた。


 針は、午後三時を指していた。


 封筒が手から離れる。

 空中でくるりと回転し、裏面がこちらに向く。


 七月十五日

 十五時


 そして、その下に、震える文字で書かれていた言葉。


 ――「今でも、好きです」


 地面が迫る。

 光が砕ける。

 痛みも、恐怖も、何も感じる暇がない。


 最後に浮かんだのは、俺の顔だった。

 彼女の記憶の中の俺は、いつもより少し眠そうで、それでも笑っていた。


 ごめん。

 その言葉が、喉の奥で形になる前に、世界は暗転する。


 息を吸った。

 肺に空気が急激に流れ込み、咳き込む。


 目を開けると、俺はまた、あの店のテーブルに座っていた。

 手の中には、空になった小瓶の蓋。

 指が小さく震えている。


「……っ、」


 喉から声が漏れる。

 言葉にならなかった。


 胸が痛い。

 さっきまで感じていた彼女の体温が、急速に失われていく。

 その代わりに、俺自身の記憶の中で、欠けていたピースが戻ってきていた。


 あの日、仕事が長引いたわけじゃなかった。

 俺は、あの約束を忘れていた。

 前の日に飲み会があり、寝坊して、スマホを充電し忘れ、起きたのが午後三時を少し回った頃。


 ニュースで事故を知ったのは、夕方だった。

 「知っているようで知らない商店街の事故」

 そうアナウンサーが言ったとき、そこでようやく思い出した。


 あ、今日、約束してたんだ。


 その瞬間、何かが折れる音がした気がした。

 それから先の記憶は、ほとんど全部がグレーだった。

 俺の脳は、都合の悪い部分を、徹底的に削り取っていたのだ。


「……最低だな、俺」


 絞り出すように呟くと、女の笑い声が聞こえた。

 嘲笑ではなく、どこか諦めの混じった笑いだった。


「最低かどうかを決めるのは、あんたじゃないよ」


 女は、カウンター越しにこちらを見ていた。


「でもまあ、人間なんてだいたいそんなもんだ。大事な約束も忘れるし、光るものばかり追いかけて、足元の石につまずく。だからこそ――こういう店が成り立つ」


「……他に、方法はなかったんですか」


「何の?」


「彼女と、ちゃんと向き合う方法です。

 こんな形で、最後の一時間だけ覗き見るんじゃなくて……」


 女は少し考えるふりをしてから、首を振った。


「生きてる間に向き合えなかった相手に、死んでから向き合おうとするなら、だいたいこういう“いびつな”やり方になるよ。

 神様に頼むか、酒に溺れるか、記憶をこじ開けるか。どれも、あまり上品な手段とは言えない」


「それでも……知りたかったんです」


「知っただろう?」


 女の言葉に、何も言い返せなかった。


 彼女は、ちゃんと来ていた。

 時間を守って、俺のことを考えながら、怖がりながら、それでも向き合おうとしていた。

 俺は、その時間すら忘れていた。


 今更、知ったところで、何が変わるわけでもない。

 それでも、知らないでいるよりは、ずっと、ましだと思った。

 痛みとしてでも、ちゃんと胸に刻むことができるのなら。


「……ひとつ、聞いてもいいですか」


「どうぞ」


「さっき、俺から抜き取った記憶って、何だったんですか」


「教えられないって、さっき言ったろう」


 女は、少しだけ寂しそうに笑った。


「ただ、ひとつだけ言えるとしたらね――さっきあんたが見た、夕暮れの公園の記憶。あれはもう、ここにはないよ」


 さっき、器具を通して遠ざかっていった光景。

 ブランコと、ベンチと、彼女の笑い声。


 胸の奥を探る。

 何かを思い出そうとする。

 だが、その場面だけ、霧がかかったようにぼやけている。


「……あの時の、会話の内容が、思い出せない」


「代わりに、今日ここで見たものが増えた。

 世界は、いつだってそうやってバランスを取ってるんだよ」


 女はそう言って、カウンターの引き出しを開けた。

 中から、一通の封筒を取り出す。


 白い封筒。

 見覚えのある字。


「これ、あの子から預かってたやつだ」


 女は封筒を俺に差し出す。


「事故の少し前に、この店に寄ったのさ。

 ここで、あんたの愚痴をこぼしてね。

 『あの人、絶対約束忘れてる』って」


 喉が痛む。

 封筒を受け取る手が震える。


「じゃあ、彼女は――この店のことを知ってた?」


「そういうこと。

 人によっては、前回の来店記憶を丸ごと消して帰る人もいるからね。あんたも、その口」


 女は肩を竦める。


「開けなよ。

 それを渡したら、うちはお役御免だ」


 俺は、封筒の口を破いた。

 中には便箋が一枚。


 表には、きれいな字で書かれている。


 「○○へ」

 俺の名前だ。


 そして、少し間を空けて、文章が続く。


 ――ごめんなさい。


