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綾女さんの、この世のなにを掴むにも不自由しそうなほどきれいな指が、背中のファスナーを器用に腰まで下ろす。都合彼女の胸に抱きこまれるような姿勢になった私は、甘い香りを嗅いだ。落ち着いた花の香りみたいな、綾女さんの香水のそれではなくて、もっと深く、彼女の血や肌が香っているような香り。これまでどんな女性からも、男性からも嗅いだことのない、腰から溶けそうになるような甘美さ。その香りの中では、私は不思議と自由でいられた。こんな香りに包まれたなら、どんなに乱れても仕方がない。そんな、開き直りにも似た自由さだった。
綾女さんの手に従ってワンピースを脱ぎ、ベッドに上がり、身体をなぞる彼女の指に身を任せる。背骨が羽毛になったみたいな、極上の快楽。それだけが私の周りを漂っていた。
これまでの私の性体験が未熟だからだろうか。いや、それだけが理由とは思えない。とにかくそれは、これまで味わったことのある性行為とは、まるで違うものに感じられた。これがセックスならば、これまで私が知っていたものは、違う名前で呼ぶべきものだ。快楽の質が、手触りが、身体を覆う温度が、香りが、あまりにもかけ離れている。
クリーム色の天井を、腑抜けたみたいに見上げていた両目が、じわりと視界を滲ませた。それが涙だと気が付いたのは、綾女さんが涙の雫をすべらかな舌先で拭ってくれてからだった。
「なぜ泣くの?」
綾女さんが囁く。ほんの小さな囁きだ。今、私と綾女さんの間には隙間なんてひとつもなくて、こうやってごく小さく囁くだけで言葉が通じる。それを知ってしまうと、涙が止まらなくなった。涙は細く細く、でも確かに私の両目から流れ続けた。
「……分からない。」
私は、綾女さんよりはやや大きな声でそう返した。綾女さんとあまりにも近くにいることが、怖くなっていたのだ。綾女さんの先細りのうつくしい指は私の中にあって、私たちの肌は、吸い寄せあうみたいにぴたりと張り付いている。こんな感覚を味わうのは、生まれてはじめてだった。夫との性交でさえ、一度たりとも私をこんな場所まで連れてきたことはなかった。
綾女さんは、それ以上言葉を重ねはしなかった。言葉を落とすような隙間さえ、私たちの身体にはなかったということになる。私はその事実に怯えたのだ。
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