 謝るのは私の方なのに、っていつも思う。

 あなたはきっと、ぎりぎりまで私のことを思い出さない。

 それでも、私はあなたが好きだと思う。


 だから、これは告白というより、忘れられるための、けじめみたいなものです。


 もし、今日あなたが来なくても、この手紙はきっと渡らないままになる。

 そうなったら、私の気持ちは、この紙ごと、世界から消えるだけ。

 それでもいいかな、って思った。


 だって、あなたの中には、もう別の大事なものがたくさんあるから。


 私は、その隙間にちょっとだけ居させてもらえただけで、十分しあわせでした。


 ――でも、本音を言うと、やっぱり会いたいです。


 あなたが遅れてきても、全部忘れてても、それでもいいから。

 ちゃんと、顔を見て、「好きです」って言いたい。


 だから、これは私のわがままです。

 今日、午後三時。

 あの商店街の時計の下で、待ってます。


 そこまで読んだところで、文字が滲んで見えなくなった。

 便箋が、涙でぐしゃぐしゃになっていく。


 最後の方には、震える字でこう書かれていた。


 ――もしこれをあなたが読んでいるなら、それはきっと、私がもういない世界なんだと思う。


 ――それでも、読んでくれてありがとう。


 ――今でも、好きです。


 文字が、写真のように胸に焼き付く。

 しばらくの間、何も考えられなかった。


「……ひどい店ですね」


 顔を上げて言うと、女は少しだけ目を細めた。


「そうかい?」


「人の一番どうしようもないところを、全部見せつけてくる」


「それでも、来るのはあんたたちの方さ」


 女は、カウンターの上に新しいカードを一枚置いた。

 そこには、今日の日付と、俺の名前と、一つの番号が書かれている。


「これは?」


「今日のあんたの記憶も、いずれ誰かが欲しがるかもしれないからね。

 “過去の自分と向き合おうとした男の一日”ってやつ。

 意外と人気があるんだよ、こういうの」


「売らないでください」


「売るかどうかを決めるのは、未来のあんただよ」


 女は、意味ありげに笑う。


「また来るさ。

 あんたはもう、この店の場所を知ってる。

 そして、忘れたいことも、まだ山ほどある」


「……来ないように努力します」


「それも、どうだかね」


 女は手をひらひらと振った。


「さあ、お帰り。

 時計はもう、あの時のままじゃないよ」


 店を出ると、外の空気が重くのしかかってきた。

 アーケードの天井から差し込む光が、さっきよりも傾いている。

 商店街の奥から、誰かがシャッターを閉める音がした。


 入り口まで戻ると、あの時計が見えた。

 壊れたままのはずの針が、ゆっくりと動いている。


 時間は、午後四時を少し回ったところ。

 針は、何事もなかったみたいな顔をして、次の分へ、次の秒へと進んでいく。


 俺は、ポケットの中の封筒を握りしめた。

 彼女の手紙。

 そして、最初に届いた、あの「記憶を売る店」と書かれた封筒。


 ふと、違和感が走る。

 最初の封筒を取り出して裏を見た。


 そこにあったはずの数字が、消えていた。

 代わりに、短い一文が残っている。


 ――「約束、守れなかったね」


 字は、彼女のものだった。


 俺は、ゆっくりと目を閉じた。

 胸の奥に、さっき見た光景が再び浮かび上がる。

 彼女の笑顔。

 彼女の不安。

 彼女の最後の一瞬。


 それらはもう、フィクションでも幻でもない。

 ちゃんと、俺の罪として、そこにある。


 涙がまた、頬を伝う。

 もう拭おうとは思わなかった。


「……ごめん」


 誰にでもなく、そう呟く。

 風が、商店街の奥から吹いてきて、手紙の端を揺らした。


 この先、俺がどう変わるのかなんて、まだ分からない。

 また、別の幸福を売り払いに、あの店へ行ってしまう日が来るのかもしれない。

 その時、今のこの痛みを、値札つきで手放してしまうかもしれない。


 それでも今は――この痛みだけは、ちゃんと抱えて帰ろうと思った。


 壊れていた時計は、もう止まっていない。

 俺だけが、三年前の午後三時に取り残されていたのだ。


 そろそろ、針を進めなきゃいけない。

 たとえ、その先の時間が、彼女のいない世界だとしても。


 そう思いながら、俺は歩き出した。

 商店街を抜ける風が、少しだけ冷たく感じられた。

 その冷たさに身を縮めながらも、どこかほっとしている自分がいることに、気づいてしまった。


 それもまた、値札のついた幸福の一つなのかもしれない。

 誰にも売らずに抱えていられるようにと、願いながら、俺は家路へと足を進めた。

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